無謀な試み
許昌を出立した関羽は一騎で劉備達が居る穣県へと向かっていた。
道をただ、南へと進む関羽。
その背に声を掛ける者が居た。
「むっ、追手か?」
関羽が乗っている馬は急遽用意した馬の為、足は速くなかった為、曹操が出した追手が追い付いたのかと思い、関羽は馬首を返して身構えた。
愛用している青龍偃月刀を構えながら、向かって来る者に注視していると、現れたのは張遼であった。
「張遼か? 何用で参った?」
見た所、鎧兜も纏っていなかった。
追手として来た訳ではないと分かったが、それでも関羽は警戒を解かなかった。
「君が許昌を出て行ったと聞いた丞相が私に、君と別れの挨拶をしに行くというので、私が一足先に来て足を止める様にと命じられたのだ」
「曹操殿が私と?」
曹操が別れの挨拶をしたいと聞いた関羽は訝しんだ顔をしていた。
関羽としては曹操が律儀に約束を守る人物と思っていなかったからだ。
だが、別れの挨拶をしたいというのに無下にしては義に叛くと思い関羽はその場で待つ事にした。
(もし、罠であれば決死の覚悟で切り抜けるだけの事。もしくは、曹操殿と相打ち覚悟で突っ込むのも良いかもしれん)
関羽は張遼と共に暫くその場で待っていた。
程なく、関羽達が目を向けている先に、砂塵と共に数十騎の騎兵が姿を見せた。
関羽は兵士が居る事で得物を構えたが、騎兵の者達を見て直ぐに構えを解いた。
騎兵の先頭に居るのは曹操であったからだ。
曹操の後ろに騎兵達も馬に乗った家臣達で皆、鎧兜を纏っていなかった。
兵士もおり全員武具を纏っていたが、関羽としてはそれほど多くない兵など相手にもならないので、特に気を留めなかった。
曹操達が関羽達から数十歩離れた所で止まると、張遼も曹操の下に寄った。
「曹操殿。別れの挨拶も無しに離れる事をお許しを。これも」
関羽は馬上で頭を下げつつ言葉を述べていると、曹操が手で制した。
「それ以上は何も言わずとも良い。劉備が穣県に居るという報告は聞いておる。お主が私の元を去るのが惜しいと思い、お主の性格を利用し避客牌を掛けた私の心の狭さを笑ってくれ」
「いえ、其処まで見込まれている事に、この関羽ただ感謝の言葉しかございません」
「とは言え、餞別も無しに去られては、この曹操の沽券に係わる。受け取ってくれい」
曹操が手を振ると、それが合図とばかりに曹操と共に来た兵が馬から降りると、盆に袋を乗せて関羽の元まで歩いた。
「これは?」
「君の勲功を称えて、前々から朝廷に上奏した印綬だ。受け取ってくれい」
兵が盆を掲げると、丁度関羽の手が届く所まで上がっていた。
だが、関羽は警戒してなのか、偃月刀の刃を横にして盆に乗せた。
「此処に置くのだ」
「は、はい・・・」
関羽がそう兵に言うと、兵は言われるがままに刃の上に袋を置いた。
それを見た家臣達がいきり立った。
「なっ、丞相がわざわざ上奏した印綬をっ」
「無礼なっ」
家臣達がいきり立つ中で、曹操は怒る様子は無かった。
曹操達が見ている中で、関羽は刃の上に置かれた袋を自分の所まで持ってくると、片手で袋の口を緩めた。
そして、袋の中に手を入れて中に入っている物を取り出した。
中に入っていたのは『漢寿亭侯之印』と彫られている印綬が入っていた。
「漢寿。確か、荊州の何処かの郡にある県でしたな。確か、由来は」
「漢王朝が永久に衰退する事無く栄華が持続しますようにという願を掛けて改名した県だ」
曹操はそう言って口角をあげた。
ちなみに、この漢寿県は改名する前は索県という名前であった。
「この、関羽雲長。地名の如く漢王朝の繁栄の為に忠義を尽くしましょうぞ」
曹操の餞別に関羽は小躍りしそうな程に喜んでいた。
「加えて、この衣を与える。これから寒くなるからな。これを着て寒さを凌いでくれい」
曹操が手で合図を送ると、兵の一人が衣を持って関羽の元まで来た。
「いや、それは」
「断らないでくれ。私の立つ瀬が無くなる」
「……では、お言葉に甘えて」
関羽はそう言って衣を受け取る事にした。
