崩壊の兆し
郭図が夢想している頃。
官渡の城を出陣した曹操率いる軍勢は許攸の道案内を受けながら、烏巣へと向かっていた。
袁紹軍の陣地の周囲には巡回する兵達が居るのだが、許攸がその兵達の順路は知っていたので、出くわす事無く通過した。
途中の道に関はあったが、曹操軍はその関に何の躊躇も無く近付いた。
関の兵達は一瞬身構えたが、直ぐに警戒を解いた。
何故なら、曹操軍の軍装が袁紹軍の軍装であったからだ。
これは許攸の進言であった。
烏巣に向かう途中で関はあるので、袁紹軍に偽装すべきだと。
曹操はその進言に従い、偽装を行った。その準備のお陰で出陣が夜となったのだが、それも丁度良いと言えた。
旗も袁の字が書かれた旗を掲げているので、夜の暗さも加わり袁紹軍だと思ってもおかしくなかった。
ちなみに、巡回の兵に会わない様にしたのは怪しまれない為であった。
「何用で此処を通るのだ?」
関を守る兵が袁紹軍に偽装した曹操軍に問い掛けた。
すると、先頭に居る兵が一礼した後、答えた。
「我らは袁紹軍蔣奇将軍麾下の兵だ。将軍の命令により、烏巣の防備の増援に向かう途中である」
兵がそう答えると、関を守る兵達はそんな報告など聞いていないのか、困った顔をしていた。
「ふむ。どうやら、情報の行き違いがあったようだな」
困っている兵達を見て、偽装した曹操軍の中から許攸が姿を見せた。
「これは子遠様」
許攸を見るなり、袁紹軍の兵達は一礼した。
「この者達は間違いなく将軍の兵だ。将軍は軍務で忙しいので、伝令を送るのを忘れていたのであろうな。その将軍の代わりに私が兵達を烏巣まで連れて行く事になったのだ」
「そうでしたか。では、どうぞ」
許攸の説明を聞いて兵達も納得したのか、関の門を開けくれた。
「ご苦労」
許攸が兵達を労うと、偽装した曹操軍は門を潜りそのまま駆けて行った。
駆けていく中で、許攸は先程返答した兵に近付いた。
「後、幾つか関がありますが、今の様にして行けば十分通れると思います」
「そうか。ならば、問題無いな」
許攸にそう答える兵は、実は兵に偽装した曹操であった。
偽装するという事で鎧を揃えたのだが、部将用の鎧は多くなかった。
仕方がないので、曹操は普通の兵が着る鎧を身に纏っていた。
「夜の内にはカタをつけたい。全軍、急ぐぞっ」
曹操がそう命じると共に駆け出したので、将兵達もその後に続いた。
全ての関を通り抜け、ようやく烏巣が見える所にまで辿り着いた曹操軍。
烏巣の陣地から楽しく騒いでいる声と共に焚火の明かりが見えていた。
その明かりにより、陣地の門には兵は立っていない事も見張り台に居る兵達も酒を飲んで警戒していない事が見て取れた。
(烏巣の警備が固いとは言え、此処まで警戒をしていないとは、気の抜き過ぎだな)
本当に淳于瓊の奴はよく西園軍の校尉に選ばれたなと思う曹操。
そんな思いも直ぐに振り切り、曹操は無言で手を掲げ下ろした。
すると、後ろにいた兵達は火矢を番えて弦を引き絞った。
十分に引き絞られると、火矢が放たれた。
矢は見張り台に居る兵達だけではなく、陣地で騒いでいる兵達にも届き容赦なく身体に突き刺さった。
陣地から何かが燃える音と悲鳴が聞こえてきたが、曹操軍の兵達は気にも留めなかった。
兵達が木で出来た杭を持って駆け出し、そのまま門に突撃した。
見張り台の兵達は沈黙しているので、何の障害も受ける事無く門に杭をぶつけた。
その杭の勢いにより、門は大きな音を立てて壊された。
「全軍、突撃せよ!」
曹操が号令を下すと、曹操軍の将兵達は喚声を挙げて突撃した。
烏巣の守備する兵数は一万なので、普通に防げば撃退する事は出来る。仮に出来なくとも本陣に援軍を乞う使者を送って援軍が来るまでの間防げば良いだけであった。
