桃園の契りは
関羽が曹昂から秦琪の首を貰い駆けている頃。
穣県の城内にある一室。
其処で劉備が寝台の上で横になっていた。
肩と左腕と胸の計三本に矢が突き刺さった劉備であったが、ようやく峠を越える事が出来た。
とは言え、まだ完全に癒えておらず、頭には病鉢巻を巻いていた。
「御身体が良くなってよかったです」
「ええ、本当に」
上半身を起こして、薬湯を飲んでいる劉備の姿を見て、妻である甘夫人と麋夫人の二人は安堵の表情を浮かべていた。
劉備に矢が突き刺さり重傷を負ったと聞くなり、二人は懸命に看病した。
薬師を呼んで薬湯を煎じて貰ったが、それでも直ぐに回復とはいかなかった。
それがようやく話す事も出来る程に回復できたのだから、喜ばない筈が無かった。
「二人には苦労を掛けたな。礼を言うぞ」
「いえ、これも妻の務めにございます」
「姉様の言う通りです」
劉備が礼を述べると、甘夫人は大した事ではないと言い、麋夫人も頷いた。
「それにしても、まさか関羽殿があのような事をするとは・・・」
麋夫人は信じられないとばかりに首を振る。
劉備に矢が突き刺さった経緯を聞いた所、どうも関羽と話をする為に城の外に出た所を、敵の伏兵部隊に襲われたとの事らしいが、麋夫人からしたら信じられないとしか思えなかった。
「旦那様。此処はもう一度話し合いの場を設けても良いと思いますが、どうでしょうか?」
麋夫人は飽くまでも、関羽は劉備を裏切っていないと思い話したが、甘夫人は違っていた。
「いいえっ、もう関羽は旦那様の義弟ではありません。最早、曹操に降り信義を破り、旦那様の性格を利用して討とうとした裏切者です。そのような者と話す事はありませんっ」
甘夫人は最早、関羽を劉備の義弟だとは認めないとばかりに言い出した。
自分の愛する夫が死にかけた原因が自分達を助けてくれた関羽だと思うと、余計に怒りに燃えている様であった。
「妻よ。そう怒るでない。私としては、あの状況は関羽が手引きしたとはどうしても思えぬのだ」
憤る甘夫人を宥める劉備。
「ですが、旦那様っ」
「其方の思いも分からんでもない。だが、私はどうしても関羽があのような事を手引きしたとは思えぬのだ」
劉備はあくまでも関羽を信じたいという思いを込めて言うと、甘夫人は言葉を詰まらせた。
静かになったので、劉備は薬湯に口をつけた。
飲み終えると、劉備は天井を見上げた。
(関羽よ。義弟よ。其方を信じているぞ・・・・・・)
そう思う劉備。その呟きは信じるというよりも、願っている様であった。
それから数日後。
劉備はまだ寝台の上に居た。
薬師の見立てでは、まだ傷は完全に塞がっていないので、激しい運動は控える様にと申していた。
その為、劉備はまだ寝台に居た。
自由に身体を動かす事が出来ないので、退屈なのか劉備は欠伸を掻いていた。
(ふむ。何処かに行けぬというのも困ったものだな)
劉備がどうしたものかと頭を捻っていた。
すると、廊下を走る足音が聞こえて来た。
劉備は何事だと思いながら、思わず傍に置いている剣を掴み抜けるように構えた。
「殿。失礼します!」
衝立の向こうからそう一言断りを部屋に入って来たのは簡雍であった。
「如何した? 簡雍」
「はっ。実は城門に関羽殿がまた来ました」
「何とっ、関羽が⁉」
関羽がまた来たと聞いて、劉備は喜ぶべきか何か有るのではという複雑な心境で簡雍に訊ねた。
「して、関羽は何か言っていたか?」
「はっ。先日、殿を射かけたのは、秦琪という者が独断で行った事。私は手引きなどしていない。その証拠に秦琪の首を持って参ったと申しております」
「…………」
簡雍の報告を訊いた劉備は難しい顔をしていた。
関羽の言葉を信ずるべきなのか、それとも何かの策略ではと疑うべきなのか分からなかった。
「殿。一言申し上げても宜しいでしょうか?」
「何だ?」
「私の見立てでは、恐らくもう関羽殿は曹操に帰順したのだと思います」
「何を言うのだ。簡雍!」
簡雍の意見を聞き捨てならないとばかりに怒る劉備。
「私も関羽殿達と共に殿に長年仕えて来ました。ですので、関羽殿の人となりはそれなりに知っております。義理堅く信義を破らぬ御方だと」
「ならば」
「ですが、先日の事件はあまりにも出来過ぎております。まるで、殿の性格を知っている者が策を練ったかのように」
「・・・・・・確かにそうかも知れんが。私は」
「関羽殿を信じたいという気持ちは分かります。ですが、今は乱世にございます。どんなに固く義で結ばれようと、裏切る者は裏切ります」
「・・・・・・兎も角、私は関羽と話をする。それで、関羽が本当に曹操に帰順したのかどうかを決める」
