恥辱
曹操の招きに応じた劉備は、義弟達と共に許昌へ来たが、その都の煌びやかさに目を奪われていた。
「此処が許昌か」
「何とも、大きく綺麗ですな」
劉備と関羽は都の素晴らしい光景に目を奪われていた。
「洛陽も燃える前は、こんな感じだったんだろうな……」
張飛も義兄達と同じく、きょろきょろと周りを見回していた。
まだ、完全に都は出来ていなかったが、劉備達からしたら此処まで大きな都と言える所は許昌が初めてであった。
義勇軍時代、洛陽に行った事はあるのだが、官軍ではないので城門の外で待つように言われたので、市内に入った事が無かった。
その為、この都の素晴らしさを心に留めようと見回していたが、その様子は如何見ても田舎から初めて都に出て来た人達にしか見えなかった。
三人共、馬に乗っていて人目に付くので、余計にそう印象づけさせた。
劉備達は進み続けていると内城まで来て、馬を預け曹操の下まで案内された。
謁見の間には、曹操の直臣達が勢揃いして待っていた。曹昂もこの場にいる。
好奇に満ちた視線が劉備達に突き刺さる。
劉備達はその視線に気圧される事無く、堂々と進み上座に座る曹操の近くまで行くと跪いた。関羽達も同じように跪いた。
「徐州州牧の劉備玄徳にございます。曹司空に拝謁致します」
「よくぞ来た、玄徳殿。壮健そうで何よりだ」
劉備と曹操は挨拶を交わした。
その後、劉備は自分が此処に来る事になった事件の経緯を簡単に話した。その原因を話さずに。
「……ふむ、そうか。大変であっただろうな」
曹操は劉備を労わりつつも、事件の真相を知っているが口に出す事は無かった。
「兎も角、こうしてやって来てくれたのだ。今日は宴を催そう。その後については、話し合ってから決めようぞ。それまでは、私が出来る限りの事をしよう」
「ありがとうございます」
当分の間、面倒を見てくれると聞いた劉備は喜び、張飛と関羽は酒が飲めると分かり喜んでいた。
喜ぶ三人を見る曹操は口元に笑みを浮かべていた。
その笑みは、あまりにあくどい笑みであったが、喜んでいる劉備達は見る事が無かった。
宴は大いに盛り上がり、劉備達も楽しそうに酒を飲んでいた。
宴が終わった数日後。
曹操の下に呂布からの使者がやって来た。
「お初にお目に掛かります。私は呂将軍の配下の陳登と申します」
陳登は跪き曹操に自己紹介した。
「陳登とな。確か、徐州には陳家という名家があるが、その家の者か?」
「はい。その通りにございます」
中々の大物が来たなと思う曹操。
「して、使者殿は何用で参ったのだ?」
「はっ。我が主であられる呂将軍は、この地に逃げ込んだ劉備の引き渡しを望んでおります」
「引き渡しか。私が聞いた話では、呂布がいきなり攻め込んで来たと聞いてるが?」
「いえ、それは違います。私が聞いた話ではどうも張飛殿が呂将軍が買い付けた軍馬を奪った事に、呂将軍が激怒して攻撃したとの事です」
陳登の話は曹操が知っている話と同じであったが、曹操は今知ったような顔をする。
「何とっ⁉ 劉備から聞いている話とは違うではないかっ! これでは、どちらが真実なのか分からんな」
「はぁ、劉備殿が何と申したか分かりませんが、兎も角、我が主は劉備殿の引き渡しを望んでおります」
陳登は劉備の部下であったので、劉備を貶めるような事を言うのは忍びないのか、目的を言うだけであった。
「むぅ、これは劉備にも話を聞かねばならんな。誰か、劉備を連れて参れ」
曹操が部屋の外に居る兵に劉備を連れて来る様に命じた。
暫くすると、劉備は義弟達を伴いやって来た。
部屋に入るなり、劉備達は陳登の姿を見つけて驚いていたが、直ぐに平静になった。
「お呼びとの事で参りました」
