離れ行く思い
陽安県を出陣した蔡陽が率いる軍は先鋒を関羽に任せて南下した。
数日程経つと、蔡陽軍は南陽郡の魯陽県に入った。
其処で蔡陽は情報収集を行った。
暫く経ったが、劉辟軍の残党と親袁紹派の者達も南陽郡に入ったという報告が齎されなかった。
その代わりとばかりに気になる情報が手に入った。
「申し上げます。穣県にて山賊が暴れているそうです」
近隣の偵察をしていた兵が蔡陽にそう報告して来た。
その報告を訊いた蔡陽は直ぐに地図を広げて、報告にあった県を探した。
「此処か」
「魯陽からかなり南に行った所にある県ですね」
「数は?」
「不明です」
どの程度の山賊が暴れているか分からない以上、蔡陽は援軍を乞うべきか、それともこのまま攻め込むべきか悩んだ。
部下達と関羽も蔡陽の判断に従うつもりなのか黙っていた。
「……まずは調べてみるか。取り敢えず、穣県に向かい敵がどの程度いるのか調べる」
「「はっ」」
「関羽。お主は先鋒を任せる」
「承知しました」
「出陣するぞ!」
蔡陽が号令を下すと、部下達と関羽は準備に取り掛かった。
翌日には魯陽県を出立した。
魯陽県を出た蔡陽軍は何の支障も無く南下を続けた。
数日程すると、先鋒を任された関羽の部隊が穣県が見える所まで到達した。
先頭に居る関羽は県城を見た。
「……城壁もそれなりに高く、堀も深く掘られているな」
加えて柵を張り巡らしているので、城を守る兵の数によっては攻め落とすのは難しいのではと思う関羽。
そう県城を見ていると、城壁に張の字が書かれた旗が掛かっていた。
その字を見て、関羽は何となく義弟の張飛の事が頭に思い浮かんだ。
まさかと思いはしたが、だが有り得ないとは言い切れなかった。
「取り敢えず、使者を立ててみるか」
関羽は自分の隊の兵に二三言告げた後、城へと送り込んだ。
その使者は城門前まで来ると、既に城壁に居た兵達は矢を番えていた。
城壁から関羽の部隊が居る事に気付き警戒していたからこそ、これほど素早く矢を番える事が出来たのだろう。
「お尋ねしたき事がある。この城を守っている方は張飛という御方か?」
「そうだっ。張将軍に何用か⁉」
「関羽様が張飛と面会したいとの事。城門を開けて出られよと伝えよっ」
使者はそう言い終えるなり、馬首を返してその場を離れて行った。
「ご指示通りに伝えました」
「ご苦労」
使者を労った関羽は黙って城を見ていた。
少しすると、城門が音を立てて開かれた。
程なく、馬に跨り虎髭を生やした者を先頭に多くの兵がその後に付いて行った。
「おお、あれは間違いなく張飛!」
先頭に居る虎髭を生やした者を見るなり関羽は嬉しそうに顔を綻ばせた。
義弟が生きていてくれた事が嬉しかった様であった。
関羽はそのまま馬を進ませていく。
張飛が馬の足を止めると、関羽もある程度離れた所で足を止めた。
「張飛。久しぶりだな」
関羽はようやく再会できた義弟に和やかに話し掛けた。
だが、張飛は関羽を憎々しそうに睨んでいた。
「何の用だ? 裏切者っ⁉」
張飛はその口からハッキリと関羽に向かって叫んだ。
関羽は一瞬誰の事を言っているのか分からなかったが、直ぐに自分の事を言っているのだと分かった。
「なっ、義兄に向かって、何という事を言うのだっ。張飛!」
「黙れっ。貴様が義兄弟の誓いを破り、曹操の下で贅沢をしているという事は俺の耳にも届いているぞ。そして、その曹操の手先となって、俺を討ちに来たようだが、そうはいかん。此処でお前を討ってくれる!」
張飛はそう叫び終えると、蛇矛を振るいながら馬を関羽へと寄せる。
そして、勢い良く蛇矛を振り下ろした。
「張飛、落ち着けっ。私の話を聞けっ」
関羽は振り下ろされる蛇矛を青龍偃月刀で防ぎながら話をしようと声を張り上げた。
「ふんっ、俺をその舌先三寸で丸め込むつもりか。そうはいかんっ」
張飛は本気で関羽を殺すつもりのようで、容赦無く得物を振るう。
関羽は義弟を殺すつもりはないので、防御に専念していた。
「張飛っ。少しで良いから、武器を収め話を聞けっ」
「誰がお前の話などっ」
関羽はどれだけ宥めようとしても、張飛は気を静める事は無かった。
そうしていると、張飛の部下が関羽の部隊の背後から砂煙と共に人馬の集団が向かって来るのを見た。
「将軍。あれを」
部下に促され、張飛はそちらを見た。
「ぬううっ、俺を誘き出して倒すつもりであったのだな」
「待て、早まるな」
「貴様の言葉など信用できるかっ」
張飛は舞い上がっている砂煙から、向かって来る集団の数はかなりの数だと判断してこのままでは不利と判断した。
「城に帰還するぞ!」
張飛の命令で部下達は城へと戻って行った。
張飛は城へ戻る前に、関羽を睨みつける様に見た。
「関羽っ。今は首を預けてやる。だが、いずれ、誓いを破り曹操に降ったお前を必ず討ち取ってやる。首を洗って待っておれ!」
そう捨て台詞を言うなり張飛は城へと戻った。
「張飛! 待て、行くな‼」
関羽がどれだけ声を掛けても、張飛は足を止める事は無かった。
そして、張飛は城に入り城門が閉められると同時に、蔡陽が関羽の元に来た。
「関羽よ。思っていたよりも手こずっている様だな。助けに参ったぞ」
「……ご配慮に感謝する」
内心余計な事をと思いつつも、助けに来た事は確かなので礼を述べる関羽。
そして、関羽は城に居るのは義弟の張飛で城内に居る兵もかなりいると報告した。
報告を訊いた蔡陽は張飛が籠もる城に五千で攻め込むのは無謀だと思ったのか、一度陽安県に帰還する事に決めた。
将軍がそう決めたので関羽も逆らう事が出来なかった。
帰還する最中、関羽は城を見たが、城壁に張飛の姿は無かった。