吉報、続々と
楽進と李典率いる二万の軍は并州に到達するという報を聞いた高幹は呼廚泉に協力して曹操を打倒しようと文を送りつつ、兵を率いて侵入してきた敵軍の迎撃に向かった。
だが、呼廚泉は高幹の申し出を断った。
援軍が断られたという報は直ぐに軍内に伝わり、高幹軍は返り討ちになった。
命からがら壺関県に帰還した頃には、率いていた兵の半分以上が失われていた。
高幹は籠城する事にしつつ、改めて呼廚泉に使者を送り協力を求めた。
その間、楽進と李典の二人は県を次々に落としていった。
楽進達が順調に進軍しているという報告が鄴に齎されていた頃。
郭嘉と沮授の二人が頭を垂れて曹昂と対面していた。
「この度は、誠に弁明の余地のない失態を犯しました。どうか、御裁きを」
「わたしも同じく」
郭嘉達が裁いて欲しいと述べるので、曹昂は手を振った。
「いやぁ、他郡の視察に出ていたのに処罰など」
「ですが。荀衍殿が居られねば、鄴は敵の手に落ちていたかも知れないのです。どうか」
郭嘉は飽くまでも裁いて欲しいと述べた。
(こればっかりはな。他郡の視察に出ている時に鄴が襲撃を受けたのは運が悪いとしか言えない)
高幹が送った奇襲部隊の迎撃が郭嘉では無く荀衍が指揮したのはそう言う理由であった。
鄴襲撃という報告を訊くなり二人は驚いた後、禄に休まないで駆けて先程戻って来たのだ。
そして、二人は曹昂に裁きを下して欲しいと述べていた。
(まぁ、襲撃されても良い様に、父上に頼んで残って貰ったから役立って欲しかったという気持ちはあるけど、視察に出ていたんだから仕方がないな)
「・・・まぁ、今後は注意すれば良い。それでも処罰して欲しいと言うのであれば、父上に事の次第を述べて父上のお沙汰を聞いて下され」
曹昂は特に咎めなしと言外に言うと、二人は深く頭を下げた。
それから数日後。
司隷を預かる鍾繇から文が届けられた。
司隷に攻め込んで来た高幹軍を壊滅。大将の郭援以下、多数の将兵を討ち取り多くの捕虜を得たという事と、郡内で起こっていた反乱も鎮圧し、今は治安に勤めていると書かれていた。
「おお、司隷で起こった反乱は鎮圧されたか」
文を読み終えた曹昂は声をあげて喜んでいた。
「これは良き知らせですな」
「これで、残るは壷関に籠る高幹だけですな」
劉巴と趙儼の二人は吉報に喜んでいた。
「そうなるな。呼廚泉はどうしている?」
「はっ。今の所、高幹に対して援軍を送る気配を見せません。密偵の報告では高幹は使者を送って、何とか翻意させようとしているそうです」
「無理だと思うがな・・・」
報告を訊いたそう呟く曹昂。
(烏桓族と違って、南匈奴は特に恩恵を与えていないという話だからな。不満はあっても、特に恩義などは感じていないのだろうな)
だからこそ、董白経由とは言え反乱を起こしたと言えた。
并州を統治していたのに、其処が分かっていない高幹の見る目の無さに呆れていた。
「最早、南匈奴は放置しても問題ないと言っても良いな」
「と思います」
「わたしも」
曹昂が南匈奴は放っておいても問題ないと言うと、二人も同意した。
そして、并州の地図を見ながら、楽進達が何処におり進軍経路をたどり次は何処の県を落すだろうかと予想し合っていると
三人が話し合っていると郭嘉がやって来た。
「曹子脩様。吉報にございます」
「郭軍師祭酒か。どうされた?」
「先程、袁煕討伐に向かった丞相からの早馬が届きました」
曹操からの報告が来たと聞くなり、曹昂は内心で袁煕は討たれたなと思った。
「して、内容は?」
「はっ。遼西まで赴いた丞相は袁煕と烏桓族の蹋頓以下多くの大人を討ち取り、遼東を治める公孫康は降伏したので、易県を経由して鄴に帰還すると書かれておりました。お喜びを、丞相は勝利されましたぞっ」
「そうか。では、直ぐに出迎えの準備を盛大に盛り上げるように」
「承知しました」
郭嘉が一礼しその場を離れると、曹昂は劉巴達を手招きした。
誰にも訊かれたくない事なのだろうと察した二人はそっと近づいた。
「袁煕には妻の他に妾が居ると聞いている。その者を捕らえよ。子がいれば一緒に」
「その親子は処刑するので?」
「いや、取り込む」
「取り込む? どうされるのですか?」
「未だに汝南郡では袁家の影響力は大きい。其処で袁煕の子供を引き取って家を再興させる」
策を用いて親袁紹派を粛清したのだが、それでも未だに袁家を慕う者達は多かった。
其処で曹昂はその者達を取り込む事にしたのだ。
「成程。悪くない手かと」
「男の子であればどうするのです?」
「そうだな。袁玉の娘の婿にする」
「女の子であれば?」
「豹か冲か植の妻にする」
「分かりました。では、直ぐに探させます」
劉巴達は一礼しその場を離れた。
その後。袁煕の妾が幽州で見つかり、男の子が一人居る事が分かった。
曹昂はその親子の面倒を見て、母親は別の者と再婚させ、男の子は長じた後に、袁玉が産んだ娘の婿となった。
後にその男の子の子孫はとある王朝の宰相にまでなるのであった。