だが、楽しんでいる所で奇襲を受けた事で兵達は混乱状態であった。
「狼狽している場合かっ。敵が来たのだっ。迎撃せよ!」
淳于瓊が大声でそう命じるが、兵達は聞く耳を持たない程に混乱していた。
仕方がないので、淳于瓊は得物を掴んで自分の言う事を聞く者達だけ集めて防衛する事にした。
近付く曹操軍の兵達に得物を振るい薙ぎ倒していく中で、楽進が姿を見せた。
「其処に居るのは敵将と見た⁉」
「おうっ、西園軍の八校尉にも選ばれた淳于瓊仲簡とは、私の事だ!」
「我こそは楽文謙! その首貰い受けるっ」
「返り討ちにしてくれるわ!」
そう叫ぶなり、二人は得物をぶつけ合った。
兵達の悲鳴と喚声が響き渡る中で戦う二人。
淳于瓊の方が楽進よりも強いようで、楽進が徐々に押されて行った。
それを見た曹操軍の兵達は熊手で後ろに引っ張った。
「ぬおっ⁉」
淳于瓊が体勢を崩した瞬間を楽進は見逃さなかった。
「貰った!」
楽進が放った横薙ぎの一閃は淳于瓊の首を狙ったが、体勢を崩した淳于瓊はそのまま倒れてしまい狙いがずれた。
楽進の一撃は淳于瓊の首ではなく鼻を削いでしまった。
「ぐうおおおおおっ」
鼻を斬り落とされた淳于瓊は悲鳴を上げて悶えていた。
「捕らえよっ」
悶えている淳于瓊を見た楽進は首を取る事は無いと思い兵に命じて捕まえさせた。
楽進が淳于瓊を捕まえている間、戦況は動いていた。
副将として付けられていた眭元進、韓莒子、呂威璜、趙叡の四人は此処で兵を率いて守っていたが、淳于瓊が捕まったという報を聞くなり眭元進と趙叡の二人はその場から逃げ出した。
韓莒子と呂威璜の二人はこれまでとばかりに曹操軍に突撃した。
何人かの兵を討ち取った所で、典韋と許褚の二人に出くわしてしまい、韓莒子は典韋に、呂威璜は許褚に討ち取られた。
逃げた眭元進と趙叡の二人は関羽が追い駆けていた。
「将と兵を見捨てて逃げるとは、見下げ果てた奴等め。我が冷艶鋸の錆にしてくれる!」
やがて、二人に追いついた関羽は容赦なく偃月刀を振り下ろして二人を討ち取った。
烏巣の陣地が曹操軍の攻撃を受けている頃。
烏巣から逃げ出した兵達が、袁紹軍の本陣に駆け込み烏巣が襲われている事を報告した。
最初は持ち場を離れた兵の嘘かと思われたが、次々とそう報告する兵が本陣に駆け込んできた事に加えて、烏巣の方から赤い空が見えた。
見張の兵は慌てて袁紹に報告した。
その報告を訊くなり、袁紹は軍議を開いたのだが。
「烏巣を救うべきだと!」
と言う者も居れば。
「烏巣を守っていた守備軍は一万だぞ。曹操軍は全軍で攻め込んだのであろう。であれば、今官渡の城の守りは手薄。此処は城を攻め落とすべき!」
という二つの意見に分かれていた。
烏巣を救うべきと発言しているのは武将の張郃であった。
その張郃の意見に同調する様に同僚の高覧も同じように発言した。
二人は顔良・文醜亡き後の袁紹軍を代表する勇将であった。
逆に曹操軍の城を攻撃すべきだと進言したのは郭図と蔣奇の二人であった。
どちらの意見も正しいと思い、袁紹はどちらの意見を取るべきか考えていた。
そう考えている横で、張郃と郭図の二人は自分の意見が良いとばかりに論じていた。
その論じる声があまりに大きいので、袁紹は段々と苛立ち始めた。
「・・・・・・やめんか! 今は口論している場合ではなかろうがっ」
袁紹が一喝すると、張郃達は静かになった。
「張郃と高覧の二人はそれぞれ五千の兵を率いて官渡の城を攻撃せよ! 蔣奇は一万の兵を率いて烏巣を救援に向かえ‼」
袁紹の命令を訊いた皆は耳を疑った。
自分達の意見が逆の事を命じられれば、耳を疑ってもおかしくなかった。
「早く行かんか! 郭図。お前は本陣に居る兵達の動揺を鎮めてこい‼」
唖然としている将達に袁紹は怒鳴った。
