どれだけ言っても駄目だった
翌日。
許昌にある外廷にて朝議が行われていた。
玉座には献帝が座っており、隣には曹操の姿があった。
玉座から数段下がった席には諸大臣が座っていた。
その中に劉備の姿があった。
曹操は大臣達を見回した後、荀彧を見た。
曹操の目を見た荀彧は頷いた後、立ち上がり前に出た。
「申し上げます。冀州の袁紹が幽州の州牧劉虞を下しました。幽州各郡は袁紹の手に落ち、劉虞は一族共々処刑されたとの事です」
荀彧の報告を聞いた大臣達はざわつき始めた。
皇族でもあり名声高い劉虞が敗れ処刑された事に驚いている様であった。
「陛下。袁紹は名門袁家の一族であり大将軍の職を務める者でした。その袁紹が朝廷の許しもなく、皇族である劉虞を勝手に処罰するなど、これは朝廷に対する謀反に等しき行いにございます」
「うむ。その通りである。丞相。そちはどうすべきだと思う?」
「此処は袁紹に劉虞を処刑した理由を尋ねる使者を送るべきでしょう。その使者への返答次第で、袁紹を逆賊とするか。不問にするか決めましょう」
「……袁紹に関しては其方に一任する」
献帝としては、皇族を処刑した事を厳しく詰問すべきだと思うのだが、曹操は厳しく詰問する様子が無いので、強く命じる事が出来なかった。
親族を殺されたというのに、処罰する事も詰問する事も出来ない自分の無力に献帝は内心で歯噛みしていた。
袁紹についての話が纏まろうとしていた時に、兵士が駆けて来るのが見えた。
その兵士が大臣達の前を通り過ぎて、献帝の前で跪いた。
「陛下。急報にございます。逆賊袁術が進軍を始めたと、九江郡に駐屯する揚州刺史より報告が参りましたっ」
兵の報告に大臣達はざわつきだした。
袁術が攻撃を仕掛けて来たのだと思ったからだ。
「もう、軍を立て直す事が出来たというのか?」
「しかし、袁術は贅沢三昧の暮らしをしている為、臣下が袁術を見放して逃げるか、反乱が多発していると聞くが」
そんな袁術がどうやって軍を立て直す事が出来たのか不思議そうであった。
「……袁術め。どんな手段で兵を集めたのかは知らぬが、これは捨て置けんな。兵を送らねばならんな」
曹操としては自分が兵を率いて袁術と戦う事は避けたかった。
今、自分が許昌を離れれば袁紹が攻め込んで来るだろうと思ったからだ。
そうすれば、幽州の支配が遅れるが、その分許昌を襲い天子を手中に収める事が出来た。
そんな危険があるので曹操は自分以外の誰かを将にして袁術を叩くべきだと判断した。
誰を出そうか考えている間、劉備は兵の報告を聞いて思った。
(袁術が動くとなれば、九江郡だけではなく徐州も警戒するべきだな)
今、曹操が支配している領土が袁術に攻め込まれる可能性があるとすれば、その二か所であった。
其処まで考えた劉備はこれからどうするか考えた。
――――――じぶんのしんじたみちを、まっすぐに、すすみなさい。
脳裏に亡き母の言葉が浮かんだ。
そして、劉備は自分の信じる道とは何かを考えた。
暫し考えた後、劉備は決断した。
そして、劉備は立ち上がり献帝達の前に出て来た。
「陛下。丞相。袁術が何をするか分かりません。ですので、此処は袁術に攻め込まれるかも知れない所に兵を送り、守るのが良いと思います」
劉備の意見を聞いた曹操は身を乗り出した。
「成程。皇叔の意見は尤もだ。九江郡には駐屯する揚州刺史に兵を送れば良いとして、徐州にも兵を送らねばな」
「丞相。その兵は私に預けては頂けないでしょうか」
劉備が意見を述べるので、曹操は顎髭を撫でた。
「ほぅ、皇叔が自ら徐州に向かうと?」
「はい。徐州には長く居た事があります。ですので、その地理は誰よりも知っております。もし袁術が徐州へ攻め込んできても、私が袁術を破ってみせます」
劉備が袁術と戦うと聞いた荀彧は、劉備を徐州に行かせては駄目だと曹操に目で伝えた。
曹操は荀彧の視線を感じつつ、少し考えた。
(劉備を徐州に行かせるか。守りは確かに強固になるな)
今、徐州を預かっている車冑は治政手腕と智謀は優れているが、武勇はからっきしであった。
なので、袁術に攻め込まれた場合、不安しか無かった。
其処を劉備が補えば問題無いと言えた。
(劉備はもう私に敵対するつもりは無いだろうし、兵を与えても反逆するつもりは無いだろう)
何時の頃からか、曹操は劉備を敵とは思わなくなった。
なので、曹操は劉備に兵を与える事を躊躇わなかった。
「良かろう。劉備よ。其方に五万の兵を与える。副将に朱霊と路昭の二人を付ける。袁術の襲来に備えよ」
「はっ」
曹操が劉備に兵を与える命を下すと、荀彧は深く息を吐いた。
曹操の命を受けた劉備は直ぐに五万の兵を借りると、直ぐに軍を進発させた。
その早い進軍は疾風の様であった。
劉備が五万の兵と共に許昌を発ったという報は直ぐに曹昂の耳に届いた。
「あれだけ言ったと言うのに、どうして聞き入れて貰えないのかな…………」
その報告を聞いた曹昂は嘆息交じりで呟いた。
これは一言言わねばならないなと思い、曹昂は曹操の下を訪ねる事にした。
馬に跨り、曹操の下に向かう曹昂。
