混乱の最中
許貢とその一族の粛清が終わった頃。
孫策の元に袁紹の使者がやって来た。
孫策は直ぐに会うように命を下し、謁見の準備を整えた。
城内の大広間には家臣達が勢揃いしており、上座には孫策が座っていた。
その家臣達の間を渡っている者が上座から数歩離れた所で止まり跪いた。
「私は袁紹様の臣下で陳震と申します。この度は小覇王と謳われている孫将軍にお会いする事が出来て嬉しく思います」
陳震が頭を下げながら挨拶をしてくるのを聞いた孫策は複雑そうな顔をしていた。
曹操と親戚関係を結んだ事で、討逆将軍の地位を与えられたので、将軍と呼ばれても特に問題は無かった。
問題は自分の渾名である小覇王であった。
孫策的には覇王の前に小の字が付けられている事に不満であったからだ。
陳震はそんな孫策の心情など分からないので、そのまま話を続けた。
「我が殿と曹操は現在、官渡水を挟んで戦をしております。我が軍の勇猛の前に、曹操は奸智を持って対抗しております」
「ほぅ・・・・・・」
袁紹と曹操が戦っているという報告は既に密偵から聞いていたが、陳震の話しぶりを聞いていると一進一退の攻防をしていると孫策は思った。
其処に袁紹から使者が来たので、孫策はこの使者が何を言いたいのかは何となくだが察する事が出来た。
「我が殿は勇猛果敢なる孫策殿と手を結び、共に曹操を打倒しようという考えです。協力してくれるのであれば、我等の勝利の暁には、徐州でも豫洲でも好きな州を与えようと申しておりました」
「ふ~む。袁紹殿はそう申していたか・・・」
孫策は考えている様に見せながら、既に腹の中は決めていた。
(許貢と曹操は繋がっている様だからな、許貢を処刑した事で、曹操は私が敵意あると思うだろう。袁紹との戦いが終わった後に攻め込んでくるやもしれんな)
攻められる前に、こちらから攻め込んだ方が良いなと思う孫策。
「・・・・・・ご使者殿の話は分かった。しかし、これは私一人で決める件ではない。返事は暫しお待ちを」
「承知しました。良き返事をお待ちしております」
「誰か、使者殿を館へ」
孫策が兵に命じると、兵は返事をした後陳震の側に行き館へと案内していった。
陳震が完全に見えなくなると、孫策は家臣達に話し掛けた。
「皆の者。使者の話を聞いてどう思った? 意見を述べよ」
孫策は既に曹操の領地に攻め込むつもりであったが、他の家臣達の意見も聞く事にした。
すると、程普が前に出た。
「殿の命令とあれば、我等は劉表だろうと曹操であろうと袁紹であろうと戦う所存です」
程普はそう言うと他の家臣達も反対しなかった。
口々に「誰であろうと戦おうぞっ」「おうっ、殿の為とあれば命は惜しまんっ」と言っていた。
孫策もこれなら大丈夫かと思ったが、程普は話を続けた。
「ただ、今の我が軍の状況ですと、出陣するとなればもう少しお時間が欲しく思います」
程普の指摘に孫策は唸っていた。
江南の大部分をその支配下に治める事ができた反面、各地には抵抗勢力がおり、孫策は配下の諸将に兵を持たせて鎮圧に当たらせていた。
抵抗勢力の鎮圧と各地に散った戦力を呼び戻し、編成をするとしたら、かなりの時間が掛かると予想できた。
「それまで、袁紹と曹操の戦いは続くと思うか?」
「恐らくは」
「そうか…………」
程普の予想を聞いて、孫策は黙り込み考えだした。
孫策が長考しているのを見て、程普達は黙って孫策の言葉を待った。
「…………今、曲阿に居る兵はどの位だ?」
「はっ。騎兵、歩兵、水兵全て合わせて三万です」
「この城を守る為には数千は必要だとして、二万数千は動員できるか・・・」
一つの州を攻めるとしたら、ギリギリできなくはない数であった。
「……戦の支度をせよ」
「殿。それだけの数で攻め込むのは・・・」
「分かっている。各地の諸将に伝令を出せ。早急に抵抗勢力を鎮圧せよと」
「はっ」
「諸将達が戻ってきた時に、何処に攻め込むか話し合って決めようぞ」
