言葉巧みに
追撃戦に移行した曹操軍。
逃げる袁紹軍の兵達に追いついては捕らえるか斬り殺していった。
官渡城に居る曹操の下には、未だに誰かが誰を討ち取ったという報告が齎されなかった。
そろそろ、誰か将の一人でも討ち取って欲しいものだと席に座りながら思う曹操。
其処に兵が駆け込み、曹操の前で膝をついた。
「報告! 黄河を見張っていた甘寧様が袁紹を発見しましたが、自害したとの事です」
「・・・でかした!!」
曹操は席を飛び上がらんばかりに立って喜んでいた。
この戦で、曹操は袁紹を討ち取れる様に策を練っていたが、未だに討ち取ったという報告を訊いていなかったので、逃げられたかと思いこんでいた所に、自害したという報告を訊いたので、予想以上の戦果が曹操の下に届いたのだから、喜ばない筈が無かった。
「良しっ。袁紹の遺体はこちらに運んで来る様に甘寧に伝えよっ」
「はっ」
曹操の命令を伝えるべく、報告に来た兵は一礼すると急いでその場を離れて行った。
その兵と入れ違いになるように、別の兵が曹操の下に来た。
「報告っ。袁紹軍本陣を攻め込んだ曹仁様が本陣にある牢に沮授という者を見つけたとの事です」
「沮授だと? そう言えば、密偵から袁紹の怒りを買って牢に入れられたという報告を訊いたな・・・・・・」
牢の中に旧知の沮授が居ると思わなかった曹操。
だが、直ぐに顔に笑みを浮かばせていた。
「沮授は此処まで連れて来いと伝えよ。丁重にな」
「はっ。承知しました」
兵はそう言うなり一礼しその場を離れて行った。
数刻後。
曹操の前に沮授が引き出された。
「久しいな。沮授よ。元気とは言えんがな」
牢に入れられていた事で、服は汚れており髪も髭もぼさぼさであった。
それでも、瞳は力強く光っていた。
「曹操。まさか、貴様とこうして生きて出会う事が出来るとは思いもしなかったぞ」
「ほぅ、お主の予想では私が首になった状態で会うだろうと思ったのか?」
「その通りだ」
曹操の推察を聞いて、沮授は素直に認めた。
沮授の言を聞いて、曹操よりも曹操の周りにいる護衛の者達がいきり立った。
「丞相。この者はどうしますか?」
側にいる荀攸が曹操に訊ねた。
「この者の才は此処で殺すのは惜しい。できれば、配下に加えたい」
曹操がそう言うのを聞こえたのか沮授は顔を顰めた。
「私は袁家に仕える事に決めたのだ。家族も袁家に仕えている。断じて、袁紹様に逆らわない。お主に従うつもりはない!」
沮授は声を大にしてハッキリと告げた。
「そう言うでない。お主は袁紹に疎まれていると聞く。そんな者を主に戴いては、お主と一族の者達は破滅するぞ」
「例えそうでも、主を裏切るつもりはない! それに、殿は暗君ではなく名君だ。一時は私を疎もうとも、消して切り捨てるような事はせん!」
沮授が頑なに寝返る事を拒否するので、曹操は少し頭を冷やしてもらおうと思い、牢の中に居て貰おうと命じる所で、兵が曹操の下に来た。
「申し上げます。甘寧様が袁紹の遺体を持って参りました」
「来たか。良し、広場で会うと伝えよ」
「はっ」
曹操の返事を聞いた兵は甘寧に伝える為、一礼し離れて行った。
「待て! 今、あの者は何と言ったのだ?」
沮授は顔を青くさせながら曹操に訊ねて来た。
「うん? ああ、そうか。お主には言っていなかったな。袁紹は逃げるのに失敗して自害したのだ」
曹操が告げた言葉を聞いた沮授は目を飛び出しそうな位に見開かせていた。
「で、出鱈目を申すな!」
「出鱈目かどうかは、私に付いて来たら分かるだろう。どうする?」
曹操は付いて来るかと聞いて来たので、沮授は頷いた。
「では、付いて参れ」
曹操は荀攸と護衛の者達と沮授を縛る縄を持った兵と逃亡阻止の為の兵と共に甘寧の元に向かった。
少し歩くと、城内にある広場に出た。
其処に甘寧と数名の部下がいた。
甘寧達の側には大きな木製の棺が置いてあった。
「甘寧」
曹操が甘寧を呼ぶと、呼ばれた甘寧は声が聞こえた方に顔を向けると、直ぐに跪いた。
甘寧に倣うように部下達も跪いた。
