事態は急転する
一向に良くなる傾向を見せない董承。
献帝も心配の様で、吉平に絶対に病を治すようにと厳命していた。
吉平もその命令に従い懸命に治療した。
己が知る中で最高の薬を用意して董承に与えた。
だが、董承は寝台から出て来る気配が見えなかった。
一月十五日。
今日も董承の治療の為に屋敷に向かう吉平。
屋敷に入り、出迎えてくれた董承の家族に一礼した後、董承に仕える下僕である秦吐に自分が持って来た薬箱を持たせて付いて来る様に命じた。
廊下を歩きながら吉平は薬箱を持っている秦吐に話し掛けた。
「ふぅ、どうにも分からん。私が見た限りだと、顔色も良く特に何処も悪くないと言うのに、どうして董国舅殿は起き上がる事が出来ぬのだろうな?」
吉平は自分が見た限りでは何処も悪くないのに、どうして起き上がる事がないのか不思議なので、何か原因が有るのではと思い董承に仕えている下僕である秦吐に訊ねた。
「さぁ、私にもとんと分かりません・・・・・・」
訊ねられた秦吐も董承がどうして起き上がる事が出来ないのか分からず、首を傾げるしかなかった。
「むぅ、身体でも無いという事は、心か? それとも、薬が効き辛い所を患ったのか・・・・・・?」
廊下を歩きながら吉平は、ブツブツと呟きながら歩いていた。
やがて、董承の部屋の前まで来ると、部屋の中から呻いた声が聞こえて来た。
「今の声は⁉」
「董国舅の声の様だっ」
そう叫ぶなり吉平は秦吐が持っている薬箱を奪い取る様に掴んだ。
「お主は、今すぐに桶に水を入れて持って来るのだ!」
「承知しました!」
吉平にそう命じられた秦吐は一礼してその場を離れた。
秦吐が離れて行くのを見送ると、吉平も慌てて部屋の中に入って行った。
だが、秦吐は少しすると戻って来て、董承の部屋の前まで来てそっと中に入って行った。
呻き声が聞こえて来たので、慌てて部屋に入った吉平であったが、直ぐに呻き声の訳が分かり安堵の息を漏らした。
「う、ううう・・・・・・・」
寝台で寝ている董承が苦しそうな声を上げてうなされていた。
それを見た吉平は夢見が悪いのだと察した。
どんな夢を見ているかは吉平にも分からなかったが、夢見が悪いだけだと分かったので、取り敢えず起きるまで寝かせておく事にした。
起きたら診察しようと、薬箱を床に置き準備をしていた。
「う、ううう、曹操、覚悟!」
董承に背を向けていたので、眠っていると思っていた人物が大声を上げるので、吉平は飛び上がらんばかりに驚いた。
驚きつつ振り返って、董承を見る吉平。だが、董承は目を瞑り唸っていた。
掛けられている布団を握り締めながらも唸っているので、余程夢見が悪いのだと思う吉平。
「しかし、曹操とは。丞相の事をかなり嫌っている様だな?」
この国では成人した男性を名前で呼ぶのは親族か親しい者以外が呼ぶ事は失礼な事であった。
夢に出てくる程に曹操の事を嫌っているので、病の原因もそれかも知れないと思う吉平。
「・・・・・・お、おおお、やったぞ。曹操めを、討ち取ったぞ・・・・・・これで、漢は救われる・・・・・・」
寝言とはいえ、あまりに物騒な事を言うので吉平は慄いた。
だが、同時にどんな夢を見ているのか、そして董承の病の原因が分かった。
「原因は分かったが、誰かに聞かれては罪に問われかねん」
そう思った吉平は董承を起こす事にした。
「国舅。董国舅」
吉平が董承の身体を揺らすと、眠っていた董承は意識が覚醒したのか、身体を起こし目を少し動かした後、手で目を擦った。
「・・・・・・何だ。夢であったか・・・・・・・?」
目を擦りながら董承は酷く残念そうに呟いた。
やがて、半分覚醒していた意識が完全に覚醒して、直ぐに自分を起こした人物を見た。
