同じ頃
曹操が烏桓族の討伐を終え帰路に着いている頃。
荊州南郡襄陽。
城内にある一室で劉表は蔡瑁と共に部下の蒯越からの報告を訊いていた。
「ようやく、南部四郡の治安が安定したか」
「はっ。もう、四郡で暮らしている者達も劉州牧の施政に満足しているようです」
四郡を視察に向かわせた蒯越の報告を訊いて安堵の表情を浮かべる劉表。
反乱を起こした張羨は病死したが、子の張懌が反乱を続けたが父親よりも器量が劣っていた為か、鎮圧する事に成功した。
その後、張羨はどうして反乱を起こしたのか調べた所、配下の桓階が唆したという事が分かった。
桓階を捕らえるように命じたが、反乱が鎮圧される直前に逐電してしまい、何処にいるのか分からなかった。
如何に南部四郡全てが反乱を起こしたとしても、鎮圧に時間が掛り過ぎであった。
その為、何処かの勢力が支援していると予想する劉表。
だが、その事を知っているのは張羨と桓階の二人だけであった。
張羨は病死し、もう一人は行方不明という事で、劉表はこの件を調べる事を止めて治安の改善に努めた。
劉表はとりあえずそこで満足する事にした。
南部四郡の税収を期待していると、部屋の外にいる護衛が部屋に入って来た。
「申し上げます。劉皇叔がお会いしたいと部屋の前におります」
「皇叔が?」
少し前から曹操に負けた劉備を荊州の守りを固める為に食客にしていた。
劉備は劉表の信頼に応えるために、州内の族の討伐に精を出していた。
劉表は蔡瑁達の顔を見て、どうするかと訊ねると蔡瑁達はとりあえず、話を聞いてみるべきと述べた。
二人の言葉を聞いて劉表は護衛に劉備を部屋に通すように命じた。
護衛は一礼し離れると、劉備を連れて戻って来た。
「景升殿。徳珪殿。異度殿。突然訪問する無礼をお許しを」
劉備は劉表達に頭を下げて、突然来た非礼を謝った。
「何の、別に大した話をしていた訳ではないので気にしないでよい」
謝る劉備に劉表は問題ないとばかりに述べた。
「して、皇叔。今日は何の用で来られたのですか?」
蒯越が劉備に訪ねて来た理由を聞いて来た。
劉備はその問いに答える前に、供に来た護衛をチラリと見た。
劉備の視線を感じて護衛は一礼し部屋を出て行った。
護衛が部屋を出て行くのを見送ると、劉備は咳払いし襟を正してから口を開いた。
「もう、御存じかも知れませんが。曹操は袁家を根絶やしにする為に、河北へと向かいました」
劉備は其処まで言って劉表達の顔を見た。
話した内容が劉表達が知っているのかどうかの確認の為にだ。
劉表達はそんな話など知っているのか、別段驚いた様子を見せなかった。
「そして、曹操は袁尚を討ち取ったのですが。その曹操の威武に恐れたのか袁煕が遼東へと逃げたそうです」
「ほぅ」
劉備の報告を訊いて、劉表は其処は初耳という顔をしていた。
蔡瑁達も同じような顔をしていた。
「そして、曹操は袁煕を討伐の為に遼東へと向かったそうです。これは好機にございます‼」
劉備は拳を握りながら力強く発言した。
「好機とは?」
「はい。今、許昌に大した兵は居ないでしょう。一軍を持って、北上して攻めれば許昌は難なく陥落し天子を曹操の手から奪い取る事が出来ます‼」
「確かにそうであろうな」
「ですので、わたしに一軍を預けて下され。許昌を落し、この襄陽に天子をお連れ致します‼」
劉備は懇願する様に深く頭を下げた。
劉備の懇願を聞いて、劉表達は反応は様々であった。
蒯越は声にこそ出していなかったが、やってみる価値はあるなという顔をしていた。
蔡瑁は明らかに不快そうな顔をしていた。
劉表はと言うと、顔にこそ出さなかったが内心でそんな事が出来る訳が無いと思っていた。
理由は幾つかあった。
一つは劉表はまだ劉備を完全に信頼していなかった。
まだ、荊州に来て日が浅いから、軍を預けても裏切るかも知れないと思っていた。
二つ目は今、荊州の軍権は蔡瑁が握っていた。
劉表が荊州に地盤を築く事ができたのは蔡瑁と蔡一族の貢献のお陰でもあるので、蔡瑁に対してあまり強く出る事が出来なかった。
今の妻も蔡瑁の姉であるという事も一因の一つであった。
三つ目は揚州の孫権であった。
父孫堅の仇である為か、隙あれば攻め込んで来る孫権。
江夏郡だけでは無く、最近ようやく支配下に治める事が出来た南部四郡の長沙郡と桂陽郡にも攻め込んで来る気配を見せていた。
何時どんな風に攻め込んで来るか分からないので、劉表はその進言を退ける事にした。
「皇叔。お主の策も悪くはない。だが、我らは南部四郡を手に入れたばかりだ。その治安の為に兵を割かねばならん。加えて、揚州の孫権は隙を見せれば、何時でも攻め込んで来るのだ。一軍を送れば、その分守りが手薄になる。其処につけ込んで孫権めに領土を奪われるかもしれん」
「確かにそうかもしれませんが。しかし、天子の威光をもってすれば、領土など簡単に奪い返す事が出来ると思いますが・・・」
劉備はそれでも許昌を攻めるべきだと言うが、劉表は首を振った。
「天子が居れば領土を奪い返す事が出来ると言うが、そもそも天子が居るというのに、今だ世は乱世であろう。今の天子に力は無いからこそ、世は乱れるのだ。だからこそ、天子を迎えても誰にも負けない力が必要なのだ。その為に領土が必要不可欠なのだ」
