李通の決断
曹昂が許昌を出発して十数日後。
豫洲汝南郡陽安県。
その県の城内の大広間の上座には汝南郡を預かっている李通が座っていた。
家臣の列の間に着飾った男が膝をついていた。
「如何でしょうか? 悪い話ではないと思いますが?」
男はそう言って手に持っている物を掲げた。
李通が目で家臣の一人にそれを取りに行かせる様に命じた。
男は一礼して、男の側に行きその掲げてる物を貰い受け、それを持って李通の傍まで行き渡した。
李通はその物をジッと見ていた。
「我が主、袁紹様は貴方の才能を高く評価しております。つきましては、袁紹様の配下に加わると言うのであれば、貴方を征南将軍に任じるおつもりです」
その証拠とばかりに、男こと袁紹から派遣された使者は李通が見ている物を指差す。
指差された物は将軍の位を示す印綬で、その印綬には『征南将軍』と刻まれていた。
征南将軍は二品官で四征将軍の一つであった。
この四征将軍とは方面軍司令官と州刺史又は州牧の統括も担う事が出来る将軍職であった。
征南という事なので南の地。つまりは、荊州を含めた南の地を統括する事が出来るという事であった。
曹操を裏切るだけでそれほど重要且つ高い地位に就く事が出来ると分かり、李通の家臣達は目を輝かせていた。
「ご決断をお聞かせ下さい」
使者は返事を訊かせてほしいと訊ねると、李通が答える前に家臣達が李通に申し出て来た。
「殿。これはまたとない良い話ですぞっ」
「左様です。現在、曹操は袁紹軍と戦っている最中ですが、如何に曹操とはいえ、袁紹殿を打ち破るのは難しいでしょう」
「此処は向こうの申し出に答え、寝返るべきですっ」
家臣達は口々に、袁紹に寝返ろうと口にしていた。
「それに、殿。許昌に援軍を乞う使者を送りましたが、未だに返事が来ておりません。此処は見捨てられたと思うのが妥当でしょう」
「援軍は無ければ、我等は滅びを待つばかりです。早く、袁紹に降りましょうっ」
家臣の一人が涙を流しながら嘆願してきた。
殆どの家臣達も口々に「早く、袁紹に降りましょう」と言っていた。
そんな中で先程、李通に印綬を渡した男が周りの家臣を一喝した。
「忠義を知らぬ愚か者共めっ。主に反乱を唆すとは、貴様等は恩義という言葉を知らぬのかっ」
その一喝で騒いでいた者達はピタリと口を閉ざした。
男の年齢は二十代後半で、口髭だけを生やしていた。
切れ長の瞳には理知的な光を宿していた。
屈託がない温和な顔立ちをしていた。
「おのれ、趙儼っ」
「貴様如きがでしゃばるでないわっ」
家臣達は一喝された事に腹を立てた様で、怒りが混じった声で怒鳴りだした。
この怒鳴られている男は趙儼。字を伯然と言い、朗陵県の県長の職に就いていた。
「殿に裏切り者の汚名を着せるような者の意見など聞く耳持たんわっ」
怒鳴られた趙儼は更に一喝した。
そして、李通を見た。
「殿。今袁紹の元に寝返れば、御身だけでなく一族の者達も皆殺しとなりますぞ。それでも宜しいので?」
趙儼の真剣な眼差しを見て李通は笑った。
「そうよな。もう答えは決まっているわ」
そう言うなり李通は立ち上がり、側に置いている剣の柄に手を掛けた。
鞘から剣を抜いて、鞘が床に落ち音を立てる。
抜身の剣を持った李通はゆっくりと趙儼に近付いた。
それを見て袁紹の使者はほくそ笑んだ。
そんな中で趙儼は泰然としていた。
そして、李通は歩き続けると、ある所で止まり剣を振りかぶった。
勢いよく剣を振り下ろした。その瞬間、袁紹の使者が袈裟切りに斬られた。
斬られた使者は訳が分からないという顔をしながら横に倒れ事切れた。
「丞相は明哲にして偉大なる君主。いずれきっと天下を定めるだろう。袁紹など今は強勢だが軍規など無く、いずれは捕虜となるだけだ。私は死んでも裏切らんぞ! それでも、私に寝返れと言う者はこの者と同じ目に遭うと思えっ」
血塗られた剣を掲げて宣言する李通。
趙儼を含めた家臣達は李通の迫力に押され、その場に跪いた。
其処に一人の男が駆け込んで来た。
「殿。申し上げ・・・これはっ⁉」
「何でもない。それよりも、陳到。何があった?」
駆け込んで来た男は目の前の惨状を見て、目を丸くしていたが、李通が剣を振って刃に付いていた血を振り落としながら訊ねた。
李通がそう話し掛ける男は二十代後半で精悍な顔立ちをしていた。
身の丈は八尺はあった。
分厚い胸板と広い肩幅に加え、鎧越しでも分かるくっきりと隆起した筋肉の付いた体をしていた。
大きな目には静かで理性的な光を宿していた。
被っている兜には白い毛の飾りが付けられていた。
この男の名は陳到。字を叔至と言う。
「はっ。北より砂塵が舞い上がり確認させたところ、この城に向かって来る一団があります」
陳到の報告を訊いて、その場に居た者達はざわめきだした。
「数は? 旗には何と書かれていた?」
「はっ。調べました所、数は五千。旗には曹の字が書かれていました」
「おおおっ、援軍だ」
陳到の報告を訊いた李通は喜びの声を挙げた。
「直ぐに出迎えの準備を。それと、この死体の首を刎ねろ。身体は何処かに埋葬しておけっ」
李通は直ぐに指示を出すと、家臣達は素直に従った。
暫くすると、曹昂率いる曹操軍が城の前まで来た。
城の前には李通が家臣達を揃えて出迎えていた。
「ようこそ、お越し下さいました。陳留侯」
李通が跪いて一礼すると、家臣達もそれに倣い跪いて一礼した。
「よくぞ、我等が来るまで持ち堪えてくれたな。感謝するぞ。李通殿」
「はっ。有り難きお言葉にございますっ。つきましては、これを」
李通はそう言って側にいた趙儼に振り向いた。
すると、趙儼は自分の後ろに置いていた桶とその上に置いていた印綬ごと李通に渡した。
それらを受け取った李通は両手で持って掲げた。
「これは?」
「袁紹からの使者の首にございます。使者はこの征南将軍の印綬を与えるので寝返れと言ってきましたが、私は丞相に忠誠を誓いましたので、その証として使者の首と印綬をお渡しします」
李通が掲げるのを見て、曹昂は後ろを振り向いて劉巴を見た。
劉巴は馬から降りて、李通が掲げている物を恭しく受け取った。
「貴方の忠誠心は嬉しく思います。此度の戦が終われば、その功績に見合った恩賞を与える様に、父に申し上げます」
曹昂がそう言うのを聞いて、李通は深く頭を下げた。
本作では陳到の生年は171年といたします。