安堵できたからか
曹操が鄴に帰還している頃。
荊州武陵郡漢寿県。
城内にある大広間にて、劉表は許昌にいる密偵からの報告を受けていた。
「そうか。曹操は、雍州と冀州で起きた反乱により南征を取り止めたか」
「はっ。今は反乱の鎮圧を行っている模様です」
密偵の報告を聞いた劉表は安堵の表情を浮かべた。
曹操の南征をするという報を聞き、家臣と対応を協議していたのだが、突然鄴に帰還したので、拍子抜けした気分であった。
そして、密偵に詳しく調べさせた結果を聞いていた。
共に報告を聞いていた蒯越が口を開いた。
「曹操は暫くの間、南征は行わないでしょう。殿、これは好機ですぞ」
「好機とな?」
「はい。今こそ、江夏郡にいる劉備めを討ち取るのですっ」
蒯越の意見を聞いて、蔡瑁は述べた。
「劉備を討ち取る事に反対は無い。孫権は劉磐殿が抑えてくれるので問題は無い。だが、黄祖だけで討てるのか? 未だに城を落す事も出来ないではないか」
難癖をつけている様にしか聞こえないが、一年前から孫権は劉磐の影響により、劉備に満足に援軍を送る事は出来ない状態であった。
そんな状態であるというのに、黄祖は劉備が籠る西陵県を落すことが出来なかった。
何度も攻め込んでいるのだが、劉備は籠城しつつ夜襲奇襲といった奇策により、黄祖は撃退されるのであった。
調べてみると、劉備の下には単福と馬順の二人が策を献じているという事が分かった。
単福については全く分からなかったが、馬順については、襄陽の名家である馬家の五人兄弟の長男という事が分かった。
「確かに、劉備の配下である張飛の武勇に加えて、単福と馬順の智謀により落城する事が出来なくなっている様です」
「であろう。単福については分からんが、馬順の方は流石は馬氏五常の一人。認めたくはないが、流石は世に名を知らしめているだけはある。敵ながら見事としか言えん。張飛と単福と馬順の三人がいる以上、黄祖では西陵県は落す事が出来ないでしょう」
蒯越も敵ながら見事と言いたげな顔をしながら言うと、蔡瑁は鼻を鳴らした。
「ですが、其処に蔡瑁殿率いる水軍が加われば、話は変わります。荊州水軍が相手では、劉備も敵わないでしょう」
「ふむ。蒯越殿はわたしに黄祖と共に西陵県を攻めろと言いたいのだな」
蔡瑁が訊ねると、蒯越はその通りと頷いた。
「確かに、我が水軍が相手では、劉備とて敵わないだろう。だが、水軍が出陣すれば、襄陽に居る曹操軍が漢寿攻め込んでくるかも知れんぞ?」
蔡瑁の指摘に、蒯越は冷静であった。
「その可能性は無いとは言い切れません。ですので、此処は陽動の軍を動かしましょう」
「陽動だと?」
劉表が何をするのか気になり、口を挟んで来た。
「はい。文聘殿に一万の兵を率いて貰い北上し、襄陽を攻撃する素振りを見せるのです。そうすれば、襄陽にいる曹操軍もそちらに警戒を向けるでしょう。その間に、蔡瑁殿率いる水軍に河を下り、黄祖殿と共に西陵県を攻めるのです。如何に劉備といえど、守る事は出来ず落城は免れないでしょう」
蒯越が話を終えると、劉表は膝を叩いた。
「見事な策よ。良し、皆の者、戦の支度をせよっ。劉備を討ち取るのだ!」
劉表の命に従い、家臣達は準備に取り掛かった。
出陣の準備に取り掛かっている中、蔡瑁は準備を部下に任せて、一人離れて行く。
城内には、色々な店がある。
その中の一つで屋号を『膠飴』と書かれている店があった。
蔡瑁は店に入ると、店員が出迎えてくれた。
「これはこれは、徳珪様。いらっしゃいませ」
店員は愛想よく挨拶するのを見て、蔡瑁は周りを見て、誰も居ない事を確認した後、口を開いた。
「此処で文を書きたい。部屋を用意してくれ」
蔡瑁の言葉を聞いて、店員は一瞬だけ目を細めたが、直ぐに笑顔を浮かべた。
「畏まりました。奥ヘどうぞ」
店員に案内されて、そのまま店の奥ヘ案内された。
奥にある一室に案内された蔡瑁は室内にある席に腰を下ろした。
席にある書几には、筆と硯が置かれていた。既に擦られており、墨があった。
蔡瑁は筆を取り、紙に字を書いていく。
書き終えると、封に入れて部屋を出た。
部屋を出ると、対応してくれた店員に封に入っている文を渡した。
「これを陳留へ」
「はい。畏まりました。いつも御贔屓にして頂き感謝しております。つまらない物ですが。どうぞ」
店員は皮袋に入った物を蔡瑁に握らせる。
蔡瑁は袋を懐に入れると、店を出て行った。
店を出た蔡瑁は歩きながら、懐に手を入れて袋を出した。
袋の口を緩めると、袋の中を覗く。中に入っていたのは丸い球であった。
蔡瑁はそれを摘まみ口の中に入れると、口の中で転がした。
転がる度に、口の中に甘みが広がった。
蔡瑁が口の中に入れたのは、水飴を固めて丸くした物であった。
(しかし、考えたものだな。密偵に店を作らせて、商売をさせつつ情報収集させるとはな)
口の中で飴を転がしながら蔡瑁は感心していた。
先程訪れた膠飴という店は、曹昂直属の三毒が経営する店であった。
去年の内に出来ており、出来た事が伝えられた蔡瑁はちょくちょく通っていた。
(店に行き、誰にも見られる事なく文を書いて出す事が出来るのは便利なものだ。家臣の誰かが、わたしの行動を不審に思っても、飴を買っていると言えば疑われる事は無くなるのだからな)
飴を売っているのは確かなので、誰も間者が経営しているとは思えなかった。
だから、こうして文を安心して出せると思いながら、蔡瑁は来た道を引き返していった。