好機到来
許攸が袁紹軍の陣地を飛び出した日の夕方。
もう少しすれば夜になろうという時刻。
曹操は自分用の部屋におり、兜を脱ぎ椅子に座り寛ごうとしていた。
其処に兵士が部屋の前まで駆けて来ると、護衛といる典韋がその兵に何事か話した後、曹操に伝えるために部屋に入った。
「丞相。今、城門に丞相の旧友の許攸と名乗る者が来ているそうです」
「許攸だと? 確かにあやつは幼い頃は共に遊んだ仲であったが……」
許攸の名前を聞いた曹操は不審そうな顔をしていた。
(奴は確か袁紹に仕えている筈。何故、私に会いに来たのだ?)
袁紹が送って来た使者か?と思いながら、取り敢えず会う事にした曹操。
城内の庭で許攸は膝を付いて、曹操が来るのを待っていた。
許攸の周りには夏侯淵、夏候惇、曹仁、曹洪と武将達が囲み、曹操に害をなす動きをすれば何時でも切って捨てるつもりであった。
やがて、曹操は護衛として典韋、許褚の二人を左右に従えてやって来た。
「丞相。お久しぶりにございます」
曹操を見るなり拝礼した。
それを見るなり、曹操は典韋達に手で其処にいろと指示を出した後、曹操は許攸に近付いた。
曹操の行動を見て、夏候惇達は声が出そうになったが、何とか喉元に留める事が出来た。
曹操は許攸の傍まで来ると、その肩を優しく叩いた。
「許攸よ。そのような堅苦しい挨拶など無用だ。君と私は古くからの友だ。官職などを気にする事はなかろう」
「ははぁっ。丞相の深い御心に、この許攸子遠。大変嬉しく思います」
許攸は深く頭を下げると、曹操は手を伸ばした。
その伸びた手を見た許攸は何を意味するのか察したのか、おずおずと自分の手を伸ばして曹操の手を取った。
曹操はその手を取り、許攸を起こした。
「さぁ、私の部屋に行こう。古い友人が来てくれたのだ。旧交を温めようぞ」
曹操はそう言って許攸を連れて部屋へと連れて行った。
許攸を連れた曹操は直ぐに酒の準備をさせた。
暫くすると、膳が二つ置かれ曹操と許攸は対面席で酒を酌み交わしていた。
二人は他愛の無い話をしながら酒を飲んでいた。
酔ってはいないが、それなりに酒を飲んだ所で曹操は許攸に語り掛けてきた。
「君は確か袁紹に仕えていた筈だ。どうして、私の元に来たのかな?」
曹操の問い掛けに、許攸は息を吐いた後、盃を置いた。
「私は袁紹が挙兵をする前から仕えており、自慢ではないが私と袁紹は奔走の友の誓いを立てた仲だと思っていた。袁紹はそんな私の策を却下し、私を斬り捨てようとしたのだ。どうやら、袁紹は主としての才は無かった様だ」
「であろうな。私は十年前からそう思っていた」
袁紹が何進に当時の朝廷に実権を握っていた十常侍を粛清するため各地の諸侯に檄文を送るべきだと進言した時に忠告したのだが、聞き入れて貰えなかった。
それにより、檄文に応えた董卓が洛陽に上洛して朝廷を牛耳った。
その後も、反董卓連合軍を結成して、董卓が洛陽を放棄し長安に逃亡した時も、曹操は盟主の袁紹に全軍で追撃するべきだと進言したが聞き入れて貰えなかった。
この二つの時点で、曹操は袁紹には主の才は無いと見て、同盟は結んでもその下に着こうとはしなかった。
「丞相の申す通りでした。ですので、どうか、非才の身ではありますが、どうか用いて下さらぬでしょうか?」
「別に構わん。だが、先も言ったが。君と私は古くからの友だ。官職で呼ぶことはない。曹操と呼んでも良い」
「……では、曹操殿とお呼びいたします」
「うむ。それで、袁紹が取り上げなかった策とはどんな策であったのだ?」
「はい。実は」
許攸は自分の策を話した。
ついでに、その献策をする動機ともなった手紙も懐から出した。
「そうか。私は運が良いと言うべきか。お主の策が実行されていたら、我が軍は壊滅していたであろうな」
