どちらを選んでも、損は無し
煮え立つ大釜からは湯気が立ち上っていた。
薪は次から次へと火の中に投入されているので、油はかなりの高温であった。
張飛もその中に入れられると思うと、流石に心中穏やかではいられなかった。
それは城に居る劉備も同じであった。
劉備は城内の大広間にて、家臣達と議論を重ねていた。
「殿。大変言い辛いのですが、此処は張飛殿を切り捨てるべきです」
「私も同感です」
麋竺と糜芳は張飛を見捨てろと進言した。
「張飛を見捨てろと言うのかっ⁉」
劉備は義理の兄に当たる麋兄弟の進言を聞いて、怒鳴り声を挙げた。
「殿の気持ちは分かります。ですが、義弟を助けるために降伏するなど絶対に出来ません」
「その通りです。そんな事をすれば、何の為にこの徐州を曹操の手から奪ったのか分からなくなります。殿の名声も地に落ちましょう」
「だが、張飛とは桃園にて義兄弟の仲を結び、今日まで苦楽を共にしてきた義弟。その様な大事な者を見捨てる事など」
劉備は出来ないと言うが、義勇軍の頃から従っている簡雍が口を挟んだ。
「お気持ちは分かります。ですが、大将は時には小を捨てて大を取るという事を選ばねばなりません。非情ではありますが、それが大将の役目にございます」
「その為に義弟を見捨てろと言うのか?」
「はい。その通りです」
信頼する参謀でもある簡雍がそう言うのを聞いた劉備は納得がいかないという顔をしていた。
「…………だが、出来ん。義弟を見捨てる事などっ」
劉備は理性では、麋竺達が言う事は正しいと分かっているのだが、心では認めたくはなかった。
「殿。ご決断をっ」
「殿!」
麋竺達は早く答えて欲しいと思い言うが、劉備は苦悩して答えを出さなかった。
同じ頃。曹昂軍の陣地では。
曹昂は家臣達と劉備軍の中に居る密偵から報告を聞いていた。
「城内では、張飛を見捨てるべきという意見が多く占めております。ただ、劉備はその決断を下す事が出来ず頭を悩ませている模様です」
「まぁ、そうなるよな」
密偵の報告を聞いた曹昂はさもありなんと頷いた。
「他の家臣ならばともかく、義兄弟の張飛だからな。切り捨てるには難しいだろうな」
劉備が義兄弟を切り捨てるという判断は簡単に出来ないだろうなと思う曹昂。
「ですが、これで我等は劉備に対して優位に立つ事が出来ます」
劉巴はどう料理しようかという顔をしていた。
「ふん。ようやく、あやつの罵声を聞く事が無くなると思うと、せいせいするわ」
呂布は嬉しそうな顔をしていた。
「殿。御願いがございます」
張飛は処刑されると決まっている中で、趙雲は曹昂に願い出た。
「何かな?」
「どうか、張飛殿に降る様に言って貰えないでしょうか」
趙雲は頭を下げて曹昂に頼み込んで来た。
それを聞いて、劉巴と呂布は良い顔をしなかった。
「言っても無駄だ。あの頑固な張飛が部下になるなど有り得ない」
曹昂が無駄な事は止めた方が良いと手を振るが、趙雲は食い下がってきた。
「ですが、あれ程の武勇を持った方を処刑するなど、あまりにも勿体ない事にございます」
趙雲は何とか張飛を助けたいと思い進言して来た。
「趙雲よ。お主と張飛との関係は知らんが、あの頑固者は殿の部下になることは有り得んぞ」
「しかし」
「それに助けたところで、恩を仇で返す奴等だ。その様な者を助ける事は無かろう」
呂布がそう言うと、曹昂を除いた他の者達は。
(((それはお前だろう)))
と思ったが、口に出す事はしなかった。
曹昂だけは苦笑いを浮かべるだけであった。
「……まぁ、劉備がどんな決断を下しても、張飛を処刑はしないよ。その内、解放するよ」
「「「えっ⁉」」」
曹昂が処刑はしないと言うと、皆驚いた顔をしていた。
「当然だろう。張飛を殺せば、劉備は怒り狂って全軍で攻め込んでくるだろう。そんな事をされたら、勝っても大きな被害を被る。劉備を討ち取れるかどうかも分からないんだ。そんな危険な事はしないさ」
「では、何の為に大釜の用意を?」
「一つは劉備を脅かす為だ。張飛を処刑されると知れば、劉備の心中も心穏やかではいられないだろうからね。もう一つは敵の中に敵を作るのさ」
「敵の中に敵を作る?」
皆は曹昂の言葉の意味が分からないのか首を傾げた。
「殿。お言葉の意味が分かりません。出来れば、教えて頂けますか?」
其処で刑螂が曹昂に訊ねた。
「簡単な事だよ。煮えた大釜が傍にあり何時でも処刑出来る状態なのにされず、解放されたらどう思う?」
曹昂がそう言うと、皆は考えた。
「そうですな。私ならば、敵に内応しているのでは?と疑いますな」
劉巴がそう言うと、他の者達もその通りだという顔をした。
「そういう事だ。今、張飛はそれと同じ状況だ。もし、此処で解放したら劉備含めた他の者達は敵に内応したのでは?と疑う筈だ。其処に内応を促す様な噂を流せば、如何に劉備でも用いる事が出来なくなるだろうね」
曹昂は内心で恐らく、そうなるだろうと思った。
(まぁ、劉備の事だから張飛を信用するだろうけど、他の者達は信用できなくなるだろうね。そうしたら、劉備と他の家臣達の仲を裂くように仕向ければ良いだけだしな。仮に張飛を助けても、それはそれで問題ない)
劉備が張飛を切り捨てる事をすれば、義兄弟を見捨てた非情な男と言って貶めれば良い。
張飛を助ければ、その時は大局を見る事が出来ない愚か者と言って陥れれば良い。
曹昂からしたら、劉備がどちらの判断をしても損は無かった。
「成程。君臣の間にヒビを入れるという事ですか」
「離間の計という奴か。ふん」
劉巴は感心していたが、呂布だけは苦い顔をしてしていた。
董卓とも同じような事をされて仲違いしたので、あまりいい顔をしなかった。
趙雲としては、これが計略というものかと感心しつつ、劉備はどの様な決断を下すのか気になった。
翌日。
城から使者がやって来た。
使者は曹昂に文を渡した。
その文の内容は、降伏するので張飛は助けてほしいと書かれていた。
文を読んだ曹昂は上手く行ったという笑みを浮かべて、降伏を受け入れると返事をした。