ほとほと愛想が尽きた
曹操が出した使者が向かった先は許昌であった。
使者が許昌に入ると、そのまま荀彧の元まで向かった。
「丞相からの文にございます」
荀彧が仕事をしている部屋に来た使者は戦況を伝えた後、持たされた文を渡した。
文には『長く対陣して士気が低下している。其処で一度退いて、我が軍に有利な土地で袁紹軍を誘き寄せて滅ぼすという策は如何だろうか』と書かれていた。
(殿は相当弱気になっているな・・・・・・)
文を一読した荀彧は直ぐに曹操が撤退を考えている事を察した。
此処でもし、荀彧がその通りにすべきですと返事をしたら、曹操は『荀彧が撤退するべきだと言っているのだ。此処は退こう』と宣言するだろうと予想する荀彧。
(戦況を訊いた限りでは膠着状態。そのような状態で撤退すれば、諸将は反発する事も考えられる。だが、此処で私が撤退しても良いと言えば、殿は荀彧がそう言うのであればと言って諸将を納得させるつもりだな)
文一つで曹操の腹を予想する荀彧。
そうであればと思いながら、荀彧は返事を書いて人を呼び曹操が居る官渡の城へと出立させた。
数日後。
曹操の下に荀彧が送った使者がやって来た。
その使者が荀彧から持たされた文を曹操に渡した。
曹操は焦る気持ちを抑えつつ、文を広げて中を見た。
『撤退は断じてなりません。今退けば、袁紹は好機とばかり全軍で追撃を仕掛け、我が軍を壊滅させるでしょう。故に、此処は耐えるべきです。また、我が軍がそのような状態になったという事は、必ず袁紹軍にも同じような変事があるのでしょう。後は奇策を用いる機会を逃さなければ勝てます』
と書かれていた。
「・・・・・・おお、荀彧は撤退するなと言うのだな」
曹操としてはこのまま守りを固めるにしても、撤退するにしても自分が言えば反発する者が出て来るかも知れないと思い、荀彧に相談してその意見を聞いて「荀彧がそう言うのであれば」と言えば、諸将は素直に従うだろうと思い文を出したのだ。
その荀彧が守りを固めるべきだと言うので、曹操はその進言に従う事にした。
「とは言え、そろそろ秋が近いからな。兵糧を多く送ってもらおう・・・」
季節は十月に入ろうとしていた。
秋に入れば、田畑から得られた米や麦などが獲れる筈だと思い、曹操はそろそろ兵糧が尽きそうだ。兵糧を多く送ってくれという文を使者に渡して発たせた。
その使者は城を出た後、暫く道に従い進んで行ったが、何処からか矢が放たれ、その矢が馬に当たった。
馬は嘶きを上げた後、地面に倒れた。
乗っていた使者も地面に投げ出されたが、尻餅をつく程度であった。
とは言え、落ちた衝撃で暫く立ち上がる事は出来なかったが、其処に光に当たる光る槍が突き付けられた。
同じ頃。
陽武にある袁紹軍の陣地。
陣地の中にある天幕の一つに袁紹が居た。
袁紹は報告書に目を通していると、郭図が入って来た。
「殿。鄴から文が届きました」
「何だ? 劉備を討ち取る事が出来たか?」
袁紹はそうであれば嬉しいという風に話した。
審配から劉備を取り逃がしたという報告を訊くなり、袁紹は直ぐに劉備を見つけ次第殺せという命を下した。
だが、何時になっても劉備の影も形も見つからなかった。
袁紹としては取り逃がして悔しい思いで胸が一杯であった。
「いえ、どちらかと言えば悪い話です」
「何かあったのか?」
袁紹は聞きたくないと思いつつも、立場的に訊かねばならないので仕方がなく聞く事にした。
「鄴に居る審配からの文です。許攸の親族がこちらに送られてくる兵糧の一部を着服したとの事です」
「何だと⁉」
想像していた事よりも遥かに悪い話に袁紹は声を上げた。
「確かなのか?」
「はい。その親族を捕まえて尋問した所、自白しました。着服した兵糧は既に金に換えられ、一部は許攸の家の倉に運ばれたそうです」
「その話は許攸は知っているのか?」
「文によりますと、そう書かれております」
