董卓の天下
話は少し遡って。
董卓が朝廷を掌握している最中。
洛陽から数日程離れた所に陣地が敷かれていた。
掲げられている旗には『丁』の字が書かれていた。
この陣地の軍を指揮するのは執金吾の丁原。字を建陽という者であった。
年齢は五十代後半で白髪交じりの口髭を生やしており鍛えられた肉体に粗い目鼻立ちをした顔付きであった。
身の丈は七尺七寸もあった。
「何と!では何進大将軍はもう居ないと!?」
「はっ、十常侍共により、あえない最期を」
丁原は天幕の中で使者と対面して話を聞いていた。
本来、執金吾は中央近辺で召集された材官・騎兵からなる北軍を統率して京の巡察・警備を司った中尉という官職を改称された官職だ。
その執金吾の官職に就いていた丁原が何処に行っていたのかと言うと、何進の命令で荊州に巡察に赴いていた。
荊州の巡察をしていると何進からの手紙が届き宦官誅滅の為に兵を集める事にした。
お蔭で五万の兵を集める事が出来たが、洛陽に着く直前に使者が来て既に何進と十常侍が共に滅んだ事を聞かされた。
「それで、今朝廷は誰が仕切っているのだ?」
「董将軍です」
使者の口から出た名前を聞いて丁原は眉を顰めた。
「何か問題でも?」
「いや、何でもない」
丁原は首を横に振るので、使者はそれ以上何も訊かないで洛陽へと帰還した。
使者が見えなくなると丁原は不満そうな顔をしていた。
丁原の顔を見て傍に居る者が声を掛ける。
「お義父上。浮かない顔をしておりますが、どうなさいました?」
そう丁原に話しかけるのは身の丈九尺もある男だった。
切れ長の目元。無駄な肉がついていないほっそりとした顔付き。屈強な肉体を持っていた。
年齢は二十代前半のようだが、この時代の男性にしては珍しく髭を生やして居なかった。
それが余計に美男子さを出していた。
身の丈が高いので偉丈夫にして美丈夫という例えがこの男にはピッタリな言葉であった。
その者の名は呂布。字を奉先と言い、丁原の養子でこの頃は主簿に任じられていた。
「呂布。今の話を聞いていただろう。黄巾の乱の時は大した活躍をしていなかった董卓が朝廷を仕切っているというのだぞ」
「お義父上。何が不満なのです。同じ漢の臣下ではありませんか」
「お前は董卓という男を知らん。あいつは強欲で強かな男だ。今にとんでもない事をするに決まっているっ」
「しかし、その様な事をする気配は無いではないですか」
「今していないからと言って、明日するという事も考えられるであろうっ」
余程董卓の事が嫌いなのだろう。丁原は怒りのあまり座っている椅子の肘置きを叩いた。
これは駄目だと思い話を変える事にした呂布。
「兎も角、集めた兵をこのままにしても仕方がありません。朝廷に願い出てこのまま指揮下に入る様に上奏しましょう」
「そうだな。洛陽近くまで来たのだ。陛下に挨拶もしなければな」
呂布の提案を聞いて丁原は従った。
そして、丁原が洛陽に着いた。
洛陽に着くなり少帝弁に挨拶し、集めた兵を指揮下に入れる様に奏じた。
願いはすんなりと受け入れられ、丁原はお礼を述べて少帝弁の前から離れた。
董卓は傍に居たが何も言わなかった。だが、丁原が離れていくのを見て口元に笑みを浮かべた。
その夜。
職務を終え騎乗した丁原と呂布が屋敷への道を進んでいると。
「むっ⁈」
呂布が何かを気配を察した様で鞍に付けている矢筒から弓と矢を取り構えた。
「どうした? 呂布」
矢を番える義息子を見て丁原は訊ねる。
「お義父上。お下がりを」
そう言って呂布が矢を放った。