孫策は話を終えるなり、部屋を出て行った。
一月後。
曲阿に居る兵達は何時でも出陣できる準備は整ったのだが、各地に派遣している諸将達は未だに抵抗勢力の鎮圧が出来ていなかった。
「ええいっ、これでは曹操の領地に攻め込む事が出来るのは何時になるのやら」
気が短い孫策は焦りと怒りを募らせていた。
「殿。気晴らしに狩りにでも行くのは如何でしょうか?」
不機嫌な孫策に程普が提案して来た。
「狩りか・・・・・・此処の所、全くしていなかったからな。気晴らしに行くとするか」
孫策は程普の提案に乗る事にした。
揚州内にある家。
その家には男が二人おり、手には槍の刃と矢の鏃を研いでいた。
研ぎ終わると、容器の中に刃と鏃を入れた。
容器の中には毒々しい色をした液体が入っていた。
その液体をたっぷりと浸からせていた。
「これで準備は良いな」
「後は連絡が来るのを待つだけだな」
男達がそう話していると、家に誰かが入って来た。
男達は身構えるが、入って来た顔を見ると仲間だと分かり安堵の息を漏らした。
「どうだった?」
「例の者の情報によると、孫策は狩りをするそうだ。何処で行われるのかもこの紙に」
男はそう言って握っている紙を見せた。
「よしっ」
「これで、許貢様の仇を取る事が出来るぞっ」
「「おうっ」」
男達はそう言って手に武器を持ち家を出て行った。
数刻後。
孫策は多くの臣下を引き連れて、狩猟を行っていた。
曹操の下に身を寄せていた時も、揚州に来てからも暇を見つけてはよく狩りを行っていた。
孫策が跨っているのは駁毛の馬であった。
青毛と白毛が混じった斑の様な美しい毛並みであった。
その馬は足が速く、家臣達を遠く引き離してしまった。
暫く走り続ける孫策であったが、獲物である鹿を見つけるなり馬の足を止め、矢を番えた。
十分に狙いを付け、息を整えた。
少しすると、弦から矢を離すと、ヒュンっという音を立てて矢が放たれた。
狙い違わず矢は鹿の首筋に当たり、鹿を射止めた。
「射止めたぞっ、誰かおらぬか⁉」
獲物を射止めた孫策は大声を上げながら、後ろを振り返ったが誰も居なかった。
孫策は誰も居ない事に怒りが沸いたが、暫くすれば来るだろうと思い怒りを抑えた。
それなりに大きな鹿を射止めた事が怒りを抑える一因でもあった様だ。
そのまま、馬上で孫策は居たが、茂みが揺れて音をしだした。
ガサガサと揺れる音を聞いた孫策は矢を番えた。
「何者だ!」
孫策が誰何の声を上げると、茂みから矢筒を背負った者も居れば手に槍を持っている者が居た。
「・・・・・・お前達は何者だ?」
「私達は程将軍の配下の者です」
「程普の。そうか・・・とでも言うと思ったか⁉」
孫策はそう叫ぶなり矢を放った。
放たれた矢は男達の一人の胸に突き立ち、仰向けに倒れた。
「程普の配下に、お前達の顔をした者はおらんわっ。何者だ!」
「っち、おのれっ」
「こうなれば、行くぞっ」
男達は手には槍が握られており、構えながら孫策へと駆け出した。
孫策は一旦その場を離れようと手綱を操り、馬を駆けさせようとした。
馬の腹を蹴ろうとした瞬間、孫策の頬に矢が突き立った。
矢はそのまま頬を貫き、反対側の頬まで貫いた。
「ぐああああっ」
頬を貫かれた痛みで悲鳴をあげる孫策。
矢を放ったのは矢が当たり倒れたと思った男であった。
胸に当たりはしたが、死ぬまでに至る程の傷では無かった様で、今だに矢が刺さったままで、その痛みで顔を顰めつつも矢を番えて放った様だ。
「思い知ったかっ。恩人の許貢様の仇めっ。此処で討ち取ってくれる!」
矢が突き刺さったままで男は剣を抜いて、孫策へと駆けて行った。
男達は喚声を挙げながら、孫策に襲い掛かった。
得物を突き出すか、振り下ろしたが、孫策は身を捩りながら男達の攻撃を躱していたが、頬の痛みで顔を顰めると、其処に槍が腹と太腿を貫いた。
「ぐうううっっっ」
孫策は腹と太腿を貫かれ、馬の背から落ちた。