まずは丞相府を訪ねてみると、見張の兵が丁度居ると分かり曹操が居る部屋に案内する様に告げた。
兵の案内で曹昂は曹操が居る部屋に案内された。
「どうして、劉備を許昌の外に出したのです。これでは、虎に翼を与えるも同然の事ですぞ!」
部屋から非難する声が聞こえて来た。
(この声は、郭嘉か。良く言ったっ)
そう思いつつ部屋を覗く曹昂。
部屋の上座には曹操が座っており、郭嘉と対面で話をしているのが見えた。
曹操は郭嘉の言葉を聞いても笑うだけであった。
「ふふふ、郭嘉よ。お主は以前劉備を助けるべきだと言ったではないか。そんな者を恐れる必要が何処にある?」
「あの時は助けた方が良いと思いそう進言しました。ですが、今はそうではないからそう申しておるのです」
曹操の疑問に郭嘉は状況が変わったので話す事も変わったのだと告げた。
「しかし、あの者に其処まで恐れる必要があるのか?」
「ああ、なんという事だ。殿は其処まで劉備を甘く見ているのですか?」
郭嘉は嘆くように告げると、曹操は顔色を変えた。
「どういう事だ?」
「殿は劉備を恐ろしい人物と見ていたのでは?」
「一度はそう思ったのだが・・・・・・」
郭嘉が訊ねると、曹操は何と言えば良いのだろうと困った顔をしていた。
「雷を恐れたり、母親が亡くなり出仕を控えようとしたので、恐れる事は無いと思ったのですか?」
郭嘉がそう言うと、図星を突かれたのか曹操は言葉を詰まらせた。
曹操の反応を見た郭嘉は溜め息を吐いた。
「虎を野に放ってしまいましたな。殿」
そう言われた曹操は何も言えなかった。
「…………直ちに将の誰かを送り、劉備を許昌に戻って来る様に命じるか?」
「殿。それは」
「それは辞めた方が良いですよ。父上」
郭嘉が何か言おうとした時、曹昂が口を挟んだ。
「子脩か。何用で参った?」
「父上が劉備を許昌の外に出した事を非難しに参りました」
「ふん。お前もか」
曹昂がそう言うのを聞いて、曹操は鼻を鳴らした。
「まぁ良い。それよりも、劉備が帰還する様に命じるのは駄目なのか?」
「今から将の誰かを送るにしても、劉備の事ですから適当な言い訳で誤魔化しますよ。将、外にいれば、君命奉ぜざるありとか言って、従いませんよ」
「ぬううっ、ならば従わない場合は、斬れと命じれば」
「相手は五万の兵を率いているのですよ。その命令を伝える為に将の誰かが兵を率いるにしても、追い付く事が前提ですから、精々数百ぐらいしか連れていけません。数百の兵で五万の兵を破るなど無理があります。また、五万の兵を破る程の兵を準備するとなると、編成が終わる頃には劉備は徐州に到着していますよ」
「っち、劉備め。やってくれる」
曹昂の説明を聞いた曹操は舌打ちをした。
「ですので、こちらも劉備に一杯食わせましょう」
「ほぅ、何か策があるようだな」
「はい。車冑と朱霊と路昭の三人に文を送ります。其処に……」
曹昂は自分の策を述べるのであった。
丁度郭嘉が居たので、郭嘉を交えて話し合う三人。
少しすると、郭嘉は曹昂の策を行う為に部屋から出て行った。
部屋には曹昂と曹操だけとなった。
「これで一安心ですね」
「うむ。そうだな」
曹昂がそう言うと、曹操は怒りを抑え込んでいる顔をしていた。
劉備を侮っていた事に今更ながら憤っている様であった。
これは気分を変えた方が良いなと思い曹昂は話しかけた。
「そう言えば、徐州刺史をしている車冑は父上とはどういう関係なのですか?」
話によっては、曹操の腹心であったり高い地位を持っていたりするので、曹操とはどういう関係なのか気になっている曹昂。
「車冑か。あいつは元々、私の部下ではない」
「と言いますと?」
「車冑は天子の皇后の一族の者だ」
「え? 皇后の姓は伏では?」
「正確に言うと、その皇后の生みの母の名は車盈と言ってな。皇后を生んだ後、産後の肥立ちが悪くて、直ぐに亡くなったのだ。皇后の生みの母が亡くなったので、正妻の桓帝の娘の陽安公主が引き取って育てたそうだ」
「……という事は、車冑は皇后の生みの母の親戚という事ですか?」
「そうだ。だから、車騎将軍の地位に就いたのだ。まぁ、私に近付き媚びているので、皇后の一族の者達には嫌われているようだぞ。治政と智謀は優れているが、武勇はからっきしだから、兵からの信望が無くてな。それで私に従う事で、何とか兵を従えているという感じだ」
話を聞いた曹昂は納得した。
車騎将軍は将軍職ではあるのだが、非常置で皇帝が信任する者や外戚が就任する事が多かった。
例を挙げれば、何皇后の兄であった何進がその職に就いていた。
(道理で車騎将軍の職に就いていたり、徐州刺史になれたのか)
皇后の一族の者であれば、就く事は難しくはないなと分かり曹昂は成程なと思った。
そして、話を終えた曹昂はその場を後にした。
屋敷に帰ろうとしたら、其処に兵士が参って来た。
「申し上げます。子脩様に面会を求めている者が参りました」
「名は何と言ったのかな?」
「趙雲子竜と申しております」
兵から名前を聞くなり曹昂は直ぐに趙雲が居る所に案内する様に命じた。