劉表が許昌攻めを退ける理由を述べると劉備は何も言えなかった。
これ以上言っても無駄だと思ったのか、劉備は一礼して部屋を出て行った。
蔡瑁は内心で、このまま劉備を好きにさせていたら自分の軍権が奪われるかもしれないと思い、いずれ排除しようと決めた。
揚州呉郡曲阿。
城内にある評議に使われる部屋で孫権と周瑜他多数の家臣がある報告を訊いていた。
「・・・歴陽が落とされたか」
「はっ。その後、陳登は歴陽の守りを固めた後、徐州へ帰還いたしました」
部下の報告を訊いた孫権は重い溜め息を吐いた。
「今年に入って二つの城が落ちたか」
「はい。阜陵県と歴陽県の二つです」
魯粛が何処の県が落ちたのか告げると、程普が苦々しい顔をしながら語りだした。
「我らはまだ先の戦で失った軍の再建が済んでいない所を攻められては助けに行く事ができん。陳登め業腹な事を」
曹操が遠征に向かっている隙に孫権は徐州に侵攻したが、陳登が反撃して手痛い被害を受けてしまった。
その被害からまた立て直しが出来ていなかった。
加えて、陳登の調略で揚州内の治安が悪化してしまい、その治安改善の為に金を使うので軍の再建が出来なかったのだ。
陳登はその隙にとばかりに揚州に攻め込み、二つの県を支配下に治めたのであった。
「殿。御怒りは分かります。しかし、今は軍の再建に勤めるのが大事です」
周瑜が今は動く時ではないと言うのを聞いた孫権は苦虫を噛んだ顔をしていた。
「我らの領土が奪われていると言うのにか?」
「領土など機を見て動き奪い返せばよいのです。今は軍を整えるのです。そして、敵が隙を見せたら一気呵成に攻めれば良いのです」
周瑜が宥めるように言うと、孫権は怒りを胸の内に収める事にした。
その後は今後の方針を話し合った後、評議は終わり解散となった。
評議が終わると孫権は部屋に戻った。
この後仕事があるのだが、茶を飲んで一息ついてからにしようと思っていた。
使用人に茶を持ってくるように命じようとした所で、使用人が部屋に入って来た。
「申し上げます。魯粛様がお会いしたいとの事です」
「魯粛が?」
孫権は何の用で来たのか分からなかったが、話を聞いてみる事にした。
使用人に通すように命じると、使用人が一礼し下がると魯粛を連れて戻って来た。
使用人が下がるので、孫権は茶を持って来るように命じた。
命を受けた使用人が一礼し部屋を出て行くのを見送ると、孫権は魯粛を見た。
「魯粛。一人で来たのか?」
「はい。評議の場では話せない事でしたので」
魯粛が思い悩んでいる顔をしているのを見て、孫権はどんな事で悩んでいるのか分からなかったが、只事ではないという事だけは分かった。
「お主が其処まで悩むとは、どの様な件なのだ」
「はい。劉表の事にございます」
劉表という名前を聞くなり孫権は眉が動いた。
孫権からしたら父孫堅の仇の名なので、聞くのも不快と思うのも無理なかった。
「殿の気持ちは分かりますが。時には敵と手を結ぶという事もしなければ、この乱世では生き残る事が出来ませんぞ」
「ふ~む。それは分かっている。つまり、お前は劉表と手を結べというのか?」
孫権は冗句のつもりで言ったのだが、魯粛は顔を輝かせた。
「まさしくその通りです。曹操は必ず荊州に攻め込んでくるでしょう。その時は劉表と手を結び曹操と戦うのです」
魯粛の進言を聞いた孫権は確かに評議の場で話せないなと思った。
周瑜を含めた家臣達は劉表の事を不倶戴天の仇と思っていた。
その為、劉表と手を結ぶべきと聞いた瞬間、列火の様に怒るのが目に見えていた。
「何故、曹操は荊州を攻めると言えるのだ?」
「荊州を獲れば、揚州と益州に攻め込む事が容易に出来るからです。くわえて、荊州には水軍があります。揚州に攻め込むとすれば、水軍は必要です。ですので、荊州を攻めるのです」
魯粛の分析を聞いても、孫権は直ぐに答える事が出来なかった。
「・・・・・・お主の考えは分かった。しかし、劉表は我らと手を結ぶと思うか?」
「今は無理でしょう。ですが、曹操に攻め込まれれば、誰であろうと手を結ぶでしょう」
「話は分かった。もし、そうなれば一時恨みを忘れて曹操と対抗するのも手ではあるな。だが」
孫権もそのような状況であれば手を結んでも良いと言うのを聞いて魯粛は内心でいけるのではと思った。
「だが、仇敵同士の我らと手を結ぶにしても、誰か仲介するべき者が必要であろう。そういった者に心当たりはあるか?」
孫権は流石に仲介するべき者が必要だと言うと、魯粛はそれは、考えていなかったという顔をしていた。
そんな魯粛の顔を見て孫権は呆れたように息を吐いた。
「劉表と手を結ぶと言うのであれば、まずは仲介できる者を見つけるのが先だな」
「ですな。其処まで考えつきませんでした」
魯粛が申し訳ないとばかりに謝ると孫権は手を振った。
「良い。だが、この話はわたしと其方の胸の中に納めるのだぞ。けして、誰にも話すでないぞ」
「承知しました」
魯粛は話が終わったので、一礼し部屋を出て行った。
部屋に孫権だけとなると魯粛が話していた事を考えていた。
(劉表と手を結ぶか。状況次第ではその様な事も視野に入れるべきか)
孫権は一時は恨みを忘れる事も考え出した。