これは、やめた方が良いな
「・・・よくぞ、そのような事を言えたな。さては、此処に居る者達が誰なのか知らぬようだな。良かろう。無知な其方に特別に教えてやろう」
暗に人を見る目無しと言われた曹操は、腸が煮え繰り返りそうであったが、昨日の言動から禰衡は奇行を行う者だと認識した曹操は、今にも溢れ出しそうな激情を抑えながら、配下の者達がどんな人物なのか教えだした。
「よく見て聞いて覚えておくが良い。私の右の列の前に居るのは荀彧、次に郭嘉、程昱、荀攸と言い古の軍師陳平や名宰相の蕭何にも劣らず智謀に優れている者達だ。左の列の一番前に居る夏候惇は良能にして我が軍の副将と言うべき存在だ。次に居るのは曹昂と言い我が軍で一番の奇才の持ち主だ。その次は趙融、張遼、許褚、楽進、李典、呂虔、満寵、徐晃、曹洪、于禁は万夫不当の勇を持ち、千軍万馬往来の傑物達である。これ程の者達であっても、人がいないと申すか?」
曹操の説明を黙って聞いていた禰衡。
説明が終わると、何が面白いのか笑い出した禰衡。
「何を笑う?」
突然、笑い出したので曹操達は気が狂ったか?と思いながら、禰衡を見ていた。
「はははは、これは面白きかな。丞相が観る目と私の観る目があまりに違うので、面白くて笑いが止まりませんでしたぞ」
「ほぅ? 違うとな。では、お主の目から見て、皆はどう見えるのか教えてもらおうか」
罵倒も此処までくると清々しいと思ったのか、曹操は禰衡が荀彧達をどう見えているのか気になり訊ねだした。
「では、遠慮なく。荀彧は弔問の使者を遣らせるのが、趙融は厨房で客を接待するのがお似合いだ。荀攸は墓守、程昱は門番が良い。郭嘉は文の読み上げ、張遼は太鼓を叩かせたら良い。許褚は牛馬の番をするのが、楽進は詔の読み上げ、李典は書類の伝令、呂虔は刀鍛冶、満寵は酒粕喰らいが適任だ。于禁は左官屋、徐晃は肉屋、夏侯惇は片目なので薬籠を持たせたら、立派な薬持になれる。曹洪は金を数えるのが好きな守銭奴だ。他は服着て飯食ってるだけの奴ばかりだ。丞相の目は節穴と見える。はははは」
禰衡がそう言い終えると手を叩いて笑いだした。
その笑い声を聞いて、曹操達は怒りで顔を赤くしていた。
曹昂は禰衡の話を聞いて、頭の中で話に出た職を荀彧達に当てて連想してみた。
(・・・・・・意外に合ってるかもな?)
連想してみると、存外似合っていると思う曹昂だが、流石に口に出す事はなかった。
流石に失礼でもある上に、そんな事を言えば禰衡が調子に乗るのだろうと分かっているからだ。
「ならば、貴様はどの様な才を持っていると言うのだっ⁉」
曹操は心中に怒りの炎を燃やしながらも、何とか堪え苦虫を噛み潰したかような顔で訊ねた。
訊ねられた禰衡は口角を釣り上げながら語りだした。
「我が胸中には国を治め、民を安んじる経綸が溢れ出さんばかりで、私欲など入る隙間など無し。そこいらの者達とは違う」
と胸を張りながら高らかに述べた。
それを聞いて、夏候惇達は怒りで剣の柄に手を掛けていた。
このままでは、誰かが剣を抜くかと思われた所で。
「愚か者‼ 無位無官の貴様が何と畏れ多い事を言うのだ!」
其処に部屋中が震え程の怒声が響き渡った。
その声を聞いて、皆声をした方を見た。
禰衡も声がした方に顔を向けると、笑っていた顔が一変して青褪めた顔をしていた。
「あ、あああ、貴方は・・・・・・」
先程まで嬉々として人を罵倒していた禰衡が歯をガチガチと鳴らしながら怯えた顔をしていた。
そんな禰衡よりも、皆は声を上げた者の方が気になっていた。
「昔と全く変わらないとは嘆かわしい事だ」
声を上げた主は禰衡の今までの態度を見て嘆息していた。
その者は家臣の列の末席から前に出た。
