使えるものは何でも使う
翌日。
沮授は昨日届けられた文を持って袁紹の下へ訪ねた。
丁度、執務の合間に休憩を取っていて、茶を飲んでいるところであった。
「ご休憩中に失礼いたします」
「どうした? 沮授」
何の前触れも無く訪ねて来た沮授に、袁紹は茶を飲みながら訊ねてきた。
沮授は肩を擦りながら、辺りを見回した。
部屋の中には袁紹しかいない事を確認した後で、沮授は持っている文を前に突き出した。
「それは?」
「昨日、曹操より文が届きました」
「なにっ⁉」
曹操の名前が出て来たので、袁紹は目を見開き、沮授の手の中にある文をひったくるように奪う。
そして、その文を広げて中を見た。
書かれている事は、他愛のない話が書かれていた。
別段内応しろとも、引き抜きの話などは書かれていなかった。
最後の行に曹操としっかりと書かれていた。
「この字、間違いなく曹操の字だ。沮授よ。お主と曹操はどの様な関係なのだ?」
「関係と言われましても、私が茂才で推挙されて兗州の東郡の濮陽県の県令になっていた時期に曹操が近くの頓丘県の県令に赴任しましたので、近くの県という事で交流をしていたのです」
ちなみに、この茂才とは郷挙里選という漢代に行われていた官吏の登用制度の一つで、本来は秀才と言う。
だが、後漢の時代では後漢王朝の初代皇帝である光武帝の諱を避けて「茂才」と呼ばれていた。
「・・・・・・ああ、曹操が霊帝に寵愛されていた宦官蹇碩の叔父が門の夜間通行の禁令を犯したので、捕らえて即座に打ち殺した件か。蹇碩は追放を画策するも理由が見つからないので、逆に県令に推挙して洛陽から遠ざけてたな」
その時、洛陽に居た袁紹はその事件の事をよく覚えていた。
袁紹としては栄転と聞こえは良いが、実際は処罰する理由が無いから異動させたとしか思えなかった。
当の曹操は気にする事無く笑いながら赴任地へ向かったので、袁紹は呆れていた。
「ですが、暫くすると曹操は議郎となりましたので、その後の交流はありません」
「確かか?」
「はい」
沮授が曹操の事は昔から知ってはいるが、もう交流が無いと言うと袁紹は顎を撫でた。
「・・・・・・分かった。下がれ」
「はっ」
文を出した以上、これ以上話す事は無いと思った袁紹は沮授に下がる様に命じた。
沮授が部屋を出て行くと、使用人にある者を呼ぶ様に命じた。
少しすると、その使用人が郭図を呼んで参った。
使用人が下がると、郭図は袁紹に一礼する。
「お呼びとの事で参りました」
「うむ。これを見よ」
袁紹はそう告げて二枚の文を見せた。
「拝見いたします・・・・・・・これはっ」
二枚の文を読んだ郭図は目を丸くした。
「これはどちらも曹操が書いた文のようですな。一つは沮授殿。もう一つは田豊殿宛てですな」
「そうだ。田豊が先に来て、その後に沮授が来てな。二人共、その文を持って私に見せたのだ。何でも昨日届いたそうだ」
「左様でしたか・・・・・・」
「其方を呼んだのは、曹操がこの文を二人に送って来たのは何の為だと思う?」
これで、内応や引き抜きの事が書かれているのであれば、それらの文だと分かる。
だが、書かれている内容は他愛のない事しか書かれていなかった。
袁紹は曹操はどういう意図で、この文を二人に送ったのか分からず首を傾げていた。
「恐らくですが、本当はこの文は二枚あったのでしょう。一枚目は他愛のない事を書いており、二枚目には曹操に寝返る事が書かれていた文なのでしょう」
「なにっ⁉」
郭図の推察に袁紹が信じられないとばかりに声を上げた。
「これも恐らくですが、御二人は殿と曹操を天秤に掛けたのでしょう。昨日届いた文ならば、昨日の内に見せても良いでしょう」
「すると、奴等は昨日一日かけて、私と曹操のどちらの部下に考えた末に、私の部下になる事を決めたというのか⁉」
「でしょうな。寝返る様に書かれたその文は、もう燃やされているでしょうな」
「ぬううっ、あやつらめ。私と曹操を天秤に掛けるとは、何という不遜な!」
袁紹は今は疎んじてはいるが、重く用いていた部下の忠誠を疑う様な事をした事に荒い息を吐いていた。
「しかし、処罰は無理でしょう。その証拠の文はもう燃やされて無いでしょうから」
「ぬうううっ、では、このままにしろと言うのかっ」
「そうは申しません。それで、此処は先の戦の敗因という事で、田豊殿はもう暫く謹慎して貰い、沮授殿には権限を分割するというのは如何でしょうか?」
「権限の分割だと?」
今の沮授は監軍兼奮威将軍の職に就いていた。
監軍は基本的には自軍を監視する戦目付けの様な役職だが、州によっては都督としての役割も担っていた。
袁紹軍の監軍はそうなっていた。
