あまりに淡々としているので
荀彧と孔融は激しい激論を交わしている中で、曹操は黙って意見を聞いていた。
何故、何も言わないのかと言うと、曹操の腹は決まっているのだが、自分の考えを切り出す時を待っていたからだ。
もう少し二人の激論が続くかと思われたところで、府内を守っている兵がやって来た。
「申し上げます。陳留候が部屋の前に参られました」
「来たか・・・・・・」
既に軍議が始まっている中でようやく来た息子が来た事に曹操はこれで自分の考えを言う事が出来ると思いつつ、報告に来た兵に入るように伝えた。
兵は一礼した後、その場を離れると、曹昂を連れて戻って来た。
曹昂が部屋に入ると、流石に激論を交わしていた荀彧達も黙り込んだ。
その曹昂の手の中には一枚の紙が握られていた。
「父上。遅れました事をお許し下さい」
兵が下がり、曹昂は遅れた事を陳謝した。
「よい。それよりも、何故遅れたのだ?」
今日軍議を行うと人を遣って伝えていた。それなのに遅れた事が気になる曹操。
「屋敷を出る時に、部下からこの様な文が届きましたので」
そう言って曹昂は手の中にある文を、曹操に見せた。
曹操は近くに居る使用人を顎でしゃくると、使用人は一礼した後、曹昂の傍まで赴きその文を受け取り、曹操の傍まで来て渡した。
曹操はその文を広げて、中身を改めた。
「・・・・・・・・・っっっ⁉」
一読した曹操は手をワナワナと震わせた。
文を読んでいない荀彧達は何と書かれているのか分からず、ざわつきだした。
曹昂は既に先に読んでいたので、文にどんな事が書かれているのか知っていた。
なので、訊ねる事はしなかった。
「丞相。その文は何なのですか?」
荀彧が気になって訊ねると、曹操は文を退けた。
「袁紹の奴が、檄文を天下に送り付けたのだ。読んでみよ」
そう言って曹操は文を使用人に渡した。使用人は荀彧にその文を渡した。
荀彧は文を広げて中を見て、言葉を失った。
書かれている檄文には、最初の方は臣下の模範について書かれていた。
そう読み進めていき、文の半ば頃になると、曹操の出自について書かれていた。
『司空曹操の祖父曹騰は元は中常侍で、左悺・徐璜と共に妖孽をなし、饕餮の如くほしいままに貪り、教化を傷つけ民を虐げた。
父曹嵩は乞食で宦官の養子となり、賄賂を使い官位につき、金や宝石を車に積んで権門に運んで三公の位を掠め取り、政治を傾かせた。
曹操は贅閹の遺醜で、秀れた仁徳など持たず、頭の回転が速く狡猾で乱を好み災いを楽しむ者なり』
と書かれていた。
曹操の官職は丞相なのだが、この文には司空と書かれているのは、曹操が丞相の官職に相応しくないという意味とその地位を絶対に認めないという意味が込められていた。
また、曹騰は最終的には大長秋の職に就くのだが、中常侍の職の方が長く就いていた。
同じ時期に、朝廷の政治を思いのままにした五人の宦官達である単超・徐璜・具瑗・左悺・唐衡達が中常侍の職に就いていたので、同じ事をしたのだろうと予想して書いたのだろう。
曹嵩は夏候氏の出なのだが、曹操を貶めるという意味で敢えて乞食という事にした様であった。
ちなみに、この文に書かれている贅閹とは贅は曹嵩を、閹は曹騰の事を指している。
閹とは去勢という意味がある。これは宦官であった曹騰の事を指していた。
贅とは入り婿という意味があり、これも宦官の養子となった曹嵩を皮肉った言葉であった。
それにより、贅閹の遺醜とは養子と宦官の残した醜い存在という事であった。
檄文なので、自分の行動を正しいと主張する為には相手を貶める事を書くのは当然であった。
当然ではあるのだが、相手だけではなく祖父と父親まで貶すのはそうなかった。
荀彧もそれが分かっている為か、何も言えなかった。
荀彧が文を読んだまま固まっているので、孔融は一言断りを入れてから文を読んだ。
流石の孔融も何も言えず、その文を隣にいる者に渡した。
そうして、文が読まれていき、最後の者まで読み終えると、曹操は使用人に文を持って来るように命じた。
使用人はその文を持って曹操の傍まで来ると、曹操は使用人の手の中にある文を奪い取るように強引に掠め取った。
「・・・・・・名文ではあるな。ここに書かれた曹操という人物像を考えると、読んだ自分でさえ怒り心頭に発するであろうな」
自分の事が書かれているというのに、曹操は他人事のように言う。
荀彧達はただ黙る事しか出来なかった。
「父上。袁紹は支配下に治めている各州から兵を集めている模様です。そう遠くない内に、我等と一戦交えるでしょう」
「であろうな」
曹昂が袁紹が兵を挙げるだろうと報告すると、曹操はその通りだろうと思い頷いた。
「それで、他に何か報告は無いのか? わざわざ文を受け取るだけで、遅れて来る事はないであろう」
「流石は父上。無論、策を献ずるために参りました」
曹昂は手で合図を送ると、部屋の隅に居た使用人達が一礼し部屋を出て行った。
直ぐに手に巻物と蓋付きの容器を持って戻って来た。
