袁紹の最期
翌日。
袁紹軍の陣営には激震が走っていた。
烏巣の兵糧庫が焼かれた事と、張郃達が寝返った事が陣営に知れ渡ったからだ。
烏巣の兵糧庫には袁紹軍の兵糧、その大部分が置かれていた。
本陣にも兵糧はありはするが、七日保てば良い位の量しかなかった。
それに加えて張郃と高覧の二人が曹操軍に降伏した事も大きかった。
二人は顔良・文醜亡き後の袁紹軍を代表する勇将達であった。許攸も寝返ったのだが、兵達からしたら張郃達が寝返った事の方が衝撃が大きかった。
今、袁紹軍に居る将達で二人に敵う武勇と統率力を持っている者は居なかった。
辛うじて勝てそうなのが審配ぐらいだが、その審配は本拠地の鄴に居る為、陽武に来る事は難しいと言えた。
そんな袁紹軍の軍議では二つの意見で割れていた。
「兵糧が奪われたのであれば、奪い返すべきだ。全軍を持って曹操軍が籠もる官渡の城を攻撃するべきだ!」
「兵の士気が落ちている中で、城攻めなど不可能だ。此処は一刻でも早く本拠地に帰還するべきだっ」
という徹底抗戦と撤退の二つに分かれていた。
徹底抗戦を唱えるのは逢紀。撤退を進言するのは郭図であった。
「もう一兵卒ですら、我が軍の兵糧が殆ど無い事を知っているのだ。ならば、此処は鄴に戻り体制を立て直すべきだ。それを終えた後に、再び曹操と雌雄を決すべきだっ」
郭図は撤退して体制を立て直した後で、戦うべきだと進言した。
「いや、撤退しようにも黄河は既に曹操軍の水軍が制している。我が軍の水軍は壊滅状態でまだ再建すら出来ていない。どうやって、我が軍を撤退させるつもりだ?」
逢紀は水軍が壊滅しているのにどうやって帰るつもりなのかと問い詰めた。
「如何に曹操の水軍が黄河を制したとしても、河の全域を見張る事など不可能だ。何処かに抜け道がある筈だ。その道を使い、船に乗り撤退するのだ」
郭図は如何に強力な水軍と言えど、黄河全域を見張る事は無理があるので、何処か監視から離れている所から撤退するべきだと言うが、聞いた逢紀は怒鳴り声を挙げた。
「今、我が軍の残っている船の殆どは人が多く乗る事が出来ぬ赤馬だと知っているのか⁉ そんな小舟では精々数人しか乗れぬ。撤退している間に、曹操軍の水軍の襲撃を受けるに決まっているだろう!」
逢紀の意見に郭図は言葉を詰まらせた。
「故に此処は全軍で官渡の城を攻めて落とした後に、鄴に撤退するのだ。さすれば、追撃される心配は無い」
「それはあまりに無謀な事だ。城を攻め落とす前に兵糧が尽きるかも知れぬのだぞっ」
「尽きる前に落とせば良いだけの事ではないかっ」
「そんな出来るかどうか分からぬ事に戦を仕掛ける等」
「もう良い!」
郭図が話している最中で、袁紹が大声を挙げた。
袁紹の一喝で軍議の場はピシャリと静かになった。
「これ以上話した所で、何も変わらん! 最早、我が軍がする事は一つしかない!」
袁紹が決断したようなので、皆はどんな決断を下すのだと思いながら清聴した。
「敵の水軍により、水軍は壊滅状態。ならば、此処は乾坤一擲を賭して、曹操軍が籠もる官渡を攻め落とす!」
袁紹は戦う事を選んだ。逢紀を含めた家臣達は袁紹の命令に従った。
「殿、それは」
「敵の追撃を避けるためには、この策しか無い。全軍に触れを出せ! これより、我等は官渡城へ総攻撃を仕掛ける‼」
郭図は止めようとしたが、袁紹は聞き入れる事はなかった。
数刻後。袁紹軍は本陣に僅かな兵を残して、官渡城へと進軍した。
袁紹軍が進軍した事は、直ぐに密偵から曹操の下に報告が来た。
「気でも狂ったか? あやつ」
袁紹軍が総攻撃を仕掛けると聞いた曹操は思わずそう零した。