「良く来てくれた。お主の話と、この使者の話がどうにも噛み合わないのでな、もう一度話を聞こうと思い呼んだのだ」
曹操が呼んだ理由を話すと、劉備の顔色が悪かった。
呂布が城を攻める原因を話さなかったからだ。
此処に至っては仕方がないと思ったのか、劉備は隠していた事を話しだした。
「……成程な。つまりは、呂布が攻撃して来たのは、何の理由も無いと言う訳ではなかったという事か」
話を聞き終えた曹操は唸りながら考え込んでいるフリをした。
フリをするのはもう既に、どうするのか決めているからだ。
「そういう事であれば、此処は劉備が軍馬の代金を補填し頭を下げれば、呂布も許してくれるのではないのか?」
曹操の言葉を聞いた劉備達は驚愕の表情を浮かべた。陳登も似たような顔をしていた。
「そんなこと、出来る訳が無いだろうっ!」
いち早く気を取り戻した張飛が叫んだ。
「そうは言うがな、張飛。お主が軍馬を奪ったから、攻撃されたのだぞ。此処は頭を下げて許しを乞うのが筋ではないか?」
怒っている張飛に言い聞かせるように言う曹操。
「それは、あいつが徐州を奪ったからだ。俺は少しだけ取り返しただけだっ‼」
「やれやれ」
まるで駄々をこねる子供だなと言いたげに首を振る曹操。
「劉備よ。お主はどうだ? 私の話を受けるか?」
「むぅ」
曹操がそう訊ねると、劉備は何も言えなかった。
「兄者っ、こんな話を受ける必要はねぇっ、此処に居る事が出来ないのなら、別の所に行こうぜっ!」
張飛は話を断ろうと言うが、関羽が抑えた。
「張飛っ、お前は黙っていろ!」
関羽の一喝で張飛は黙り込んだ。
「まさか、私に保護を求めて来て、私の提案を蹴るという事は無いであろうな?」
「……窮鳥入懐という言葉があります。曹操殿は助けを求めた私を見捨てるのですか?」
曹操が訊ねると、劉備は考えた末に切り返した。
この窮鳥入懐とは、窮鳥懐に入れるという言外に表した四字熟語だ。
余談だが、窮鳥 懐に入れば猟師も殺さずの猟師も殺さずは後になって付け加えられた言葉だ。
「確かにその通りだ。だがな」
曹操は張飛を見た。
「徐州を奪われたとはいえ、紀霊が攻め込んで来た時に呂布はお主等を助けてくれた恩人であろう。その恩義を仇にして返したのだぞ。私の下に置いておけば、何をしでかすか分からん。そんな者を置けば、家中が乱れるかも知れんからな」
曹操にそう言われた劉備は何も言えなかった。
「とは言え、保護を求めてきた者を見捨てては、私の沽券に係わる。だから此処は呂布と和解すべきであろう。私も和解の仲介をしてやろう」
「しかし」
「まさか、保護を求めた相手の提案を蹴るつもりは無かろうな?」
「……少し、考える時間を頂きたい」
「良かろう。使者殿。劉備が返事をするまでの間、ゆっくりと逗留されよ」
「は、はぁ」
曹操は陳登に都に居る様に言い、部屋から出て行った。
陳登も申し訳なさそうな顔をしつつ出て行った。
部屋に残された劉備達は暫くの間、その場に残っていた。
部屋に暫く残っていた劉備であったが、何時までも此処に居ては意味が無いと悟ったのか、用意されている部屋に戻って来た。
その部屋に戻った劉備はどうするか考えこんでいた。
「兄者。さっきの話を受けるつもりなのか?」
張飛がそう訊ねてきたので、劉備は考えるのを止めて張飛を見た。
「お前はどう思う?」
劉備の中では張飛がどう答えるのか分かっているのだが、敢えて尋ねた。
「そんなの決まっているだろう。呂布に頭を下げるくらいなら、この話を蹴った方が良い!」
張飛は当然とばかりに応えると、劉備は予想通りの答えに溜め息を吐いた。
「だがな、張飛よ。我等には行く宛てが無いのだぞ。ここは、誰であろうと頭を下げて居場所を作るのが良いと思わぬか?」