孫策は仰向けに地面に落ちると、男達は容赦なく得物を繰り出して孫策の身体をズタズタにしていった。
その間も孫策は悲鳴を上げ続けていた。
孫策の悲鳴を聞いてか、程普達は慌てて声が聞こえる方に来ると、其処には孫策が襲われている所に出くわした。
「貴様等、何をしている⁉」
「おのれっ」
程普達は剣を抜いて、馬を駆けさせて男達に向かった。
馬上からの攻撃に男達は斬り殺された。
男達の死亡が確認されると、程普達は孫策に駆け寄る。
「殿っ、殿!」
「傷が深い。早く薬師の元にっ」
程普達は慌てながら、孫策を本拠地の曲阿へと運んだ。
運ばれた時には応急手当をされていたが、孫策は危険な状態であった。
「薬師。早く治療をっ」
「これはっ、・・・私の手には負えません」
孫策の傷を見るなり、薬師は顔を振った。
「何だとっ⁉」
「どうにも出来ないと言うのかっ」
程普達は怒鳴りつつ薬師を詰りだした。
だが、薬師は無理と言わんばかりに顔を背けた。
「ぬうう・・・そうだ。華佗だ。華佗を呼んで参れっ」
程普は揚州を支配下に治める為の戦を仕掛けていた際に、ある戦いで重傷を負った周泰を治療した華佗を思い出した。
華佗であれば、治療できると思った程普は華佗を呼び寄せた。
運良く華佗は揚州におり、孫策の治療に掛かった。
懸命に治療に取り掛かる華佗。
三日経っても、孫策は呻くだけであった。
華佗は孫策の顔を見て、今与えている薬よりも強い薬を与えねばならないと判断して、調合の為に部屋を出て行った。
呻く孫策が眠っている部屋には世話役の侍女達が居るだけであった。
一度、刺客に襲われて重傷なので、もう一度襲うという事はしないだろうと思い、誰も護衛の兵を立てる事はしなかった。
そんな孫策が眠っている部屋に、二人の男性が近付いて来た。
「ささ、こちらです」
「ほ、本当に大丈夫なのか?」
「はい。既に侍女達は買収しておりますので」
そう言って男達は部屋の前まで来たが、部屋の前に居る侍女達は男達を見ても声を上げる事も、誰何の声も上げなかった。
チラリと見た後、直ぐに目を伏せた。
侍女達が何も言わないのを見て、男の一人が安堵の息を漏らした。
「中へ」
男の一人がそう言って、男を部屋に入るように促すと、男は部屋に入った。
男が部屋に入っても、侍女達は男を見ても何も言わなかった。
それで気を良くしたのか、男はズカズカと歩き孫策の傍まで来た。
呻いている孫策を見て、男は口元に笑みを浮かべていた。
「良いざまだな。孫策」
男はそう言って、懐から短刀を取り出した。
男が短刀を振りかぶると、部屋にいた侍女の一人が孫策に近付いて、口に布を噛ませた。
「我が父、許貢の仇め。覚悟っ」
男はそう言って、短刀を孫策の胸に突き刺した。
布を噛ませていた為、孫策は短刀が身体を突き刺しても、くぐもった悲鳴を上げる事しか出来なかった。
男は一度では足りないのか、何度も何度も短刀を突き刺し続けた。
肉が貫かれる音が部屋中に響くが、侍女達は誰も助ける事をしなかった。
やがて、男は気が済んだのか、部屋から出て来た。
手には血で濡れた布を持ち、全身が血で濡れていたが、男は満ち足りた顔をしていた。
「感謝する。これで父の仇を討つ事が出来た」
男はそう言って、部屋の前に居た男に頭を下げた。
孫策を短刀で突き刺していた男は許貢の息子であった。
許貢が曹操と通じているという罪で、許貢の一族と郎党が殺される中で、許貢が養っている食客達の手で許貢の末子が助けられていた。
そして、何とか許貢の仇を取ろうとした所に、曹昂が孫策を暗殺する為に送っていた『三毒』の者が接触をしてきた。
孫策の愚行で一族の大半が死に絶えた陸氏の者だと偽って。
そして、敵討ちに手を貸す。城内の情報を提供すると述べると四人はその話を受け入れた。
食客と許貢の末子は官吏に就いていない為、孫策が何処に行くのかという情報を手に入れる事が出来なかった。