どうやら、その者は家臣の列の末席の末席に居たので、禰衡の位置からではよく見えなかった様だ。
その者は張昭。字を子布と言い、以前曹昂が勧誘して朝廷に仕える事にした者達の一人であった。
現在、張昭は諫議大夫の職に就いていた。
「せ、せんせい。何故ここに・・・・・・?」
「とある方の推挙により、朝廷に仕える事となったのだ。それよりも」
張昭はじろりと禰衡を睨みつけた。
「己に才があるからと言って、人を罵倒するとは礼節を知らぬのかっ。一時とはいえ、貴様に学問を教えた師であった私に恥をかかせるつもりか‼」
「あ、いえ、そのようなことは・・・・・・」
張昭の怒声に禰衡は汗をかくばかりで、碌な反論も出来なかった。
「黙れ! その傍若無人の性格を此処で叩き直してくれる!」
張昭は怒りながら禰衡に近付き叱り飛ばした。
叱られる禰衡はただただ、頭を下げて謝るだけで何も言わなかった。
暫くすると、張昭の怒声が止まった。
それを見計らうように曹昂が声を掛けた。
「張大夫。禰衡殿とはお知り合いで?」
「・・・はい。その通りです」
曹昂の問い掛けに、張昭は息を整えながら答えた。
「私は徐州の生まれで、此奴は青州の生まれです。私が学者として、少しは名が通るようになりますと、北方に居る士大夫達が私の下に来るか手紙を送ってくるようになりました。禰衡もその一人でして、話してみると少々気位が高いが中々に才がありますので見所があると思い、私が揚州に行くまでの間、少々学問を教えておりました」
張昭が簡単にだが、禰衡との関係を教えてくれた。
「つまり、師弟関係という事ですか?」
「それ程ではありません。それに、私の教えを受けた事で増長し、傲慢になったと聞いて、私としては恥じ入るばかりです。なので、弟子と思った事はありません」
張昭が禰衡を睨みつけると、ビクリと身体を震わせていた。
ビクビクと震える禰衡を見て、曹操達は面白そうに笑っていた。
(・・・・・・そう言えば禰衡って、誰かから学問を学んだという話を聞いた事は無かったな)
この時代の学者は誰かしらを師にして教えを乞うか、実家が名門という者が多かった。
禰衡は並外れて恵まれた才能を持っていたと言われているが、誰かを師にしていたとは知られていなかった。
なので、張昭から学問を教わったと言われても曹昂は納得出来た。
張昭は学者としても有名で、とある学者から『左氏春秋』を教授される程の学識を持っていた。
「しかし、それだけの大言を吐くのですから、何かしらの才があるのでしょう。ですので、此処は一つ試してみましょうか」
其処に曹昂が手を叩き、笑顔でそう言いだした。
そう言うのを聞いて皆、曹昂の方に顔を向けた。
「息子よ。何をさせるつもりなのだ?」
「以前、父上が出来なかったあれをさせるのですよ」
「あれとな?」
曹昂が「あれ」と言うが、曹操達は何を言っているのか分からず首を傾げた。
皆も曹昂が言っている「あれ」とは何を指しているのか、分からずざわつきだした。
そんな中で曹昂は禰衡に話し掛けた。
「我が父ですらできなかった事です。禰衡殿程の御方であれば出来るでしょう」
「面白い。まぁ、私であれば、簡単に出来るでしょうが。どんな事をするのか楽しみですな」
禰衡が自信ありげに笑みを浮かべ、鼻で笑った。
だが、張昭が睨みつけると禰衡はビクリと身体を震わせた。
それを見て、曹昂だけは少し期待している様な顔をしていた。
数刻後。
場所を丞相府から軍の演習場に移った。
その演習場の一部を借りて、禰衡は筆を持ちながら一枚の紙を見ていた。
額だけではなく全身から汗をかいていた。
目が飛び出そうな程に見開き、手も震えていた。