優しく言い聞かせるように話し掛ける劉備。
「ふんっ、別に俺達は曹操の部下でも何でもないんだ。曹操の話を蹴ったところで、何の問題も無いね。まして、呂布にまた頭を下げるなんて御免だ。それだったら、俺達の武を活かして、曹操以外の誰かの下で働いた方が良いに決まっているぜ」
張飛はそんな事は出来ないとばかりに言いだした。
それを聞いた劉備は溜め息を吐いた。
其処に今まで黙っていた関羽が徐に近付く。
「……この馬鹿者がああああぁぁぁっ‼」
怒鳴ると同時に関羽は拳を繰り出した。
繰り出された拳は張飛の顔に直撃し、仰向けに倒れた。
倒れる際、近くにあった卓などを引っ掛けてひっくり返った。
「な、なにをする。あにき」
突然殴られた張飛は唇が切れたのか、少し赤い血を流しながら動揺していた。
そんな張飛の胸倉を掴む関羽。
「良いか、良く聞けっ。兄者がこれほど悩んでいるのは、お前が原因でもあるんだぞ⁉」
「そ、それは……」
尊敬する義兄にそうなじられた張飛は言葉を詰まらせた。
「あれは、兄者との約束を破って酒を飲んだのは、敵の謀略で」
「酒の件ではない。私が言っているのは、呂布の軍馬を盗んだ件だ!」
関羽は胸倉を揺すりながら怒鳴る。
「兄者が、屈辱に耐えて呂布の下に居たのは、いつかその座に返り咲く為だ。それだと言うのに、お前は自分勝手な気持ちで軍馬を盗み、相手を怒らせるとは、お前は耐えるという事を知らんのか‼」
関羽が怒鳴ると、張飛は自分の胸倉を掴んでいる関羽の手を振り払った。
「だからと言って、曹操の申し出を受けて、呂布にまた頭を下げると言うのかよ!」
「まだ分からんのか、お前はっ。曹操がこの申し出を蹴った場合、我等をどうするか分からんのか!」
関羽がそう言うと、張飛はその言葉の意味が分からないのか首を傾げた。
「そんなの、別に何もしないと思うが……」
「馬鹿者がっ、曹操がそこまで甘い男だと思っているのか? 我等がこの話を蹴った時は、我等を処刑するか捕まえて呂布の下に差し出すかも知れんのだぞ!」
「なぁっ⁉」
関羽の説明を聞いて、張飛は目を見開いた。
「仮に我等が逃げられたとしても、我等に行く宛があると思うのか? 呂布の軍馬を盗んで敗れて逃げ出し、曹操が申し出た和解の話を蹴り逃げ出した我等を誰が受け入れる?」
関羽の言う通り、劉備達の行動は第三者から見たら、人が買った軍馬を盗んで怒らせて攻撃を受けて逃げだし、善意で和解する申し出を蹴るという事になる。
張飛にも曹操にも事情があるのだが、知らない人から見れば、劉備達の事が危険な人物と見られてもおかしくなかった。
「そ、それは…………」
関羽に指摘され張飛は何も言えなかった。
「いい加減、一軍の将としての自覚を持てっ!!何時までも義勇軍の時と同じだと考えるでない‼」
関羽は肩で息をしながら、呼吸を整えた。
「関羽よ。義弟よ。もう、それぐらいで良いだろう」
「兄者」
まだ怒っている関羽を劉備が宥めた。
「お前の言いたい事は分かる。だが、張飛を其処まで責めるな。張飛をきちんと見ていなかった、我等にも責任があるのだぞ」
「確かにその通りです。ですが、徐州を奪われた時は敵の謀略があったとは言え、こいつは兄者との約束を破り酒を飲んだのですぞ。その所為で盧植先生が亡くなりました。それで反省するかと思えば、今度は勝手に軍馬を盗みだしたのですぞっ。此奴には地を這い蹲ってでも、恥辱を晴らすという気概に欠けています!」
劉備が自分達にも責任はあると言うと、関羽はその通りだが、張飛にも問題があると告げた。
「その通りではある。だが、我等は義にて結ばれた兄弟であろう。駄目なところは補い合うのが、兄弟の役目とは思わぬか?」