郭図がそう言い終えると、袁紹はその手の中にある文を奪い取った。
広げるなり文を読んだ。
「・・・・・・この何時戦況が変わるか分からない状況で、兵糧は大事だと言うのに、それを金に換えただと! しかも、その金は家の修繕費に使っただと⁉ 兵糧を私欲に使うとは‼ その上、その一部が許攸の懐に入っているとはっ」
袁紹はわなわなと震えていた。
怒りに震える袁紹に郭図は近付いて囁いた。
「普段より、許攸の行いは良くありません。酒色に耽ってだらしがないだけではなく、役人から賄賂をせしめたりしているそうです。殿とは長い付き合いでしょうが、あまり重用しない方が良いと思います」
郭図の囁きに、袁紹は深く考えだした。
其処に許攸が天幕の中に入って来た。
「殿。吉報にございますっ。これで、我が軍は勝てますぞ!」
許攸は喜色満面で天幕に入って来た。
そんな許攸を袁紹達は冷めた目で見ていた。
袁紹達の視線など気にせず許攸は話をしだした。
「殿。曹操の兵站路を見張っていた部下が、曹操軍の陣地から飛び出した者を捕まえて調べた所、この様な物を見つけました」
許攸はそう言って文を取り出した。
その文を袁紹に渡すと、袁紹は文を一読すると眉が僅かに動いた。
読み終わると、郭図に渡した。
渡された郭図はその文を読み終えると畳んだ。
「文には曹操軍の兵糧が無くなりそうだと書かれております。これは好機です。我が軍を二手に分けて、一つは曹操軍の陣地に攻撃します。もう一方は間道を通り、敵の都である許昌を攻撃します。さすれば、許昌から送られてくる筈の兵糧の輸送部隊を襲う事も出来ます。出来ずとも、敵の都を攻撃し天子を奪い取る事が出来るでしょう! ですので、五千の騎兵を私に与えて下さい。間道を通り、許昌を攻撃いたします!」
許攸は自信あるとばかりに言うと、袁紹は息を吐いた。
「この文が偽物だと思わないのか?」
「いえ、それは有り得ません。この字は間違いなく曹操の字です。殿も良くご存じの筈ですっ」
許攸がそう言うと、袁紹は郭図に目を向けた。
郭図は持っている文を袁紹に渡した。
「・・・・・・確かに、曹操の字だ。だが、曹操は頭が良いからな、奪われる事も前提にこの紙を書いたのかも知れんぞ?」
「確かに、そうかも知れません。ですが、この膠着した状況を打開するには良き手だと思いますっ」
許攸が強く進言して来た。
あまりに、強く進言する事に加えて鄴に居る審配からの文を読んで許攸が何を考えているのか分からなかった袁紹。
(…………そうかっ、こいつは私が自分の親族が横領した事を知って、このままでは自分が処刑されるかもしれないと思い、功績を立てたかったのだなっ)
その功績で親族の罪を帳消しにするつもりだと分かった袁紹は、そうはさせないとばかりに机を叩いた。
「愚か者‼ 貴様には曹操の考えている事が分からんのか‼」
「ですがっ。殿っ」
「くどい! 貴様の策で上手くいった試しなど殆ど無かろう。そんなお前の策など成功できるか分からん。そんな策に兵を貸せるか‼ 出て行け‼」
袁紹が怒鳴ると、許攸は何か言おうとしたが、袁紹の顔を見てこれ以上何を言っても無駄だと分かり天幕を出て行った。
郭図はその許攸の背をほくそ笑みながら見送った。
天幕を出た許攸は憤懣やるかたない思いを抱きながら、歩いていた。
自分用の天幕に入り、酒でも飲んで憂さ晴らしをしようと思っていたが、其処に部下の一人が近付いた。
「子遠様。ちょっと」
「何だ?」
「鄴から来た使者から聞いたのですが。…………」
「なにっ、我が親族が⁉」
許攸は初耳なのか、目を見開かせていた許攸。
「その話は殿は知っているのか⁉」
「はい。既に」
「…………挙兵する前から、殿の為に奔走してきたと言うのに、親族の行い一つで私をも切り捨てるとは。何と、無情な……」
許攸は空を見上げながら嘆いた。
暫く嘆いた後、許攸は何かを決めた顔をした後、信頼できる部下数人を連れて陣地を後にした。