「今、沮授殿は三軍を統括しておりますが、曹操の文が届いたのです。何時心変わりするか分かりません。もし、そうなっても大丈夫な様に沮授殿の権限を三人の都督へと三分割するのです」
「成程な。その三人とは誰だ?」
「一人は勿論、沮授殿です。これはいきなり権限を奪いますと、本当に寝返るかも知れません。ですので、そうならない為に権限を与えるのです」
「ふむ。そうだな。それで、後二人は?」
「不肖の身でありますが、この私めが。もう一人は淳于瓊殿が適任です」
「淳于瓊か。あやつであれば問題無いか」
淳于瓊は袁紹が霊帝が創立した皇帝直属部隊『西園軍』に所属していた時の同僚であった。
董卓の専横が始まると中央から逃れて、袁紹配下となった。
嘗て同僚であったので、その才能は分かっていた。
「では、そうするとしようか」
「はっ」
郭図の進言を聞いて、袁紹はその通りにした。
部屋を出る際、郭図は上手くいったとばかりにほくそ笑んだ。
数日後。
豫洲潁川郡許昌。
城内の一室で曹昂は荀彧、程昱、郭嘉、荀攸と話し合っていた。
「鄴に居る密偵からの報告で、田豊は謹慎が続き、沮授は持っている権限を分割されたそうです」
「若君が沮授と田豊の二人に丞相の名で文を送ったと聞いた時は、何の為に送ったのか分かりませんでしたが、まさか敵の内部を攪乱させる為だったのですか」
「ええ、その通りです」
荀彧は口元を緩めながら言うと、曹昂は頷いた。
「これで、袁紹軍も混乱するでしょう。今まで軍を纏めていた沮授の他にも郭図と淳于瓊という二人が加わるので、指揮系統がめちゃくちゃになるでしょうね」
「ですな。都督が三人も居れば、軍の統率が乱れますな」
程昱も曹昂の言葉に同意した。
「これで、その三人の都督を纏める大都督でもいれば安定しますが、袁紹は置かないでしょうな」
郭嘉は少しだけ袁紹に仕えていた事があったので、袁紹の性格が分かっていた。
仮に大都督を置く事になれば、指揮系統が安定する代わりに軍部の発言力が強くなる。
平穏な時代であれば特に問題無いが、乱世の時代となればかなり重要であった。
軍部の発言力が強くなるという事は、文官と袁紹の権威を損なう可能性があるからだ。
なので、袁紹はその様な事はしないだろうと、深い溜め息をついた。
「だと思います」
「ところで、話は変わりますが、張繍の下に使者を送ったとか」
「はい。味方にする為に」
曹昂の口から、張繍を味方にすると聞いて荀彧達は目を丸くした。
「曹浩殿を討った者だというのに丞相も若君も懐が深いですな」
「・・・・・・何時までも恨みを持っていても仕方がありませんからね。それよりも、今は勢力の拡大をしなければ」
と言いつつも、曹昂の心の中には従弟を殺された恨みは無くなる事は無かった。
だが、張繍を味方に取り込む事の方が利益が大きかった。そう思い、此処は恨みを忘れるのが良いと判断した。
(母上の前でこんな事を話したら、烈火の様に怒るだろうな・・・・・・)
丁薔は曹操の子供を産む事が出来なかった所為か、曹操が養育している子達を可愛がっていた。
曹浩もその一人であった。その為か、丁薔は曹浩が殺される原因となった雛菊の事を今でも嫌っていた。
雛菊も恨まれている事情が分かっている為か、丁薔に出来るだけ近付かない様にしていた。
(父上も何も言わないし、このままにするしかないな。そう考えると、私の所は仲良くしていて良かった)
自分の所の妻妾は仲が良い事に安堵する曹昂。
「その張繍の使者には新参の劉曄という者になったそうですね」
「聞いた所、その使者を推薦したのは若君だとか」
荀彧と荀攸が訊ねると、曹昂は頷いた。
「ええ、叔父の劉馥が劉曄殿の才を買っていましたので、その才を見込んで使者にしました」
「大丈夫でしょうか?」
「ご安心を。張繍というよりも部下の賈詡が現在の自分の状況と将来の事を考えると、父上の味方になる事を選ぶでしょうから」
むしろ、今の張繍の現状を考えると、誰を使者にやってもこちらに帰順するのではと思う曹昂。
「ふむ。若君は其処まで断言できるのですか」
「はい」
程昱は曹昂の自信満々な言葉を聞いて関心を示した。
「まぁ、使者が帰って来た時に、どうしてそう思ったのかお聞きしましょう」
「そうですな。それよりも、問題は劉表ですな」
「我らと劉表は本格的に争っては居ませんので、敵対するにしても何かしらの口実が欲しいですな」
「何かあれば良いのですが・・・・・・」
曹昂達五人はどうしたものか頭を捻っていた。
(案はあるにはあるけど、私が言わなくてもいいよな。その内、孔融あたりが推薦するだろうし)
そう思った曹昂は何も思い付かないというフリをしていた。