兵糧が少ない中で攻め込んでくるという無謀さに、曹操は有り得ないだろうと思っていた。
「殿。こうも考えられるのでは、袁紹軍は背水の陣を敷いたとも」
賈詡が意見を言うと、曹操は有り得ないとばかりに手を振る。
「今だに袁紹軍は我が軍よりも多いのだぞ。それで、背水の陣を敷いて何になる。無駄に兵糧を消費するだけであろう」
「そうでしょうな。ですが、袁紹軍は数が多いですので、此処は野戦を避けて兵の士気が落ちた頃に奇襲を仕掛けましょう」
「それが良いな。全軍に守りを固める様に伝えよ」
「丞相。それともう一つ。今、袁紹軍は全軍で攻め込んで来ております。此処は本陣を攻め落とすのが良いかと思います」
「うむ。その意見には賛成だ。誰か、本陣を攻め落としたい者はおるか?」
曹操が問い掛けると曹仁が前に出た。
「丞相。私に三千の騎兵をお与え下さい。必ずや本陣を落としてご覧にいれますっ」
「よし。曹仁。お主に任せた。副将に曹純と張繍をつける。三千の騎兵と共に本陣を落として参れ」
「はっ」
曹仁は命令に従いその場を離れて行った。
「・・・・・・殿。敵の士気を挫くのに良き考えがあります」
「ほぅ、荀攸。どの様な考えがあるのだ?」
曹操の問い掛けに荀攸は近付いて、耳元に囁いた。
それを聞いた曹操は何度か頷いた後「それでいこう」と言って、直ぐに荀攸に手配させた。
数刻後。
袁紹軍が官渡水を挟んで布陣した。
後は河を渡り攻撃するだけであった。
袁紹はそろそろ布陣が整ったので、攻撃を命じようとした所で、城の城郭から身を乗り出す者が居た。
「あやつはっ」
少し距離が離れているが、袁紹の目にはハッキリとその者が誰なのか分かった。
「袁紹。我が嘗ての主よ。何をしに此処に来た? 今更、曹丞相の許しを乞いに参ったのか? 全軍を降兵にするとは見上げた心意気よっ」
「許攸っ、貴様、私の恩に叛いて、曹操に付くとは! この恥知らずが⁉」
「私がどれだけ策を献じても、貴様は禄に取り上げなかったではないかっ。加えて、私の親族が無実の罪で捕まったと言うのに、碌に調べもせずに投獄するとは、何と無情な事よっ。何と度量の無い男だ。貴様は‼」
「私を辱めるつもりか‼ この恩知らずが⁉」
「黙れ、逆賊! 私の首が欲しければ、此処まで取りに来るが良い!」
許攸は首を差し出すように襟を退けて見せつけた。
「お、おのれええええ、全軍、攻撃するのだ‼」
「殿。敵の挑発に乗ってはなりませんっ」
郭図が止めようとしたが、袁紹は赤い顔をしながら郭図を睨みつけた。
「黙れ! 貴様も首を斬られたいのか⁉」
袁紹が剣の柄に手を掛けながら叫ぶのを聞いて、郭図は押し黙った。
「総攻撃を仕掛けよ! 必ず、許攸と曹操の首を取るのだ!」
袁紹の号令に従い、袁紹軍は進軍を開始した。
浅瀬を渡り進み続ける袁紹軍の兵達。
対岸にある城の周りを固める様に布かれている曹操軍の陣地を攻撃する為に駆け出していた。
その内の一つに袁紹軍が向かっていた。
「ふっ、敵は我が軍の恐ろしさを知らぬようだな」
その陣を守っているのは夏候惇であった。
「霹靂車で攻撃をせよ。それでも陣地に近付く敵には矢を放て!」
夏候惇の命令に従い、霹靂車の容器の部分に焙烙玉が置かれて火が付けられた順から放たれた。
放たれた焙烙玉は放物線を描きながら、河を渡っている袁紹軍の列に直撃し大爆発を起こした。
「うわああああっっっ⁉」
「いてえ、いてええ、いてえええよおおおぉぉぉ」
爆発の衝撃で爆炎に襲われる袁紹軍の兵達。
黒焦げになる者も居れば、爆発により身体の一部が欠損する者も居た。