その怒鳴り声を聞いて、将達は聞き間違えではないのだと悟り、急いで行動した。
袁紹軍が出撃の準備をしている頃。
烏巣は曹操軍の手に落ちていた。
既に関羽と楽進に兵の半分を与え、兵糧を運び出していた。
燃えている陣地の中で兵糧が運び出されている中で、曹操はある者と会っていた。
その者は淳于瓊であった。
鼻を斬られても、地面に膝をついていても背筋を伸ばして曹操を睨んでいた。
「・・・久しぶりだな。仲簡殿。最後に会ったのは董卓の暗殺をする前であったな」
「曹操。私をどうするつもりだ?」
睨みつけてくる淳于瓊を見る曹操は語り掛けた。
「お主はそれなりに有能だと思っていたが、こうもあっさりと烏巣を奪われるとは。何故、私に敗れたと思う?」
「ふん。油断していただけだ。だが、負けた以上、そんなの何の理由にもならんな。早く首を取るが良い」
淳于瓊は目を閉じて首を斬られても良いように頭を倒した。
そんな淳于瓊の態度を見て潔いなと思い、このまま殺すべきか考えていると、側にいた許攸が囁いた。
「鏡を見る度に奴は我等に恨みを抱くでしょう。今の内に殺すべきです」
許攸の進言を聞いて、その通りだと思い曹操は兵に首を斬るように命じた。
兵はその命令に従い剣を抜いて、淳于瓊の首を斬った。
それを見た曹操は次の捕虜をどうするべきか考えていると、物見に出していた兵達が戻って来るなり、曹操の下まで来た。
「申し上げます! 蔣奇率いる一軍がこちらに向かってきておりますっ」
「そうか」
曹操は呟いた後、捕まえた捕虜達には耳か鼻を削いでから解放する様に命じた。
その命令により曹操軍の兵達は袁紹軍の兵達に耳か鼻を削いでいき解放した。
解放された袁紹軍の兵達は痛みで声を上げながら本陣へと逃げて行った。
「はははは、逃げろ‼ 逃げろ‼ 蔣奇にお前達よりも恐ろしい目に遭う事を伝えるが良いっ」
逃げる袁紹軍の兵達の背で笑う曹操。
袁紹軍の兵達が見えなくなると、曹操はその場に残ってる兵達と共に本陣に帰還した。
曹操軍が撤収している頃、蔣奇率いる軍が解放された袁紹軍の兵達と出くわした。
皆、耳か鼻を削がれており、身体を血で赤く染めていた。
その兵達を治療をしつつ話を聞く蔣奇。
淳于瓊以下その他の将は討たれ、生き残った自分達は耳か鼻を削がれて解放された事を告げた。
「既に烏巣の陣地は完全に燃やされて、兵糧は一粒もありません。加えて、曹操は自分達よりも恐ろしい事をすると言っておりました。恐らく、将軍が来るのを待ち構えている模様です!」
「な、なんと・・・・・・」
耳と鼻を削がれた兵達よりも恐ろしい目に遭うと聞いた蔣奇は慄いていた。
将軍である蔣奇が怯えてしまった事で、兵達も足を止めてしまった。
また、救援に向かっている陣地は完全に燃やされ、其処を守っていた将達も斬られたと聞いたので、救援に向かう意義が無くなっていた。
そんな中に突っ込んで伏兵に遭うのは御免だと思った蔣奇は偵察の兵を出して、曹操軍が待ち構えているかどうか調べさせた。
戻ってくると、曹操軍の姿など無いと報告した。
その報告を訊いた蔣奇は隠れているのだと思い、また偵察の兵を出して詳しく調べさせた。
二度目に偵察に出した兵達が戻って来ても、曹操軍が見つからなかったと聞いても、蔣奇はその後も兵を送り調べさせた。
どれだけ調べても、曹操軍が見つからないと分かり、蔣奇はようやく進軍した。
蔣奇が烏巣の陣地は完全に焼かれ、討たれた将の首が晒されていた。
曹操軍が何処にいるのか分からないので、蔣奇は首を回収した後、本陣へ帰還した。
そして、袁紹に烏巣は燃やされて淳于瓊以下の将達は討たれた事を報告した。
その報告を訊いた袁紹は怒りながら、どうして曹操を追撃しなかったのかを蔣奇に訊ねた。
蔣奇は敵の策があるのかと思い迂闊に進めなかったと述べると。