風切る音と共に放たれた矢はぐんぐんと進んでいく。進んで行った先は茂っている木であった。
「……があっ」
何かに刺さった音がした後に悲鳴が聞こえた。そして、直ぐに木から人が落ちた。
その者は顔に覆面をして剣を持っていた。
呂布は矢を番えて矢を色々な方向に放つ。
「ぐおっ」
「ぎゃっ」
放たれた矢は物陰や木に隠れている者達に当たる。
矢が残り三本となったところで呂布達の前に覆面をしている者達が姿を見せて駈け出した。
矢が少ないのを見て一気に仕掛ける事にした様だ。
呂布は三本の矢を纏めて番える。
夜の帳で良く見えない中で常人では難しい三本の矢を纏めて放つという事をする呂布。
「…………ふんっ」
呂布は呼吸を整えて弓弦から指を放した。
そして、放たれた矢は狙い違わず覆面をしている者達に当たる。
矢が当たり覆面をしている者達は短い悲鳴を上げて倒れる。倒れた者達の後ろには覆面をした者が二人いた。
それを見て呂布は弓を矢筒に入れると、次に腰に佩いている剣を抜いた。
「せいっ、はあああっ」
馬を進ませて馬上から攻撃をする呂布。
その攻撃が当たり覆面をした者達は目を見開いて倒れた。
「……もう大丈夫です。お義父上」
「相変わらず見事な腕だな。呂布よ」
呂布が剣に着いている血を振り落として鞘に納めると丁原に安全だと告げる。
丁原は呂布の武勇を褒めつつ、この覆面をしている者達が自分を暗殺する為に来たという事を直ぐに察した。
「儂を暗殺する為に送って来たか」
「お義父上。この者達を送ったのは」
「呂布。それ以上言うでない。まだ、確実な証拠も無いのにその様な事を言えば我等の身が危うくなるぞ」
「はっ。出過ぎた事を申し上げました」
呂布は頭を下げる。
「だが、警戒をしなければならなくなったな」
丁原はそう言って屋敷へと馬を進ませる。
呂布は丁原の傍にピッタリと張り付き周囲を警戒した。
丁原達の姿が見えなくなると、物陰に隠れていた者達が姿を見せた。
「あれが呂布か。凄まじい腕だ」
その者の一人は董卓であった。
董卓は丁原の軍を吸収しようと丁原を暗殺しようとしたのだが、呂布の腕前が予想以上であったので驚いていた。
「あれが飛将軍呂布と言われる男の実力です。司空様」
そう董卓に言うのは李粛という部下であった。
董卓が丁原を暗殺する様に指示すると李粛がそれは止めた方がいいと言ったので理由を聞いた。
『呂布の弓馬の腕は天下無双。古の飛将李広に例えられる程の腕前です。並の者を送っても殺されるだけです』
と李粛が言うので、董卓は呂布への興味が湧きどれ程の者なのか見てみたいと思い刺客達を送った。
董卓の目の前で倒れている刺客達は優れた腕前を持っている者達であった。
「あれ程の豪傑が儂の配下に加われば、天下は思うがままだ。李粛。あの者とは知り合いのようだな」
「はっ。呂布とは同郷で家も近く親しくしていました。ですので、呂布がどのような性格なのか知っております」
「そうか。では、呂布を我が配下に迎えるには何が必要だ?」
「黄金五百。それに名馬を一頭ですな」
「黄金は分かるが、馬を一頭だと?」
「はっ。それも珍しい馬が良いと思います」
「……赤兎を奴にやれと?」
董卓が持っている馬で珍しい名馬と言えば赤兎しかいなかった。
「恐れながら、それ程の名馬でなければ呂布の心は動かないかと」
「仕方がない。だが、失敗は許さんぞ」
「承知しております」
それを訊いた董卓はその場を後にした。
刺客に襲われた丁原は屋敷に居たら何時また刺客に襲われるか分からぬと思い、身の回りの物を全て持って屋敷を出て洛陽の市外に駐屯している自分の軍の陣へと向かった。
