面倒な事が
「許昌にある宮殿を修繕したい?」
「はい。後宮の梁や柱などが痛んでいる上に庭園がボロボロになっているそうです」
「許昌の宮殿が作られて、もう八年ぐらいか」
痛むのは少し早くないかと思いつつも、人が住んでいる以上痛むのも無理ないかと思いつつ曹昂はある事が気になり訊ねた。
「陛下が命じれば、修繕など直ぐに行われるのではないのか?」
「・・・・・・その、多くの者達が義父上が銅雀台が建てるので、もう少し待った方が良いと申しているそうです」
劉吉が言いづらそうに口籠りながら教えてくれた。
それを聞いて、曹昂は思わず手で顔を覆った。
(時期が悪いな。銅雀台の建設には朝廷の財を使うだろうし・・・・・・)
どうしたものかと悩んだが、とりあえず曹操に許昌にある宮殿が痛んでいるので修繕したいという文を送る事にした。
「それで、他に何か言っていたか?」
「そうですね。貢物は涼州と雍州しか届いていないとも申しておりました」
興平元年《西暦一九四年》ごろ涼州の西部が雍州となっており、邯鄲商が刺史となり治めていた。
その邯鄲商は朝廷と曹操に従順であった為、曹昂は敵にならないと判断して雍州は支配圏に入れていた。
「荊州はどうした? 同盟を結んだおり、貢物を届ける事と約定した筈だが」
「最初の頃は洛陽経由で送られて来たそうですが、最近は送ってこないそうです」
「洛陽経由?」
許昌と襄陽は距離にして八十一里《約三百十八キロ》ほど離れていたが、洛陽経由でいくほど困難な道のりではない。
「はい。南陽郡と同盟の際、分割されて出来た義陽郡の境は治安が悪く盗賊が多く出没している為、洛陽経由で来たと聞いております」
その話を聞いた事がないなと思いつつ、何かあるのではと考えた。
(何か意味が? まさか、許昌が都だと認めないとかじゃないだろうし)
しかし、どれだけ考えても劉表が何を考えて、その様な事をしたのか分からなかった。
十数日後。
曹操からの返事が来た。
「ええっと・・・わたしの銅雀台と陛下の宮殿、どっちが大事なのだ? ・・・・・・はぁ」
面倒な事を書いている事に溜め息を吐くのであった。
(わたしの立場を考えてくれよ。義理の弟は天子なのだから・・・)
返事を読み終えると、息を吐いた。
その後『義弟が困っているのに助けなければ、何の為に婚姻したのか分からなくなります』と書いてまた送った。
暫くすると、修繕するのは良いが、お前が持っている財で直せと返事が書いてあった。
内心でケチだなと思いつつも、許可は得たと思い宮殿の修繕個所を調べる様に手配した。
その数日後。
朝廷で働いている顧雍から文が届いた。
孫権の使者として弟の顧徽が許昌に来ると書かれていた。
(部下を許昌に送るという事は、何かを探る為に派遣したという事だろうな)
何を探りに来たのか分からなかったが、曹昂は顧雍の弟なので会う事にした。
直ぐに護衛の兵を選抜し、孫礼を伴い許昌へと向かった。