巻物を床に広げると、其処は河北一帯の地図が描かれていた。
「既に父上に申し上げましたが、袁紹は本拠地である鄴に支配下に治めている各州から兵を集めております。その総数は各州の戸籍の数を考えますと、少なくとも七十万は集められると推測します」
曹昂の推察に、集められた者達はざわつきだした。
そんな声が聞こえないのか曹昂は使用人が持って来た蓋付きの容器を受け取った。
容器の中に入っていたのは、碁石であった。
曹昂は白い碁石を河北に置いて行く。
「兵力が多いですが、その分領内では問題が多くありますので、其処を突きます」
「何をするつもりだ?」
曹操は曹昂からは今は亡き劉虞の配下であった者が使者を送って来た事と、その者に武具と兵糧を送る事と徐州に居る臧覇を動かす許可が欲しいという事しか知らなかった。
息子はどの様な策を述べるのか、曹操を含めた皆は耳を傾けた。
「まずは青州です。此処は徐州の臧覇殿に青州を攻め込むように文を送りました。これは飽くまでも陽動ですが、隙あれば攻め込むようにと命じております。ですので、青州から兵を集めるのは難しいでしょう」
曹昂はそう言いつつも、青州近くに黒い碁石を置いて行く。
臧覇を動かした理由はそれだと分かり曹操は納得した。
曹操が納得するのを見て、曹昂は話を続けた。
「次に幽州ですが、こちらは亡き劉虞の配下であった閻柔を始めとした、鮮于輔、田疇、公孫瓚の遺児である公孫続と言った者達が近い内に反乱を起こします。ですので、幽州からも兵を集めるのは難しくなります」
そう言って幽州の各地に黒い碁石を置いて行く。
「幽州は混乱するであろうな。これも劉虞のお陰という事になるな」
曹操は此処まですれば十分だと思ったが、曹昂は話を続けた。
「次に并州ですが。并州には南匈奴が暮らしております。その者達を扇動して騒ぎを起こさせます。それにより、并州を混乱に陥れて、兵を集めるのを困難にさせます」
「ほ、ほぅ。お前には南匈奴の知り合いがいたのか・・・・・・?」
曹操はそんな知り合いがいるとは知らなかったので感心していると、曹昂は苦笑いしていた。
「ええ、ちょっとした縁で」
まさか、妻の董白の知り合いが南匈奴を構成する十九種族の中でも攣鞮氏の一族の者で単于という南匈奴達の君主に次ぐ地位である右賢王に就いている去卑だと知った時は驚愕した曹昂。
その伝手を使い騒ぎを起こすように文を送ると、袁紹には何か恨みがあるのか申し出を受け入れると返事が送られてきた。
そして、并州にも黒い碁石を置いて行く。
曹操達はこれで話は終わりだと思ったが、まだ続きがあった。
「最後に冀州ですが。こちらには、私の配下の張燕の元部下達に扇動して、黒山賊を活動させます。さすれば、袁紹はそちらに兵を送る必要があるので、兵を集めるのが難しいでしょう」
そう言って地図上の冀州と書かれている所に黒い碁石を適当に置いていく。
「・・・・・・これだけ、反乱や騒ぎが起これば袁紹も兵を起こすのは難しいであろうな」
曹操は此処までやれば十分であろうと思った。
他の者達も似たような顔をしていた。
「更に我が軍内には疫病が流行り、多くの人馬が倒れ今も病に苦しんでいるという噂を流しましょう。さすれば、敵は考えるでしょう。戦を仕掛けるか、それとも反乱を鎮圧するか」
「・・・・・・そ、その様な噂を流す意図は何だ?」
「敵の混乱を増長させる為です。反乱が多発している所に、我が軍が疫病で戦意が低下していると聞けば、どうするか迷うでしょうから」
「ふむ。今まで反乱が起きていなかった所で、反乱が多発すれば、少しでも知恵が回る者ならば、私が手引きしていると気付くであろうな。袁紹が攻め込んできた時は、こちらは迎撃すればよい。だが、袁紹が疫病の話を信じて、兵を挙げる事は無いだろうと思い反乱の鎮圧にしたらどうするのだ?」
「その時は、兵を挙げて北上し敵の防衛を突破して、敵の本拠地である鄴を攻撃するのです」
曹昂が地図上で鄴と書かれた所に置かれている白い碁石に黒い碁石をぶつけて弾き飛ばした。
「敵も本拠地を失えば、如何に名門袁家とは言え勢力の維持は難しいでしょう。その後は敵が弱るのを待てば、我等の勝利は間違い無しです」
曹昂がそう述べるのを聞いた曹操達は顔を引き攣らせていた。
皆心の中で其処までするかと思ったからだ。
「・・・・・・息子よ。お前、何か怒ってないか?」
「? 何にですか?」
曹操がそう訊ねるが、曹昂は言葉の意味が分からず首を傾げた。
曹操達からしたら、曹昂があまりに淡々としながら策を述べるので、怖いと思わせていたからだ。
なので、怒っているのではと思うのは道理であった。
(爺様と父上を貶された事を怒っているのか?)
曹操は何となくだがそう思った。
「・・・・・・良し。私の腹は決まった。曹昂の策を行い、袁紹を討つ! 皆は兵の準備をせよ‼」
「「「はっ」」」
曹操が袁紹と戦うと宣言すると、その場に居た者達は一礼し準備に取り掛かった。