当然、呂布も付き従った。
翌日。
日はまだ高く青空が見える時。その陣地の下に赤兎を引き連れ騎乗している者が姿を見せた。
陣の門で見張りをしている者が見つけると槍を構える。
「止まれ。何者かっ」
「私は呂布の友人の李粛だ。呂布に会いに来たと伝えてくれ」
それを訊いた見張りの者は他の者に声を掛けて呂布を呼んできて貰う事にした。
間もなく、呂布が姿を見せた。
「おお、李粛ではないか。久しぶりだな」
呂布は李粛の姿を見るなり嬉しそうに顔を緩ませる。
「久しぶりだな。お前も元気そうで何よりだ」
「お前こそ。『何処かの偉い人に仕えて出世する』と言って故郷を飛び出して音沙汰も無かったが、その姿を見るに官吏には成れたようだな」
李粛が着ている服も馬も立派なのを見て、何かしらの官職を得たんだと察する呂布。
「まぁ、そんなところだ」
故郷を出て官吏になれたが、色々な所を転々として最終的には董卓に仕える事になった李粛。
だが、まだ董卓に仕えているという事は教えない。今、教えれば話が出来なくなるからだ。
「久しぶりに会ったんだ。入って話そう。なに、陣地とは言え酒も食糧も十分にある。……うん?」
呂布は李粛を陣地にある自分の天幕に案内しようとして、李粛が引いている馬を見た。
それは栗毛で黒いたてがみを持った大きな馬であった。
「おお、これは素晴らしい馬だな。何と言う馬だ?」
「これは赤兎と言う馬でな。ある人からお前に贈り物として渡された物だ」
「俺にだとっ。この様な素晴らしい馬をか⁉」
驚きの声を上げる呂布。
武人にとって馬は大切な足でもあり友でもある。
それを送られて喜ばぬ武人は居ない。
「ささ、この馬の持ち主についても聞きたい。俺が使っている天幕に行こう」
呂布は久しぶりに友人に会えた事と名馬を貰った事で有頂天になっていた。
そんな呂布を見て李粛は暗い笑みを浮かべた。
呂布が使っている天幕に通された李粛は酒を飲みながら話をしていた。
最初は楽しく故郷の事で話をして談笑していた二人。
一頻り話をしていると、李粛は内心でそろそろと思い盃を置いた。
「どうした? 盃を置いて」
「呂布。友人としてお前に将来について話がしたい」
「俺の将来についてだと?」
少し酔っているのか呂布は顔に赤みが帯びていた。
幸い、丁原は仕事で陣地には居なかった。これで話が出来ると思う李粛。
だが、素面の状態で話しても聞いてくれるかどうか分からないので、李粛は少し酔っ払った頃を見計らって本題に入る事にした。
「お前があの赤兎を手に入れても乗る事は難しいだろう」
「何故だ? あの馬は俺にくれたのだろう」
「あれ程の名馬だ。お前の義理の父である丁原も欲しいと思うだろう」
「むっ、確かに」
幼い頃に両親を失った呂布は父の友人であった丁原に養われた。
その為、恩も義理もある。
もし、丁原が赤兎が欲しいと言われたら、呂布も流石に否とは言い辛かった。
「お前もあんな名馬に乗って戦場を駆けて名を轟かせたいと思うだろう」
「まぁ、俺も男だ。そういう気持ちはある」
「であろう。どうだ。お前のその武勇を天下に轟かせたいと思わないか?」
「それはあるが。どうやって轟かせるんだ?」
「何、簡単な事だ。丁原から鞍替えすれば良いんだ」
「……そう簡単に言うが。そんなに素晴らしい主君が居るだろうか? お義父上は頭は固いがあれで有能だ。そのお義父上よりも凄い者は居るのだろうか?」
「いる。一人だけ」
李粛は此処が勝負とばかりに力強く断言する。
「それは誰だ?」