「私もそう自信があり策を献じたのですが、取り上げては貰えず、こうして曹操殿の元に来ました」
「お主にとっては不運であろうが、私にとってはこの上ない幸運であった。そんなお主に訊ねたい事がある」
「袁紹軍の兵糧ですかな?」
許攸が先に言うと、曹操は苦笑いした。
「何だ。気付いていたか」
「ええ、私でもそのくらいは分かります」
許攸はそう言って、袖に手を入れた。
袖から丸まった一枚の紙が出た。
許攸は膳を退けて、丸まった紙を広げた。
その広がった紙は袁紹軍の陣地周辺が詳しく描かれていた。
「袁紹軍の兵糧庫は烏巣という地にあります。兵糧は山の様にあり、後数ヶ月は兵を飢えさせる事はないでしょう」
「それだけ大量か。だとすれば奪うなり焼くなりすれば、袁紹軍は瓦解するであろうな」
「恐らく。烏巣を守るのは淳于瓊ですが。一度、烏巣の兵糧庫を視察しましたが。要害の地という事で兵は好き勝手にしており、指揮している者達も安心して酒を飲んでおりました。流石に問題だと思い、袁紹に一言申したのですが、郭図が庇ったので御咎め無しとなりました」
郭図が淳于瓊を庇ったのは、同郷だからなのかは許攸も分からなかった。
思えばその時の一件以来、郭図との仲がしっくりこなくなった気がする許攸。
「そうか。しかし、淳于瓊か」
曹操は思う所があるのか、何も言わず顎を撫でた。
(あいつとは霊帝が創設した西園軍が作られた時に初めて顔を見たが、そんなに有能そうに見えなかったがな……)
曹操の淳于瓊に対する印象がそうであった。
「まぁよい。知らぬ仲ではないが、敵である以上は蹴散らすのみ。許攸、案内を頼めるか?」
「お任せを」
許攸は胸を叩いた。
「よし、これで袁紹軍の最後の時が来たぞっ」
曹操はそう叫ぶなり、立ち上がり出撃の準備を整えた。
曹操は騎兵五千と関羽、張遼、典韋、許褚、楽進と言った猛将達に加え、道案内として許攸と共に烏巣へと向かった。
出撃に時間が掛かり、曹操達が城を出る時は夜になっていた。
同じ頃。
袁紹軍の陣地の隅には監獄があった。
軍内で何らかの罪を犯した者又は袁紹の怒りを買った者達がその中に入れられていた。
と言っても、監獄の中に居るのは沮授一人だけであった。
鉄格子から空を見上げ、星を見ていた。
沮授は天文を学んでいたので、暇な時は星を見ていた。
今宵も星を見ていると、沮授は顔を強張らせた。
「これ、典獄! 牢番! 誰でも良いから、私を牢から出すのだっ」
沮授はそう叫びながら鉄格子を揺らした。
牢番は何事かと思いながら、沮授の傍まで来て沮授から話を聞いた。
話を聞いた牢番は自分では判断できないと思い、上役の典獄の元に行き沮授が話した事を告げた。
典獄もこれは自分で判断して良いのか分からず、取り敢えず沮授を牢から出す前に郭図の元に向かい、沮授から聞いた話を話した。
「なに? 太白星が貫いて妖しい霧がかかっているだと?」
「はっ。何でも、それは兵変のある予兆だとか。直ちに烏巣の守りを固めるべきだと申しておりました」
「・・・・・・まぁ良かろう。私から殿に伝えておくとだけ言っておけ」
「承知しました」
典獄は一礼して郭図から離れて行った。
「ふん。大方、大それたことを言って、牢から出ようという魂胆であろう。だが、そうはいかんぞ」
郭図は鼻で笑った後、烏巣の方を見た。
「烏巣は要害の地。加えて、其処に至る道々の全てに関を設けている。如何に曹操軍が烏巣に兵糧がある事を知っても、攻め込むのは容易ではなかろう」
仮に関を強引に突破しようとすれば、狼煙を上げる様に命じていた。
さすれば、烏巣に辿り着く前に兵を送り守りを固める事は出来ると予想する郭図。
「ふふふ、この戦に勝てば、私の地位はかなり上がるであろうな」
郭図は笑いながら、この戦に勝った後の事を想像しだした。
それが叶うかどうか分からずに。