焙烙玉の破片が刺さり痛がる者まで居た。
味方が倒れる中で、足を止めない者達も居たが、その者達は矢が突き刺さり倒れて行った。
袁紹軍からも負けじと矢を放ち、曹操軍の兵達を大地に倒していく。
夏候惇率いる軍の兵は減っていっているが、今だに陣地を落とす事が出来ずに屍の山を築く袁紹軍。
そのような攻防が一日中続いたが、夜になると両軍は攻撃を止めた。
翌日、再び攻撃を再開した。
昨日と同じ攻防が続く中で、一騎の騎兵が袁紹の元に駆けて行った。
「殿! 殿! 大変にございます!」
「何事だ⁉」
「曹操軍の奇襲部隊が我が軍の本陣を強襲。本陣は落とされ、兵糧は全て奪われました。もう、戻れません!」
「…………曹操めっっっ!」
本陣が奇襲されたという報告を訊いた袁紹は怒りのあまり血が出る程に唇を噛んだ。
このままでは不味いと思っているところに、官渡の城門が一斉に開かれた。
「今こそ、袁紹の首を取る好機!! 掛かれ‼」
曹操が城郭より総攻撃を命じた。
その号令の元、曹操軍は袁紹軍に襲い掛かった。
数こそ多い袁紹軍であったが、曹操軍の突然の攻撃に浮足だってしまった。
其処に典韋、許褚、徐晃、夏侯淵、史渙、関羽と言った猛将勇将を送り込み敵兵を蹴散らさせて進軍させた。
典韋達の勇猛さに袁紹軍の兵達は混乱しだした。
最早、負けると思ったのか、袁紹軍の兵達の中には逃亡を図る者も出だした。
「逃げるな! 逃げる者は全員、切り捨てるぞ!」
袁紹が声を涸らさんばかりに叫ぶが、誰も聞き入れる事は無かった。
混乱状態の袁紹軍。
袁紹はもう指揮するのは無理と思ったのか、数百騎ほど連れて行き撤退を始めた。
袁紹が逃げるのを城郭から見た曹操は叫んだ。
「袁紹が逃げたぞ! 袁紹を討ち取れ! その首を取った者には千金の褒美と共に官職を与えてやる‼ 袁紹の首を取れ! 袁紹の首を取れ!」
曹操の追撃命令は、直ぐに各部将達に伝わり、部将達は目の色を変えて袁紹を追い駆けた。
袁紹は途中何度も追撃する曹操軍の兵に追いつかれたが、袁紹を守る兵達が身を賭して防いだお蔭で、何とか逃げる事が出来た。
袁紹は自分に従う兵が百を数える頃になると、ようやく黄河の畔に辿り着いた。
黄河を見ながら、袁紹は従っている兵に訊ねた。
「今はどの程度の兵が残っている・・・・・・」
「今は百騎程しかおりません」
袁紹の問い掛けに兵は正直に答えた。
「・・・鄴を出陣した時は四十万は居たというのに、今は百騎程しかおらんとは」
袁紹は信じられないという顔をしていた。
兵達は嘆いている袁紹を元気付けて、今は逃げるように言おうとしたが。
袁紹の足元に矢が突き刺さった。それを見て、袁紹に従う兵達は剣を抜いた。
河から幾つかの船がこちらに向かって来るのが見えた。
その船には曹の字と甘の字の旗が掲げられていた。
「荀攸殿が言われた通りに、黎陽の近辺を見張っていたが、袁紹軍の敗残兵が大量に来るな」
船に乗っている甘寧はそう零した。
荀攸が曹操に、袁紹軍は敗退した場合、黄河の黎陽の近くに来る事も考えられるので、其処を甘寧に監視させて敗残兵を捕縛するか殺すべきだと伝えたのだ。
曹操も言う通りだと思い、甘寧に文を送り黄河の黎陽の近くの畔を見張らせたのだ。
「最早、これまでか・・・・・・」
袁紹は向かって来る甘寧の水軍を見て覚悟を決めたのか、剣を抜いた。
「口惜しいっ。真に無念なりっっっ‼」
兵の制止も聞かず、袁紹は剣で自分の首を斬った。
斬られた所から、血が噴き出した。
袁紹は目を開けたまま、血を噴き出しながら地面に倒れた。
周りの兵達は涙を流しながら、袁紹の死を嘆いた。