「董卓司空様だ」
「むぅ、確かに今の朝廷を仕切り二十万の兵を配下に収めているのだから凄い人物だとは思うぞ」
呂布も董卓の手腕を認めているのを聞いて、李粛は隠している事を話した。
「実はな、あの赤兎は司空様の持ち馬だったのだ」
「なん、だと……?」
李粛の口から出た言葉を聞いたが呂布は驚きはしたが、まだ酔いで頭に靄が掛かっているので思考が纏まらない状態であった。
「そして、司空様はお前にこれも下さったのだ」
李粛は駄目押しとばかりに懐から袋を出した。
そして、袋の口を緩めると中から黄金が大量に出て来た。
「おおおっ、……これを俺にくれるのか?」
「そうだ。ただし、条件があるがな」
「条件? それは?」
呂布がそう訊ねると、李粛は顔を寄せる。
「司空様は丁原の指揮下の軍が欲しいそうだ。だが、お前に指揮権は無いだろう?」
「うむ。流石に俺には無い……な。……っ⁉」
呂布は話をしていて李粛が何を言いたいのか察した。
李粛は呂布の顔を見て盃を手に取った。
「もし、断ると言うのであれば私を斬るのだな。私を斬れば黄金を貰えて丁原の信任が厚くなるだろう。丁原を斬れば赤兎と黄金と栄耀栄華を手に入れる事が出来るぞ」
李粛の話を聞いた呂布は酔いが覚めて蒼い顔をしていた。
そんな呂布を見て李粛は盃を傾けて酒を飲む。
「さて、どうする? 呂布」
李粛がそう訊ねると呂布は剣の柄に手を掛けた。
その夜。
陣地に戻った丁原は自分の天幕で仕事をしていると、入口に誰かが入って来た。
暗がりなので誰かよく分からなかったが、丁原は目を細めると誰なのか分かった。
「……おお、呂布か」
警戒していた丁原は呂布の姿を見て警戒を解いた。
「どうしたのだ。何かあったのか」
全く警戒していない顔をする丁原。
そんな丁原を見る呂布の顔はどう見ても悪かった。
「顔色が悪いが、調子でも悪いのか?」
丁原が話しかけても呂布は無言であった。
呂布は何も言わないで手を掲げた。
すると、陣幕に兵が入って来た。
「な、何だ。貴様らはっ」
丁原は声を荒げて問い質すが兵達は何も言わず丁原に槍を突き刺す。
「ぐおああああっ」
身体を貫かれて悲鳴を上げ、
痛みにより膝をつく丁原。
至るところに穴が空き血を流す丁原は顔を蒼くしていた。
そんな丁原に呂布は腰に佩いている剣を抜く。
「お義父上。あんたには世話になった。だが、俺は自分の名を天下に轟かせたいのだ!」
「きさま、うらぎるのか? このわしを?」
「悪く思うな。これも俺の栄華の為だ!」
呂布はそう言って剣を一閃して丁原の首を斬り落とした。
地面に落ちる首と身体。
身体から血がどくどくと流れビクビクと震える。
呂布は斬り落とした首を持って天幕を出る。
天幕を出ると呂布の前に兵達が集まっていた。
呂布は丁原が居ない間に、兵達に声を掛けていた。
そして、丁原に未来が無い事と董卓に着くべき事を説いた。
時間は掛かったが、五万の兵全てを呂布の配下に入れることに成功した。
これも呂布の武勇と董卓の二十万の兵に怯えての事だ。
呂布は丁原の首を掲げて兵達に見せる。
「これより、我等は董卓司空に降る。異論は無いな!」
皆、頭を下げて何も言わなかった。
そして、呂布は五万の兵を連れて董卓の下へと向かった。
李粛から事前に成功の報告を聞いた董卓であったが、五万の兵を丸々を連れて来ると思っていなかったので呂布の統率力に喜んだ。
呂布を騎都尉に封じて、自分の養子に迎えた。
更に手付け金として黄金の鎧と兜を与えた。
これにより、董卓は二十五万の大軍を有する事になった。