約束
「今、何と申したのだ?」
部屋に通された王異の口から出た言葉を聞いた司馬懿は、聞き間違いかと思い訊ね返した。
「どうか。わたしを曹車騎将軍の配下に加えて頂きたいと申しました」
王異は頭を下げたまま、先程の述べた事を告げた。
「お主は女人であろう。女人を将にするなど、前代未聞ではないか」
隣で話を聞いていた法正も口を出した。
「此度の戦で、わたしは軍を率いました。実績はあります。ですので、問題は無いと思います」
「確かに実績はあるが・・・」
司馬懿はどうしたものかと考える。
此度の戦は勝利こそしたが、それで将才があるかどうかは別であった。
(さて、どうするべきか・・・)
思考する司馬懿は改めて王異を見る。
長く籠城をしていた事と、夫である趙昂が戦死した事で、顔が少しやつれ目も虚ろであった。
今にも倒れそうな程に儚いように見えて、全身から触れれば切れる刃の様な雰囲気を出していた。
まるで、亡霊を見ている様な気分になっていた。
(女人という事を除いても、多くの将を見て来たが、これ程の鬼気を持った者は見た事が無い)
案外使えるかもしれないと思う司馬懿。
法正の方は、この王異は才はありそうだが勝手に登用を決めては駄目と思ったのか、一度陳留に持ち帰り、主である曹昂の判断を仰ごうとしていた。
(殿の事だから、存外『女人でありながら将になりたいとは、変わった事を言うな。面白い』とか言って、登用するかも知れんがな)
それなりに仕えているので、曹昂の性格が分かる法正はそう思っていた。
司馬懿達が黙るので、登用は駄目と思ったのか、王異はある事を口に出した。
「嘗て、曹丞相はこう申していた。唯才是挙と」
それを聞いた司馬懿達は目を剥いた。
曹操が発した求賢令に記されている一文であった。
才能さえあれば、人格も出自も問題にしないという意味だが、王異がそう口にするのは、暗にこう言っているのだ。
『才あれば、誰でも問題にしないのなら、女性を登用しても良いのでは?』
そう言われては司馬懿達は何も言えなかった。
自分でも分かるくらいに人格が優れていないのに、登用されているのは才があるからだ。
「はははは、これは一本とられたな」
「これは何も言えませんな。しかし、我らで勝手に決めるのは越権と言えますな」
「そうよな。王異殿。一度陳留に持ち帰り、我らの殿の判断を仰ぎたい。なに、悪いようにはしない」
「・・・本当ですか?」
後で返事をくれると言うが、後になって知らぬと言われても困ると思った王異は確認の為に訊ねた。
「疑う気持ちは分かる。では、一度陳留に来られよ」
「戦は終えたばかり故、まだ色々とする事があるであろう。それが終わった頃に陳留に来られよ。我らも殿に口添えする」
「・・・・・・分かりました」
王異は司馬懿達の言葉を信じる事にし、一礼し部屋を後にした。
部屋を後にした王異は長廊を歩いていた。
(本当に登用してくれるか、不安だけど。これしか道が無い)
歩きながら、そう考える王異。
本心を言うのであれば、司馬懿達に馬超を追撃して貰い首を取るべきと進言したかった。
馬超が逃亡先の目途は付いているのだが、それが何処なのか分からないので、言えなかった。
(漢中か。羌族の下か。または涼州隴西郡の枹罕県のどれかでしょうね)
王異は、馬超がこの三つの何処かへ逃げ込んだと予想していた。
(一番有力なのは漢中の張魯だけど、今回の馬超の蜂起に協力しなかった所を考えると断言はできないわね。羌族も今は強い族長は居ないと聞いているから、馬超の協力はしないでしょうね。残るは枹罕県ね)
王異が予想した枹罕県(鈾罕県とも言うが、本作で左記とする)には羌族の宋建が拠点としている地であった。
この宋建は中平元年に反乱を起こし枹罕県を占領し、漢王朝から独立を宣言し、自ら河首平漢王と称し、独自の年号を定め、百官を置いていた。
朝廷は宋建の行いに怒りはしたが、この年に黄巾の乱が起こり、討伐軍を出す事が出来なかった。
やがて、黄巾の乱は鎮圧されるのだが、鎮圧で金を使い過ぎた為、宋建の討伐軍は出せなかった。
その後、何とか資金を調達し討伐軍を出したが撃退された。
朝廷の威信に関わるからか、何としても宋建を討伐しようと躍起になっていた。
其処に、中山郡太守の張純が中心とした反乱後に『張純の乱』と言われる乱が起きる。
この乱の鎮圧に二年の歳月が掛かった。
ようやく、乱が鎮圧された所で、当時の天子であった霊帝が崩御し、朝廷は大混乱状態となった。
宋建は隴西郡の支配を確実にしたが、それ以上の領地は攻め取ろうとはしなかった。
朝廷が混乱状態となった事と、宋建が他の土地を攻め込む気配が無かったので、半ば放置されていた。
(でも、宋建と馬超は特に繋がりがない筈、だから宋建を頼るかどうか分からないわね)
逃亡先が分からないので、追撃の進言が出来なかった王異。
やがて、歩くのを止めて、空を見上げた。
「一族の皆、旦那様。かならず馬超の首を墓前に供えます。ですから、暫しお待ちを」
空を見つめながら、王異は誓うのであった。