「承知しました。では、ご案内します」
劉備の気持ちが固いのを見た簡雍は劉備を城壁まで案内する事にした。
同じ頃。
関羽は城門の前で膝をつき、自分の前に布に包まれた物を置いていた。
「兄者。兄者に矢を射かけた秦琪はこの通り首を斬られました。どうか、私を信じて下され。この関羽雲長、決して兄者を裏切ったりは致しませんっ」
関羽は声を大にして城に居る者に聞こえるように叫んだ。
張飛はそんな関羽を苦々しい気持ちで見ていた。
(ここまでするのだから、関羽は本当に裏切っては無いのでは? う~ん、俺では判断が出来んな……)
劉備に矢を射かけた秦琪の首を持って来た関羽に張飛は疑うべきか信じるべきか迷い始めた。
何せ、秦琪は曹操軍の部将の一人。そのような者の首を持ってくるのだから、本当に曹操と縁を切り、自分達の元に来たのではと思ったからだ。
張飛はどうするべきか迷っていると、簡雍と共に劉備が来た。
「張飛。関羽はどうしている?」
「兄者⁈ 寝ていなくて良いのか?」
「関羽が来たと言うのだ。来ない訳にはいかぬだろう」
「それはそうだが……」
張飛は会わせるべきか迷っていると、劉備は張飛を押しのけて城壁から身を出した。
「関羽よ!」
「おお、兄者! 御無事で何より」
「関羽よ。義弟よ。心配を掛けたな。お主の言を聞いたが、本当に先日の件には関わっていないのだな?」
「はい。天地に誓って」
「そうか。では、その布に包まれている物は、本当に秦琪の首に相違ないな?」
「はい。間違いございません」
関羽がそう断言すると、劉備は頷いた。
「そうか……そうなのか……」
劉備は悲しそうに呟いた。
「兄者?」
「殿?」
張飛と簡雍は劉備の背中が悲しそうに見えたので、何かあったのではと思い声を掛けた。
「…………弓兵、矢を番えよ!」
劉備は城壁に居る弓を持っている兵達にそう命じた。
兵達は突然の命令で、何事かと思いながらも矢を番えた。
「関羽よ! 私と其方は義兄弟の契りを結んだ仲である。故に一度だけ見逃す。早々に立ち去るが良い!」
「兄者⁉」
劉備が立ち去れと言うのを聞いた関羽は耳を疑った。
「兄者、は、話を聞いて下され。私は、兄者を裏切るつもりは」
「もう良い! 言い訳は沢山だ‼」
関羽が話している最中で、劉備は強引に打ち切った。
「私を裏切るつもりが無いと言うのであれば、どうして、秦琪の首を持って来たのだ‼ 先日の事件に其方が関わっていないと言うのであれば、生きた秦琪を連れて来るべきであろう!」
「こ、これは、事情がありまして・・・・・・」
「その事情とやらも、秦琪が本当の事を話すかもしれないと思い、お主が殺したのだろう!」
「違います! 秦琪は勝手に持ち場を離れた罪で処刑され、晒し首になったのです。その首を曹昂に事情を話して貰い受けたのです」
「ますます信じられんわっ。もう、曹操の客将でもないお主に、晒し首を渡す意味は無いであろうっ」
「確かにそうですが」
「これは、秦琪の首を手土産に、私の元に降り、時来れば曹操と呼応し内と外で私を挟み撃ちにするつもりであろう!」
「兄者。違います。私は」
「曹操に懐柔された其方を信じる事は出来ん! 一時とは言え、義兄弟であった義として、この場は見逃してやろう。疾く去れ! さもなくば」
劉備が手で合図を送ると、兵達は弓弦を引き絞り始めた。
このままでは、裏切り者として処罰されると分かった関羽。
(最早、どれだけ申し開きをしても聞き入れてくれぬか……)
信頼する義兄の目が疑いに満ちていると分かり、関羽は目から涙を流した。
このままでは、死ぬと思った関羽。
『もし、説得に失敗したら、此処に戻って来て、秦琪の首を返して欲しい』
そんな時にふと曹昂が言った言葉を思い出した。
義兄弟の信頼を失ったが、そう約束した以上守らねば、義が立たぬと思った関羽。
そう思った関羽は布に包まれた秦琪の首を持ち、もう片方の手で愛用の得物を持った。
そして、城に一礼した後、関羽は馬に跨りその場を離れて行った。
「くっ・・・まさか・・・・・・関羽が・・・・・・・」
劉備は走り去る関羽を見送ると、深く嘆息した。
信頼する義弟にまさか裏切られると思わなかったからだ。
劉備の心の中は、怒りと悲しみと嘆きに満ちていた。
そう嘆いていると、劉備の身体が横に倒れ出した。
「兄者⁉」
「殿⁈」
横に倒れた劉備に張飛と簡雍は近付き、身体を触る。
すると、手に血がついていた。
「まずい、傷が開いた様だ」
「直ぐに薬師を呼んで参れ‼ 殿、しっかりして下されっ」
青い顔をしている劉備に張飛達は懸命に声を掛けた。