「このっ、愚か者‼ 貴様の所為で我が軍の兵糧の悉くが焼かれた上に、曹操を討つ事が出来たかも知れない好機を逃すとはっ。誰か、此奴を外に連れ出して斬れ!」
袁紹は怒りに任せて蔣奇を斬るように命じた。
蔣奇は助けを乞うたが、袁紹は聞き入れなかった。
やがて、蔣奇の悲鳴が天幕の外から聞こえて来た。
その悲鳴を聞いた郭図はどうか官渡の城の攻撃は成功する様に祈った。
同じ頃。
官渡の城の攻撃を命じられた張郃と高覧の二人は曹操軍の攻撃を受けていた。
自分達が率いて来た軍よりも多い軍勢の攻撃を受けていた。
流石の張郃と高覧の二人も数の多さには敵うべくもなく敗退してしまった。
敗退した事を告げる使者を本陣に送った。
その使者は袁紹に会う前に、郭図に会った。
使者の報告を訊いた郭図は内心で不味いと思った。
このままでは、自分も蔣奇の二の舞になると思った郭図は使者には自分が伝えると言って下がらせた。
そして、郭図は袁紹の元に来て官渡城の攻撃が失敗した事を告げた。
同時にこう述べた。
「しかし、おかしなことですな。烏巣を攻めた曹操は全軍を持って攻めたと言うのに、どうして、あの二人は手薄になった城を落とす事ができなかったのでしょうか?」
「それは、烏巣を攻めた軍が少なかったのではないのか?」
袁紹の疑問に郭図は首を振る。
「いえ、それはないでしょう。烏巣には一万の軍が守備に着いておりました。如何に不意を突いたとはいえ、数千の兵で打ち破るなど、如何に曹操とは言え無理でしょう」
「ふ~む。確かにそうだな」
「ですので、恐らく烏巣には全軍で攻めたのでしょう。であれば、城は手薄という事になります。そんな城を攻め落とす事が出来ないとは。・・・・・・もしや、御二人は殿に愛想が尽きて、曹操に降るつもりなのでは?」
「なにっ⁉」
「これは、二人が戻り次第、厳しく問い質すべきです」
「そうだな」
袁紹の目を見て、これは何らかの処罰を下すと見た郭図は、これで献策した自分は処罰されないだろうと思い安堵した。
だが、天幕の外には張郃達が送った使者が居た。
一応自分が伝える様に命じられたので、使者は袁紹の天幕に赴いた。
其処で郭図と袁紹の話を立ち聞きしてしまった。
話を聞いた使者はこれは大変だと思い、その場を離れると陣地を飛び出して張郃達の元に向かった。
暫くすると、使者は張郃達の元に戻った。
そして、使者は自分が聞いた話を張郃達に話した。
話を聞いた張郃達は呆れて天を仰いでいた。
「馬鹿な。殿が命じた事を果たそうと懸命に頑張った我等を処罰するとは・・・」
「どうやら、我等は名君ではなく暗君に仕えていたようだな」
命じられた事を果たそうとした結果がこれでは嘆くのも仕方がないと言えた。
「どうするべきか?」
「そんなもの決まっている。戻って処罰されるぐらいであれば、敵に降伏した方がましだ。張郃、お主はどうする?」
高覧は最早袁紹に対する忠誠心は無くなったのか、曹操に降る事を決めていた。
張郃は少し考えた後、高覧と同じく曹操に降る事に決めた。
そして、二人は白旗を掲げて官渡の城へと引き返した。
その途中、帰って来た曹操軍に出くわしたが、張郃達は馬から降りて降伏を申し出た。
兵達も武器を捨てて頭を下げた。
それを見た曹操は詳しい話を聞く為、張郃達と率いている兵と共に城に戻った。
城に戻るなり、張郃達から詳しい話を聞いた。
話を聞いた曹操も呆れていた。
(囲魏救趙の計で私を倒そうとしたようだが、狙いを絞らなかった所為でこうなったのだろうな)
これで、烏巣の救援か官渡城の攻撃のどちらかに絞れば、曹操は危機に瀕していたかも知れなかった。
何とも袁紹らしい失敗だと思いながら、曹操は策が上手くいった事と、降伏した張郃達を引き入れた事を祝って宴を開く事にした。