この頃はまだ
どうするか悩んでいる孫権に、ある報告が齎された。
「敵将文聘率いる援軍が、数日の内に攸県に到着いたしますっ」
付近を偵察していた兵からの報告に、魯粛は溜息を吐いた。
そして、兵を下がらせた後、共に報告を聞いていた孫権に進言した。
「殿、最早撤退しかありません」
「何を言う。援軍など、先に撃退すればよいであろう。攸県は軍の一部で包囲すれば、挟撃される事もなかろう」
孫権はまだ戦うつもりの様であったが、魯粛は首を横に振った。
「程公の動きが不審という事で、将兵は不安に陥っております。其処に加えて会稽郡で山越が暴れるという事で、兵の士気も落ちております。其処に敵に援軍が来たのです。最早、兵は戦う気概もないでしょう」
魯粛が自軍の状況を淡々と述べるのを聞いて、孫権はがっくりと項垂れた。
最早、柴桑に撤退し大勢を整えてから、山越を討つしかないと分かった様であった。
「・・・・・・忌々しいが仕方がないな。全軍に撤退を命じろ」
「はっ。それで、殿は誰になさいますか?」
「そうだな。此処は呂蒙にするか」
「呂蒙ですか」
孫権が出した名前を聞いて、魯粛は不満そうな顔をしていた。
呂蒙は孫策の代から仕えている武将で、その武勇は家中でも有数の剛の者であった。
だが、魯粛は呂蒙の事を見下していた。
それは呂蒙があまりに学が無さすぎるからだ。
家が貧しく、学びを得る事が出来なかった事は、不憫だと思っていた。
その為か、今でも報告書をあげる時は、部下に口述筆記させていた。
それを聞いた魯粛は、人に見せる報告書を人に書かせるのはどうかと思い、一度学問を学んではどうかと忠告したのだが。
『武将たる者、主君への忠義と敵を倒す武勇と、自分の名と主君の名を書く事が出来れば十分。それに、軍務で忙しい中で学ぶ時も無い!』
と言い、学問を学ぶ事を断った。
その後、魯粛は何度も説得するが、呂蒙は頑として聞かなかった。
何度言っても意思を変えないので、魯粛も匙を投げた。
それ以来、魯粛は呂蒙の事を侮るようになった。
史実でも、孫権に諭されるまで、学問を学ぶ事は無かった為『呉下の阿蒙』と呼ばれていた。
呉下とは呉に居るという意味で、阿は親しみを込めて名前の前に着けられるが、意味合い的に言えば『〇〇君』か『〇〇ちゃん』というニュアンスになる。
ちなみに、小は姓の前に着けられるが、意味合い的に言えば阿と同じではあるが、阿は親しい仲の年長者が後輩、若しくは同年代の人を私的の場で呼び合う時に使われる事が多い事に対して、小の場合は年長者が職場にいる部下や後輩に使われる。
また、阿の方は南方出身の者達が使うが、北方出身者は使わないという違いもある。
余談だが、曹操は幼名に阿瞞と劉備の息子である劉禅の幼名に阿斗と名付けられているが、曹操の出身は豫洲なので中原だが南方に近い為、劉禅は荊州で生まれた為、そう呼ばれる様になったのだと思われる。
なので、この言葉を訳すると呉にいる蒙ちゃんか蒙君という事になる。
又は蒙は愚かという意味もあるので、呉にいる愚か者という事にもなる。
そのような者に殿を任せる事に魯粛は不満であったが、主命という事で呂蒙を呼ぶ事にした。
少しすると、人に呼ばれて呂蒙が孫権の元に訪れた。
二十代後半の男性で、精悍な面構えをしており、心持ち吊り上がった目に毛虫の様にゲジゲジで太い眉毛を持っていた。
口髭ともみあげと顎髭が繋がるように生やしていた。
「呂子明。お呼びとの事で参りました」
「よく来た。会稽郡で山越が暴れている事は知っているか?」
「はっ。既に聞き及んでおります」
孫権がそう述べるのを聞いて、呂蒙はその討伐の軍の将になれと命じられるのだと思っていた。
「それに加えて、文聘率いる敵の援軍が数日中に来る様だ」
援軍が来ると聞いて、呂蒙は顔色を変えた。
「領内で蛮族が暴れ、敵の援軍が来ると知れば我が軍の士気は落ちるであろう。敵の援軍が来る前に、我らは撤退する。呂蒙、お前は三千の兵と共に殿となれ」
「承知いたしました! この命と我が武を使い、殿の任を果たしますっ」
呂蒙は命を聞くなり、一礼しその場を離れて行った。
その背を見送った孫権はポツリと零した。
「あやつは、苦難を厭わず、勇猛果敢で胆は据わっているが。このままでは、それだけの男にしかならんな」
孫権の呟きに、魯粛は何も言わなかったが、内心でその通りと思っていた。
暫くして、孫権は全軍に撤退の命を出し、殿を呂蒙に任せて柴桑に撤退した。