侮りの代価
夜の帳が落ちており、その夜陰により道がはっきりと見えていなかった。
そんな道を孫権軍は敵の追撃に備えて、最低限の灯りだけ灯して進んでいく。
静かな為か靴が大地を踏む音が異様に響いていた。
孫権軍の兵達は敵の襲撃に怯えつつも警戒していた。
怯える兵達の中で孫権は警戒しながら、側にいる程普に話し掛けた。
「程普。今の所、敵の襲撃は無いぞ。もしかして、敵は我等が撤退した事を知らぬのではないか?」
孫権は未だに襲撃が無いので、程普の気にしすぎだったのではと思い話し掛けた。
孫権の話を聞いた程普は思わず出そうになった溜め息を押しとどめて、孫権に述べた。
「御油断めされるな。殿。敵が我等が撤退したという事をいずれは知ります。それを知った敵は我等の背に容赦なく襲い掛かるでしょう。我等が徐州から完全に撤退できる時まで気を緩める事なきように」
程普はまだ安堵するには早いと注意を促した。
そう言われた孫権はその通りだと思ったのか、気を引き締めていた。
孫権軍は暫くの間、進み続けていたが、後方から騒がしい声が聞こえて来た。
孫権は何事だと不審に思っていた所に後方を指揮する部将の韓当から伝令が送られてきた。
「申し上げます! 韓当隊が追撃に来た敵軍の攻撃を受けました!」
「敵の追撃がもう来ただとっ⁉」
敵の追撃に追いつかれた事に驚く孫権。
「韓当はどうした? 無事か⁉」
「はっ。まだ、部隊の指揮を取っておりますっ」
「そうか。殿、急ぎこの場を離れましょうぞ!」
伝令の報告から韓当がまだ指揮を取っていると聞いた程普は直ぐに孫権にこの場を離れる様に進言した。
「分かった。全軍、急ぎこの場を離脱するぞ‼」
程普の進言を受けた孫権はそう命じるなり、我先に馬を駆けさせて逃げて行った。
敵の追撃を受けた以上、撃退して兵を損失させるよりも、急いで敵の追撃から逃れた方が被害が少ないと判断したからだ。
逃げる孫権の後に程普と兵達は続いて行く。
だが、進み続けていると何処からか矢が放たれた。
その矢により、孫権軍の兵は悲鳴をあげて倒れて行った。
「伏兵か⁉」
「殿を守れ‼」
矢が飛んで来るので、思わず足を止める孫権。
孫権を守るように程普は兵達に命じる。
命じられた兵達は盾を掲げて孫権を矢から守った。
「殿。恐らく、この先にも伏兵は居ると思われます。此処は足を止めず駆け抜けましょう‼」
「分かったっ」
程普が降り注ぐ矢の中で孫権に進言すると、孫権は頷いた後駆け出した。
程普と孫権を守る兵達は孫権の周りを固めつつ孫権に随走した。
駆けた孫権は何度も伏兵に襲われながらも、辛くも窮地を脱する事が出来た。
同じ頃。
陳登率いる軍が孫権軍の後方を攻撃していた。
「ふふふ、予想通り夜に撤退したな」
孫権軍の後方を攻撃しながら陳登は上手く行ったとばかりに笑っていた。
匡奇城に籠り防衛の指揮をしていた陳登。
孫権軍が撤退を決めた日。
その日に限って、一度も攻撃を仕掛けてこないので、もしやと思い一応防備を固めつつ追撃の準備をしていた。
「かねてより、孫権軍の撤退路には兵を伏していたからな。今頃、孫権には兵が襲い掛かっているであろう」
これで、孫権を討ち取れれば文句なしなのだがなと思うが、其処まで高望みするのは欲張り過ぎかと首を振る陳登。
「しかし、父上の死に乗じて攻め込んで来るとはな・・・」
陳登としては豪族や江賊を調略しながら、江東に進出するつもりであったのだが、そんな時に父陳珪が病で亡くなってしまった。
陳登は仕方が無く喪に服する事にした。陳登の官職は奪情するほど高官ではないので、喪に服するしかなかった。
その所為で、調略が中途半端に終わってしまい、逆に孫権軍の襲来を招く事となった。
「これで後は孫権軍を徐州から追い出せば良い。丞相には孫権の動きが怪しいので、奪情して欲しいと許可を貰うとするか。その後は奪われた県を奪い返すとしよう」
陳登は軍の指揮を取りつつ、今後の事を考えていた。
孫権が曲阿県に辿り着いた頃には、随走していた兵は百を切っていた。
孫権は城に入るなり、程普と共に互いの無事を喜んでいた。
数日程すると、敵の追撃から逃れる事が出来た孫権軍の将兵達が城に続々と到着した。
多くの死傷者を出し、付き従った将の何人かは負傷していた。
無残な将兵を見て孫権は歯噛みしていた。
「おのれっ、陳登めっ」
「殿。此度の戦は敵を侮っていたから負けたのです。此度の敗北を教訓としましょうぞ」
「そうであるな・・・」
悔しがる孫権に留守を任せていた魯粛が冷静に述べた。
孫権もその通りだと思い、拳を握り締めてこの恨みをいずれ晴らすと誓った。