46話 眼鏡と桜ちゃんと私・前編
やぁ学生の諸君、姉だ。
夏休み真っ盛りということで、みんな引きこもりライフを満喫しているか?
海なんか行ってないよな。山なんか行ってないよな。バーベキューなんかしてないよな。旅行なんか行ってないよな。恋人とイチャイチャなんかしてないよな。
ていうか、外なんか出てないよな?
この暑い中外に出るなど、それこそ修行僧のやることだ。トチ狂っているとしか言いようがない。
さて、ここでお姉さんから一つ確認しておこう。
夏と言えば?
そうだね、エロゲーだね。
「んなわけねーだろ馬鹿姉」
後ろを振り返ると、弟が呆れかえったような目で私を見下ろしていた。
私は心の中で自分の意見を述べたはずだったが、弟のツッコミは遂に私のイマジネーションにまで入ってこれるまでになったのか。
流石は私の弟、腕を上げたな。
私は弟の成長をささやかに喜びつつ、テーブルに置かれたPCに視線を戻した。
画面には真っピンクでウッフンな世界が広がっている。
「姉よ、ここのところ毎日朝からエロゲーばかりやってるな。自分の生活を顧みて悲しくなってこないか」
「朝だけではないぞ弟よ。昼もやるし夜もやる。どころか丑三つ時でも私のPCは耐えず唸りを上げ続けるぞ」
「じゃあいつ寝てんだよお前。それにリビングのPCは俺のだからな。何勝手にお前のものにしてんだ」
「いーじゃんどうせあんまり使ってないんだし。おっ、ようやくエロシーンきた」
弟のため息を聞きながら、私は画面へ食い入るように顔を近づけた。
「姉よ、もう少し顔を離したらどうだ。目悪くするぞ」
「いやもうちょっと、もうちょっとなんだ」
「何がだ」
「もうちょっとでモザイクが透けて見える気がする」
「お前は初めてエロビデオを鑑賞する盛りのついた男子中学生か! いいから離れろ、今の姉の姿マジでキモいから。ガチでキモオタ臭いから。きちっと姿勢良く座れ」
弟が私の肩を引っ張って画面から引き剥がしてくる。
「あーんもうやめろよ弟。あんまり離れると文字が読めないだろ!」
「ほら、PCに向かうときも背筋をピンとするよう心がけろ。いつか猫背になるぞ。それにこの姿勢でもちゃんと読めるだろ?」
「お前のしつけ具合は亡き母を思い出す。うーん、文字が小さすぎてはっきり見えないんだよなぁ。ちょっと画面に近づかないとさ」
「……そうか?」
弟が私の横まで顔を持ってきて画面を覗き込んでくる。
「普通に読めるんだが」
「嘘だ。じゃあこのテキスト読んでみろ弟」
「えーっと……ヒロキのデザートイーグルは激しく屹立し、銃口から白濁したレーザービームを何度も何度も射出させたのだ……って何読ませてくれてんだ糞姉えええ!」
「あれ……本当にこの距離でも読めるんだな」
「お、おい、どうでもいいけどスルーだけは止めてくれないか姉よ」
「ツッコミは私の管轄外だ。にしても弟は目がいいんだな。アフリカで狩りでもやってたのか?」
「……これくらい普通だろ。ていうか見えない姉の方がおかしいんじゃないか」
弟はそう言ってゆっくりと後ろに退がっていった。弟はリビングを出て廊下に立ち、私の目には弟の顔が若干ぼやけて映る。
距離にして7mほどだろうか。
「姉よ、これは何本だ?」
弟が右手を少しあげて言う。右手に立てた指は何本か、という意味だろう。
「……8本くらい?」
「俺は突然変異で生まれた異形の生命体か。指が8本もあったら恐ろしいだろうが。正解は4本だ」
「いや、ぼやけ過ぎて指が増えて見えるんだ」
「……ふむ」
弟がまた私の傍まで寄ってくる。そして私の肩をぽんと叩く。
「眼鏡買いに行くぞ姉よ」
「誰の?」
「姉の」
「はぁ?」
何故いきなり私が眼鏡など買わなければならないのだろう。
それに、買いに行くということは私が外に出るということではないか。意味が分からん、どうして私がそんなことをしなければならんのだ。