筆は紙の少し上で止まっているが、墨を付けているので、ポタ、ポタと墨が落ちて白い紙を黒く染めていった。
「・・・・・・」
禰衡は無言で筆を持ったまま固まっているので、まるで石像の様であった。
そんな禰衡を見て、曹操達は楽しいのかニヤニヤと笑っていた。
曹昂はそんな禰衡を見て、残念そうな顔をしていた。
(う~ん。無理か。何か誰かからオウムを献上されて、その場で一気に賦を書き上げたと言う話があるから出来るのではと思っていたけど)
ちなみに、その賦は「鸚鵡賦」と言い『文選』にも収録されている。
そんな禰衡が何を書くのを躊躇っているのかと言うと、それは曹昂が『飛鳳』から見えた風景を賦にしてみろと言ったからだ。
最初、空を飛ぶなど出来る訳が無いと馬鹿にしていた禰衡であったが、演習場に着き『飛鳳』を見て乗り飛んでみると酷く驚いていた。
前以て曹昂が甘寧に、客人を連れて来るので『飛鳳』の準備をしておいてくれと命じていたのだ。
そして、地上に降りて来る頃には禰衡に紙と筆などの準備が整っていた。
『さぁ、先生。どうぞ。先生程の才があれば、空を飛んだ時の光景を賦にする事が出来るでしょう?』
と笑顔で書く様にと言う曹昂。
禰衡からしたら、その笑みは恐ろしい化け物の様に見えた。
何せ『飛鳳』を作ったのは曹昂だという話を空を飛んでいる時に聞いたからだ。
加えて、空を飛んでいる時の光景が言葉に出来ない程に素晴らしかったので、禰衡には賦にする事が出来なかった。
さりとて、出来ないと言う事は禰衡の自尊心が許さなかった。
その為、筆を持ったまま石像の様に固まっていた。
曹操達はそんな禰衡を見て、散々人を罵倒していた者が出来ないのを見て留飲を下げていた。
何時まで経っても出来ないので、曹操はニヤニヤしながら禰衡に声を掛けた。
「どうした? 出来ぬのか?」
「・・・・・・」
曹操は賦を書く事が出来ない禰衡を見て笑いながら訊ねるが、禰衡は口を閉ざすだけであった。
「出来ないのであれば仕方がない。他の物を見せてもらおうか。孔融」
「は、はっ」
「この者は何が得意なのだ?」
「は、はっ。禰衡が太鼓を叩くのが上手く、名人と皆は申しております」
「ほぅ、それは丁度よい。太鼓を打つ者が欠けていると聞いているから、この者に太鼓を打たせようぞ」
孔融の話を聞いて、曹操は太鼓を打つ吏員が欠けていると報告があったので、禰衡をその吏員にしようと言った。
「丞相、それは・・・」
「良いであろう。どうだ? 禰衡よ」
「・・・・・・御意」
消えそうな程に小さな声で承諾する禰衡。
孔融は禰衡の返事を聞いて、どう声を掛けるべきなのか分からず当惑した顔をしていた。
返事を聞いて曹操は笑みを浮かべた後、その場を後にした。
荀彧達も項垂れている禰衡を見て一笑した後、曹操の後に付いて行った。
張昭は呆れたように溜め息を吐いた後、禰衡を一瞥した後曹操達の後に付いて行った。
曹昂だけは禰衡と孔融に一礼しその場を離れて行った。
演習場を出ると、丞相府では宴が開かれていた。
曹操を含めた皆は項垂れている禰衡を肴に酒を飲んでいた。
曹昂はその席には参加せず、自分の屋敷に帰る事にした。
(・・・・・・辛口で度胸もあるから、精神面も強いと思ったけど。張昭に怒鳴られただけで一言も言い返せないとは、あれは駄目だな)
優秀だと聞いていたので、曹昂は辛口でも部下にしようかと思っていたが、部下にするのは止めようと帰り道を歩きながら決めた。
それよりも、これを機に張昭を重用した方が良いかもなと思い、何かの職に就かせたら良いかなと考える曹昂。
後日。曹昂は曹操に張昭を御史大夫に薦めると、曹操も異論無いのか献帝に上奏して直ぐに認められ、その日の内に張昭は御史大夫となった。