其処に情報を提供してくれると言われれば、話を受け入れるしかなかった。
食客達の襲撃を受けても、孫策はまだ生きていると知ると『三毒』の者が許貢の子に孫策の元まで案内すると囁いた。
許貢の子はその囁きに従った。
孫策の部屋に居る侍女は陸氏一族に連なる者達ばかりで、孫策の行いで一族の者達の多くが飢え死にした事に怒りを覚えていた様で、『三毒』の者の買収に簡単に応じた。
「この後はどうするつもりで?」
「敵討ちは果たしたが、捕まるつもりはない」
「そうですか。では」
許貢の子は敵討ちを果たしたが、捕まるつもりはないと言うので『三毒』の者は懐から短刀を抜いて、許貢の子の元まで来て腹を突き刺した。
「ぐっ、貴様っ」
「悪く思わないで欲しい。これも任務なので」
そう言って『三毒』の者は短刀を抜くと、首を斬った。
首から血が大量に噴き出しながら、許貢の子は倒れた。
倒れた許貢の子に『三毒』の者は近付いて死んだ事を確認すると、持っている短刀を許貢の子の手に握らせた後、その場を離れた。
一連の行動を見ていた侍女達は暫くの間、黙っていたが。少しすると悲鳴を上げだした。
「きゃあああああっ、誰かっ」
「将軍がっ、将軍がっ」
侍女達の悲鳴を聞こえると、程普やら兵などが慌てて、悲鳴が聞こえる方に向かった。
程普達が部屋の前まで来ると、侍女達は部屋の前で床にうずくまっていた。
側には男が一人倒れていた。
「何があった⁉」
「し、将軍が、将軍が・・・・・・・・・・・・」
侍女達の一人が青い顔をしながら、部屋を指差した。
程普が部屋に入ると、寝台で横になっている孫策の胸に短刀が突き刺さったままであった。
目を見開き、苦悶そうな表情を浮かべながら事切れていた。
「殿、殿! ・・・・・・そんさくさまあああああぁぁぁぁぁぁ」
程普は孫策の身体を揺らしたが、孫策の反応が無く息もしていなかった。
孫策が亡くなったと分かり、程普は大きな声で哭いた。
孫策の死は直ぐに広まった。
そして、直ぐに誰が喪主を務めるか話し合った。
孫策の子である孫紹はまだ生まれて間もなかったので、無理であった。
其処で孫権が喪主を務める事となった。
暫くすると、周瑜が反乱の鎮圧を終えて戻って来たが、孫策の死を知り嘆き悲しんだ。
孫策は後継を誰にするか決めず逝った事で、誰が後を継ぐか話し合った。
話し合いの結果、孫策の弟の孫権が後を継ぐ事となった。孫権はこの時、数えで十九歳であった。
部下からその報告を訊いた曹昂は息を吐いた。
「これで、向こうは私が関与しているとは思わないだろう」
曹昂に報告して来た部下もその言葉に頷いた。
「はっ。現地の部下の報告ですと、許貢の子が敵討ちを果たした後に自害したのだと孫権は断定したそうです」
「良し。これで暫くの間、揚州は混乱が起きて外に目を向ける余裕は無くなる。これを機に人材を手に入れるか」
「如何なさるおつもりで?」
「・・・顧雍は確か尚書台に居たな」
以前、曹昂が曹操に推挙した者達の中で応じたのは張昭、張紘、呉範、諸葛瑾、陳武、歩騭、厳畯、顧雍の八人であった。
「はい。顧雍でしたら今は尚書僕射の地位に就いております」
曹昂の呟きに、部下がそう答えた。
尚書僕射とは尚書台の長である尚書令の次官の役職であった。
「ふむ。顧雍は確か陸康の娘を妻にしていたな。よし、顧雍に陸康の子の陸績に文を送るように命じよ。内容は、孫策が死んだ事で揚州は混乱状態である。一族と共に都に来て安泰の生活を送るのは如何か?と」
「承知しました」
「他の四姓にも文を送れ。揚州は混乱状態である。その地に居れば、危難に見舞われるであろうと」
「はっ」
曹昂の命令を訊いた部下は一礼してその場を離れた。
部屋には曹昂だけになると、椅子から立ち上がり窓から空を見上げた。
「・・・・・・あの世に行って会う事が出来たら謝るか」
其処に笑っている孫策の顔があるように曹昂は空を見上げていた。