「よくぞやってくれた。甘寧。素晴らしい戦果ぞ」
「はっ。有り難きお言葉にございます」
曹操が称賛してくるので、甘寧は顔を伏せたまま恐縮していた。
「そう固くならなくても良い。それよりも、その棺に居るのか?」
曹操が棺を見ると、甘寧は顔を伏せたまま答えた。
「その通りにございます。この棺の中に袁紹の遺体が入っております」
甘寧がハッキリと袁紹の遺体があると告げた。
その言葉を聞くなり、沮授はその場で膝をついた。
「馬鹿な・・・・・・」
沮授はそう呟いた後、目から涙を流していた。
嗚咽をあげる沮授。
「・・・・・・確認しても良いか?」
「はい」
曹操は冷静にそう訊ねると、甘寧は返事をして立ち上がった。
棺の側に行くと、蓋に手を掛けて開いた。
蓋が開けた棺に近付く曹操は、棺の中を覗き込んだ。
中に入っていたのは、甲冑を纏ったままで目を瞑っている袁紹の遺体であった。
首には布が巻かれており、刀身は鞘に収まっており両手で剣を柄を握り胸に置かれていた。
「・・・・・・うむ。間違いなく袁紹だな」
幼い頃から友人であったので、曹操は見間違える事はしなかった。
一通り見た曹操は沮授の方を見て手招きした。
それを見た兵が此処まで連れて来いという意味だと察して、紐を引っ張り沮授を連れて行った。
沮授は慌てて立ち上がり、棺の傍まで来た。
「殿・・・・・・」
沮授はそう言った後、また嗚咽を漏らしだした。
暫くの間、沮授は泣き続けた。
ようやく、沮授の涙が止まった所で、曹操は沮授に話しかけた。
「袁紹が死んだ今、お主の忠誠は袁家に捧げるのか?」
「ん、んん・・・何を言って」
「いや、袁紹が死んだ以上、お前は袁譚か袁煕か袁尚の誰に仕えるのだろうと思ってな」
「それは・・・・・・」
沮授は言葉を詰まらせた。
沮授と此処には居ない田豊は袁紹に仕えていたが、その子供達とは親しくなろうとしなかった。
下手に親しくなれば、跡目問題に影響すると思ったからだ。
だが、此処で袁紹が死んだ事で跡目問題が噴出するのは目に見えて分かった。
此処で沮授が袁家に戻っても、袁譚か袁煕か袁尚の誰かに仕えるしかなかった。
沮授が袁紹の子供達と親しく交わろうとしなかったのは、跡目問題もあるが一番の問題は袁紹の三人の子供達は全員、袁紹に比べると格段に器量が劣っていたからだ。
加えて、袁譚には郭図が、袁尚には審配が補佐に就いていた。
その二人と沮授は仲が悪かった。その為、沮授は二人が味方に加えてくれるとは思わなかった。
同じ理由で田豊も同じだと予想できた。
(それにこの敗戦を理由にして処刑する可能性も出て来た……)
このまま戻って自分が理由をつけて処刑されるだけではなく、一族の者達も処刑されるかもしれないと思った沮授。
その様な怖い妄想に耽っている沮授に曹操は話し掛ける。
「沮授よ。悪い事は言わん。袁紹ならば良いが、あいつの子供達に仕えるのは止めた方が良いぞ。密偵からの報告によると、三人の子供達はかなり器量が劣っているそうだな」
「…………」
「そんな者達の一人に仕えるぐらいならば、私に仕えた方が遥かにマシだぞ」
沮授は曹操の言葉を聞いて迷い始めた。
「……だが、冀州には私の一族がいる」
「其処だ。お主が冀州に戻っても、処罰されない方法があるぞ」
「なに?」
「その方法を教えても良いが、条件がある?」
「私が貴殿に仕えよと?」
「そうだ」
曹操は頷くと、沮授は暫し考えた。
「……その方法は冀州に戻って、一族を助ける事が出来るのか?」
「無論だ」
曹操は断言した。
「…………良かろう。もし、其方が言う方法が本当に一族の者達を助ける事が出来るのであれば、私は其方に忠誠を誓おう」
沮授はそう告げるのを聞いて、曹操は笑みを浮かべた。
「良かろう。その方法というのだはな」
曹操が方法を話しているのを聞きながら、沮授は心の中で。
(お許し下さい、殿。貴方を討ち取った者に降る不忠を。これも我が一族が生き延びる為です)
曹操の話が終わるまで、沮授は心の中で謝り続けていた。