ははぁ、なるほど。つまり弟は極度の眼鏡フェチだったというわけだな。それで無理してまで私に眼鏡をかけさせようと、そういうわけか。
全く見え透いた男だ、弟というやつは。
「分かった分かった、姉の威光を保つため、弟のふしだらな要望に応えてやるとするか。しかしあれだな、眼鏡なら伊達で充分だろう。伊達眼鏡なら弟だけでも買いにいけるし、それにわざわざ度を入れたら逆に目を悪くしてしまうからな」
「既に悪いんだよ姉は」
「何が?」
「だから目が!」
「それは私に物を見る目がないと言いたいのか? ふざけ倒せよ弟。やりもしないでこのエロゲーを知ったつもりかこの野郎。このエロゲーの魅力は何と言っても日常シーンであるからして決して濡れ場には――」
「あぁ面倒臭い。ほらさっさと行くぞ」
弟が私の腕を掴んで無理矢理引っ張ってきた。
「い、痛い痛い、何だよ! また変な言い訳つけて私を外に連れ出すつもりだろう! そんな小細工に私がだまされるか!」
「諦めろ姉よ、諦めろ」
私たちが押し問答をしていると、ふいに玄関のチャイムが鳴った。続けて「お邪魔しまーす!」という声が聞こえてくる。桜ちゃんの声だ。
弟が「どうぞー」と促すと、桜ちゃんの駆けてくる音がしてくる。
桜ちゃんはリビングに入ってきた途端、掴みあう私たちを見て動きを止めた。
「……また喧嘩してたの?」
「いや大丈夫、ちょっと姉がワガママ言って困ってただけだよ」
私たちの喧嘩を止めようと身構える桜ちゃんに弟が笑顔で返す。
「違うんだ聞いてくれ桜ちゃん。この弟、実は眼鏡フェチでな、無理矢理私に眼鏡をかけさせようとするんだ。しかもついでに外に出してやろうと、そういう魂胆なわけだよ」
「おいこら、どっから眼鏡フェチとかいう言葉が出てきた姉よ。桜ちゃん、姉のやつ目が悪いくせに眼鏡買うために外なんか出られるかとワガママを言うんだ。桜ちゃんからも何とか言ってくれ」
桜ちゃんは小首を傾げて私を見る。
「おねーさんも眼鏡買いにいくの?」
「おねーさんもって、桜ちゃんも?」弟はキョトンとした顔で言う。
「そうだよ。一学期の終わりに視力検査があってね、あたしちょっと視力落ちてたの。それで授業中はかけなきゃダメだねーってお母さんが」
「今日買いに行くの? もしかして一人で」
「ううん。お父さんもお母さんも忙しいからお爺ちゃんと一緒に行こうと思ったんだけどね、お爺ちゃん今風邪引いてるから無理なの。でもお爺ちゃん、『隣のネーチャンなら年中暇だから連れてってもらえ』って」
「なるほど」
弟はうんうんと頷き、それから私の方を振り返る。
「分かったな、年中暇な隣のネーチャン?」
「……久々に弟うぜえ。ていうか戸部爺さんが一番うぜえ。ていうか連れて行くなら弟でもいいだろ」
「残念ながら俺は姉のように暇じゃないからな」
「いや、でも今日は暇だろ」
「夕方に彼女と会う予定がある。ていうかこれから作る」
「リア充うっぜええええ!! ていうか何この展開! すごいデジャブなんだけど!」
「黙って行ってこい姉よ。眼鏡屋ならここから歩いて10分もかからんから」
「い、嫌だ嫌だ! 絶対嫌だ! 嫌いやイヤッホオオオイ!」
「最後超喜んでるように聞こえるぞ姉よ。おい、ちょっと耳貸せ」
弟がそっと私に耳打ちしてくる。
「……エロゲのモザイクが消える眼鏡がつい最近発売されたって知ってるか?」
……ん?
弟が爽やかに笑い、「いい情報掴んだな姉よ」と親指を立てて言った。
私も満面の笑みを浮かべながら「ナイスだ弟」と親指を立てた。
「いくぞ桜ちゃん!」
「おー!」と元気に右手を上げる桜ちゃん。
私は桜ちゃんの手を引いて意気揚々と玄関へ向かっていった。
弟が何故か笑いを堪えるような顔で見送ってくれたが、今の私にとっては道端に転がる石ころ程度にどうでもいいことだった。
後編に続く。