「き、吉平殿。診察に来ていただいたのか?」
「ええ、その通りです」
「そうであったか・・・・・・・私は何か喋っていたであろうか?」
見ていた夢があまりに人に聞かれていては問題がある内容なので、聞かれては不味い事を言ったのではと思い訊ねる董承。
「わ、私は何か言っていたであろうか?」
「国舅の病根をようやく見つける事が出来ました。国を憂うあまりに、気を病み食が進まなかった様ですな」
吉平がそう言うのを聞いて、董承はうわ言で途轍もない事を言ったのだと察した。
「い、いや、夢を見ていた故に、何か言ってはならない事を言ったのやもしれませんが、所詮は夢、お忘れ下さい」
幸い吉平は董承の本心も血判状の事も知らないので、うわ言を言った事にして誤魔化す事にした。
だが、吉平は董承が何かを隠しているのだと察して本心を告げた。
「帝の為に忠義を尽くそうというお心に私も胸を打たれました。どうか、貴方の本心を打ち明けて頂きたい」
「そう言われてもな・・・・・・」
董承からしたら、吉平が敵なのか味方なのか分からなかった。
如何に自分の治療に尽力したからといって、それはあくまでも職務で行った事であった。
加えて、曹操を診察する時は吉平がしていると聞いた事があった。
その為か、董承は吉平を疑っていた。
「まだ、私の本心をお疑いの様ですな。宜しい」
吉平はそう言うなり、己の指を口に入れて指先を食い千切った。
ぶっと血混じり唾と共に指の一部が吐き出された。
食い千切られた指からは赤い血が後から溢れ出す中で、薬箱の中に入っている紙を取り出した。
その紙に、何を知っても他言しないという事が書かれていた。
血で書かれた誓書を掲げつつ吉平は述べた。
「真の大医は国の病ですら治す者と言います。董承の悲願の為、この吉平が力添え致します」
誓書を受け取った董承は目から涙を流していた。
「まさか、貴殿の様な忠臣がまだ居るとは・・・・・・」
感涙にむせぶ董承。
袖で涙を拭った董承は隠し持っている血詔を取り出して見せた後に、血判状を見せた。
話を聞いた吉平は涙を流した後、その血判状に自分の名を書き記した。
その後、二人は話し合った。
「これだけの忠義の者が居るのは嬉しき事だが、曹操を討ち取る程の力は無い。どうしたものか・・・・・・」
「何の、私に考えがございます」
「考えとは?」
「私が曹操を診察しているのをご存知か?」
「うむ」
「曹操は頭痛持ちでしてな。その時に飲む薬も私が作っております。その薬を毒にすり替え与えれば、曹操を殺す事が出来ます」
「それは、確かにそうだが・・・・・・」
吉平の考えを聞いた董承は難しい顔をしていた。
吉平が曹操に毒を飲ませれば、曹操を毒殺する事は出来るが、直ぐに犯人は吉平だと分かる事であった。
そうなれば、処刑される事は目に見えていた。
それどころか、一族郎党皆殺しになってもおかしくなかった。
董承の顔から何を考えているのか察した吉平は微笑んだ。
「我が家は代々漢王朝の国恩を授かって参りました。ですので、私と一族の命で漢を救えるのであれば、喜んで捧げましょうぞ」
「吉平殿。・・・・・・其方こそ真の忠臣だ」
董承は涙を流しながら、吉平の忠義を称えた。
その後、董承は病が良くなってきたので、吉平と酒を飲むと言って準備をさせた。
二人は静かに盃を交わし合った。
もし、事が露見しても消して口を割らないと固く誓った。
数刻後。
吉平が董承の屋敷を後にした。
その董承の屋敷の一角では秦吐の姿があった。
密かに董承の部屋に入り、吉平との話を聞いていた秦吐は曹操に毒を盛るという話を聞いた時点で、部屋を出て行った。
時刻は夜になろうしていた。そんな時刻にどうやって連絡を取ろうか考える秦吐。