偃月刀の峰の部分に衣を乗せると、そのまま偃月刀を持ち上げた。
衣を刃に当てぬように慎重に豪快に持ち上げると、風で少し揺れるが刃に当たる事は無かった。
「なっ、一度ならず二度までも」
「無礼にも程があるっ」
家臣達はまたいきり立ったが、曹操は気にしていなかった。
「では、これにて御免」
関羽はそう言って曹操に一礼した後、馬首を返して道を進んだ。
動く事で衣が揺れるが刃には当たる事は無かった。
その関羽の背を見た家臣達は怒声交じりで曹操に願い出た。
「丞相。今すぐに関羽を追い駆けて討ちましょう。あのような無礼者、討ち取るべきですっ」
「そうです。討ち取るべきですっ」
家臣達は追い駆けて討つべしと声高に叫ぶが、曹操は認めなかった。
「向こうは一人。こちらは数十人だ。武具を纏っておらずとも、警戒するのも仕方が無かろう。それに、その様な事をすれば、約束を破った事になるであろう。曹操を世間の笑い者にする気か?」
曹操は決して追い駆けてはならないと厳命した。
「それに、関羽は武装しているが、お主達は鎧兜を纏っていないのだぞ。そんな状態で関羽に勝てるのか?」
曹操にそう言われて家臣達も冷静になったのか何も言わなくなった。
張遼は家臣達が大人しくなったのを見て安堵の息を漏らしていた。
「……関羽雲長か。劉備は良い家臣を持ったものだ」
曹操は関羽の背が見えなくなるまで、その場に留まった。
同じ頃。
荊州南陽郡魯陽県。
その県の城の一室で蔡陽が頻りに悔しそうな顔を浮かべていた。
「おのれ、あの馬車の一団に劉備達が居たとはっ。千載一遇の好機を逃すとはっ」
蔡陽は苛立ちを抑える事が出来ず、部屋の中を歩き回っていた。
不審な馬車の一団を見つけて問い詰めている所に山賊の襲撃があった為、そちらの撃退が先だと思い相手をしてした。
その最中で馬車の一団が逃亡してしまった。
問い詰めている時に、馬車の中に居た夏侯一門の姫が出て来て、故郷に向かっている途中だと言っていたので、故郷に向かったのかもしれないと思い、その後も探す事をしなかった。
お蔭で山賊達は全滅し、頭領の杜遠という人物を蔡陽は首を刎ねる事が出来た。
だが、穣県に潜入した密偵からの報告では、見逃した馬車の一団に劉備達が居る事が分かった。
「あの時もっと問い詰めておれば、殿に良い報告が出来た物を」
「伯父上。過ぎた事を言っても仕方がありません」
憤っている蔡陽を甥の秦琪が宥めたが、蔡陽は聞いていなかった。
「このままにしておけば、私が処罰されるかもしれん。下手をすれば、将軍の位の剥奪も有り得るな……」
ブツブツと呟く蔡陽。
独り言を呟いていたと思っていたが、突然止まった。
「此処は穣県に攻め込んで、劉備を討つべきかも知れんな」
蔡陽がそう決めたとばかりに述べた。
「伯父上。流石にそれは、命令違反では?」
「何を言う。私は丞相の命令で、曹子脩様の反乱鎮圧の手伝いに来たが、この軍の指揮権は私が持っている。つまり、私が兵を動かしても、何の問題も無いのだっ」
「そ、そうかも知れませんが、此処は曹子脩様に援軍を乞うてから攻め込んでも良いのでは?」
「そんな悠長に待っている暇など無いっ。今でさえ穣県には四千近くの兵が居るという報告が来ている。このままにすれば、勢力を拡大するであろう。その前に討つ!」
「ですが、我が軍は五千程しかおりません。流石に無理では?」
「近隣の城から兵を集めれば、三千は居るだろう。我が軍と合わせれば八千。城を攻めるとしたら十分だ」
「伯父上。軽挙妄動は止めた方が良いと思います」
蔡陽はもう攻め込む気でいるので、秦琪は止めるが聞き入れてくれなかった。
「今が好機なのだ。私は穣県を攻め込むが、お前は曹子脩様の元に赴き、加勢を頼んで来いっ」
「……承知しました」
どれだけ諫めても聞き入れてくれないので、秦琪は諦めて蔡陽の命令に従った。
翌日。秦琪は蔡陽の命令に従い、曹昂の元に向かった。
その数日後に、蔡陽は近隣の城から兵を集めるだけ集めた後、南下し劉備が籠もる穣県へと向かった。