劉備は張飛の欠点も自分達で補えば良いと言う。
それを聞いた関羽は溜め息を吐いた。
「兄者は、張飛に甘すぎます」
関羽はそれだけ言って黙り込むと、劉備は笑った。
そして、劉備は張飛に近寄る。
「張飛よ、関羽がお主を此処まで叱るのは、お主を見込んでの事だ。今後から軽挙妄動を慎むのだぞ」
「あ、あにじゃあああぁぁぁ!!」
劉備にそう励まされた張飛は目に涙を浮かべて泣き出した。
張飛が泣き止むと、劉備は曹操の申し出を受けると言うと、二人は反対しなかった。
部屋の近くでは、劉備達の話に聞き耳を立てていた者が聞くべき事を聞いたと思いその場を後にした。
その聞き耳を立てていた者は曹昂に報告していた。
「そうか。劉備は申し出を受け入れるか」
話を聞いた曹昂はやはり受けるかと思いながら頷いた。
「じゃあ、この事は父上にも報告してくれるかな」
「はっ」
その者は一礼すると、その場を離れて行った。
「劉備が申し出を受けた事に驚かないのですね」
偶々、話を聞いていた劉巴は意外そうに訊ねてきた。
「劉備もあれで、父上が一目置く英雄だからね。例え、屈辱に塗れても、恥を雪ぐ事はすると思うよ」
「そうですか。わたしからしたら、部下の一人も御せない者を其処まで評価するのは些か過大評価だと思いますが」
劉巴が鼻を鳴らしながらそう言うのを聞いた曹昂は話に出た部下とは誰なのか考えた。
「……その部下って、張飛の事かな?」
「その通りです。如何に優れた武勇を持っていたところで、それを活かす知恵が無ければ宝の持ち腐れです。所詮は兵隊上がりの庶民ですから、仕方がない事でしょうな」
張飛を酷評する劉巴に曹昂は苦笑いを浮かべた。
(そう言えば、史実でも劉巴は張飛の事を嫌っていたって聞いた事があるな)
劉巴らしいなと思う曹昂。
翌日。
劉備は曹操の申し出を受ける旨を伝えた。
曹操は喜びつつ、陳登にその話を伝えると、陳登は一度徐州に戻った。
数日程すると、許昌へ戻って来た陳登は曹操に告げた。
「劉備が軍馬の代金を補填してくれると言うのであれば、今回の事は水に流すとの事です」
「そうか。これで私の顔も立つというものだな」
曹操はそう答えるが、陳宮の入れ知恵だなと思っていた。
和解に応じてくれたという理由で、曹操は朝廷に呂布を徐州州牧へ推挙した。
その推挙は直ぐに通り、朝廷からの使者が送られた。
その使者の供には劉備達も加わっていた。
季節は雪が降り、風は身を切るように冷たかった。
その風に身を晒す劉備達は寒さよりも悔しさで身を震わせていた。
数日後。
呂布の下に朝廷からの使者がやって来た。
使者は詔を読み上げ、呂布に徐州州牧の地位を授ける事を告げた。
呂布は喜びつつその詔を拝命した。
そして、呂布は使者を宴の席に招いた。
その席に劉備達の席は無かった。
後日。
劉備達は呂布に呼び出された。
劉備は自分達がした事を平伏し謝ると、呂布はそれを聞き入れ、軍馬の代金を補填する様に告げた。
劉備は仰せに従うと告げると、呂布は州牧の地位に就いた事を活かして、劉備に東海郡郯県の県令に任命した。
以前は東成県であったのに、今度は郯県に駐屯する事になった理由が分からなかった劉備。
その理由は赴任して直ぐに分かった。
琅邪国の太守をしている臧覇の備えとして派遣されたのだと。
それに関しては問題は無かったが、赴任される県が問題であった。
東海郡郯県。
其処は曹昂軍の徐州征伐の折り、陥落した県であった。
その県を守っていたのは劉備であった。
親類知人友人を殺された者達が多く住んでいた。
加えて、劉備がこの県に赴任する理由も噂で知ったのか、赴任して来た劉備達を住民達は侮蔑と嘲笑で出迎えた。