夜なので、使いを頼まれたと偽って外に出る事は無理であった。
一応下僕である自分が何の理由も無く、屋敷から姿を消せば怪しまれる事が分かっていた。
もし、すれば董承は話を聞かれたと察して、吉平に計画の延期する様に要請すると思われた。
なので、どうするか考える秦吐。
其処に董承の妾で名を雲英という女性が姿を見せた。
秦吐は董承の情報を収集する為、雲英を口説き懇ろの関係となっていた。
雲英は秦吐の事を好いている様だが、秦吐からしたらあくまでも職務の為に懇ろな関係となっただけなので、特に愛情など持っていなかった。任務が終われば、直ぐに捨てるつもりであった。
「……どうかしたのか? 雲英」
秦吐がそう訊ねるが、雲英は指を口に当てるだけで何も言わなかった。
そして、秦吐の手を繋ぎ、そのまま何処かに向かいだした。
少し歩くと、屋敷内のある小屋の前まで来た。
雲英は小屋の扉を開けて、秦吐を小屋に入れて自分も入り扉を閉めると抱き付き始めた。
「今日も旦那様は忙しそうだし、久しぶりに、ね?」
「……」
雲英が誘うが、秦吐は何も言わなかった。
今はそんな事よりも、自分が聞いた事を曹昂に教えないといけないと思うので、雲英がどれだけ抱き付いて淫らに誘おうにも、何もする気が起こらなかった。
そんな秦吐の気持ちなど知らない雲英は服を脱ぎ、襦袢だけとなった。
だが、秦吐は一向に服を脱がないので、雲英は首を傾げていた。
どうかしたのかと思い声を出そうとした所で、小屋の扉が乱暴に開けられた。
扉を開けたのは董承であった。
酒を飲んで気分が良くなった董承は妾の雲英と酒でも飲もうと思い、部屋を訪ねようとした所で、雲英が秦吐と共に小屋に入るのを見た。
何かするのかと思いながら、そっと小屋の扉の隙間から中を覗くと、雲英が秦吐に抱き付き服を脱いでいるのが見えた。
自分の妾が下僕と密通していると分かった董承は怒りで扉をこじ開けた。
荒い息を吐きながら秦吐達を睨む董承。
「こ、この不埒者めっ。恩知らず共が⁉」
まだ酔いが残っている董承は怒鳴りつつ秦吐と雲英の服の襟を掴んだ。
秦吐は逃げだそうと思えば出来たが、此処は流れに身を任せる事にした。
二人を掴んで小屋を出た董承は大声で使用人達に棒を持ってくるように命じた。
その声を聞いて使用人達は慌てつつ、董承の元に向かい、状況を見て直ぐに察した。
直ぐ使用人達は棒を持ってやって来た。
「この卑しい者達を打て!」
董承がそう命じると、使用人達は持っている棒で秦吐達を叩きだした。
叩かれている秦吐達は手で頭などを守りながら許しを乞うた。
百以上叩かれた後、董承は二人を睨みつけながら使用人達に命じた。
「二人を縄で縛り別々の所に連れて行け。夜が明けたら殺せ!」
そう命じた後、董承は足を踏み鳴らしながら離れて行った。
離れて行く董承に秦吐達は慈悲を乞うたが、董承は聞く耳を持つ事は無かった。
そして、二人は使用人に縄で縛られ、引きずられながら小屋の別々の部屋に押し込まれた。
部屋に押し込まれた秦吐は耳をすませて、使用人達の足音を聞いた。
音が離れて行くのを聞いて、秦吐は逃げるのなら今だと思いながら、関節を外して縄抜けを行い縄を解くと、そっと小屋を抜け出した。
秦吐はその足で曹昂の屋敷へと駆けて行った。
翌朝。
小屋には雲英しかおらず、秦吐は逃亡したと使用人と董承に報告してきた。
報告を聞いた董承は卑しい者が逃げだしただけだと思い、特に問題にしなかった。
それよりも、妾が密通した事に怒っていた。
宣言通り、雲英は姦通罪で処刑された。
雲英は処刑が下される時まで、一人だけ逃げて自分を見捨てた秦吐に対して恨み言を叫び続けた。