40話 第六回・姉と弟の茶飲み話
皆さんは「B級グルメ」という言葉をご存じでしょうか。
一般的にB級グルメとは、決して贅沢ではなく、早くて安い、かつ手を抜かれた料理のことを指します。美味しいんだけど何かが物足りない、何か違和感が残る、そんなグルメを指す場合もあります。
家庭でしばしば見られるB級グルメといえば、卵かけご飯、マヨネーズご飯、お茶漬け、ねこまんま、即席麺類、等々いろいろありますね。……まぁ、もはや料理と呼べるのかすら怪しいメニューばかりなのですが。
どうも弟です。
家計簿と睨みあいながら、どうして我が家はこんなにも貯金がないのだろう、どうして毎月生活が苦しくなるのだろう、そんな風に頭を悩ませていて、ふと気付きました。
貯金が貯まらない原因は、ずばり食費です。
鬱蔵の暴飲暴食には目を瞑るとして、何故か我が家の食卓は毎晩身の丈に合わない、ちょっと高めの食材を使ったお洒落料理ばかりが出てきます。
言うまでもなく俺の料理好きが引き起こした結果なのですが、これは一度自分を戒める必要がありそうです。
今日のお茶はほうじ茶なのですが、今回はいつものような湯飲みではありません。
先程煎れたほうじ茶は現在、俺特製手作りお茶漬けの一部となっています。
どうして夕飯がお茶漬けなんだ、とさっきから姉の刺さるような視線を感じますが、これからは姉にも協力してもらわなければなりません。
これからは本気で貯金貯めていくぞ、と決意を新たにする俺でした。
――午後七時四十分。
姉はお茶漬けを咀嚼し、飲み込んで息を吐きます。
「始めは『夕食にお茶漬けかよ』とは思ったが、いやはや、美味ければ文句も出なくなるな、弟よ」
「だろう。詰まるところ、手を掛けていない料理でも美味ければそれでいいんだよ。そんな簡単なことにも俺は今まで気付かなかったんだ。全く、家計にも頭を抱えてしまうわけだよ」
「うむうむ。あ、おかわりくれるか」
姉は深く頷き、それから茶碗を差し出してきました。俺は姉の茶碗を受け取ってキッチンへ向かい、また一膳お茶漬けをよそってからリビングに戻りました。
「あぁ、すまんな弟よ。いやぁ、弟の手作り茶漬けの腕前も中々のものだが、このほうじ茶も一役買っているな。やはりお茶漬けにはほうじ茶だ」
俺は「確かにな」と頷きます。
姉はじっとお茶漬けをじっと見つめ、ふと言いました。
「なぁ弟よ。よくさ、『きのこの山とたけのこの里はどっちが美味しいか?』とか『目玉焼きには醤油か塩だろ。ソースかけるやつなんてありえない、日本人じゃない』とか喚いたり喧嘩したりするやつらがいるだろう」
「あぁ、たまに見かけるな」
「あの言い争いほど不毛なものはないと思わないか? 冷静に見てみれば『まぁ、人それぞれだよね』の一言で済む話だよな。人の好みにケチつけるなんてことがそもそもおこがましい話だし、それにこんな言い争いをしているところを他国の人間に見られたらどうなんだろうな。平和ボケしてる、日本人はどうでもいいことを気にするんだなぁ、ちっちゃいなぁ、みたいな風に思われるかもしれないんだぞ。それこそ日本人のアホさ加減を露呈していると思わないか弟よ」
「久々にまともなことを言うんだな姉よ。どんな小さなことでも議論できる、それが日本人のいいところであるし、悪いところでもあるんだよな。しかし例えばだよ姉。日本人が欧米人のようにおおらかで大雑把な国民性だとしたら、日本の繊細でそつのない技術作りはここまで発展しなかったんじゃないか?」
「うむ、そう言われてしまうと私も一概には日本人の気性を否定できないな。ま、私からすれば相手の好みをいちいち気にするなど詮も無いことなんだがな」
姉は言い切るように口を閉じ、それから俺たちはお茶漬けを静かに食べ始めました。
ぽつりと、俺はこんなことを言います。
「……ほうじ茶もいいが、俺はお茶漬けには玄米茶の方が好きだな」
「ちょっと待て、今何か言ったか弟よ。ほうじ茶もいいがお茶漬けには……なんだって?」
「ん? いやただ、お茶漬けにはほうじ茶より玄米茶を入れるほうが俺は好きだなぁと」
「はぁ? お前もついにヤキが回ったか弟よ。お茶漬けにはほうじ茶だろうが。お前味見のし過ぎで舌が狂ってるんじゃないのか? よーし、そんなに玄米茶がいいなら比べてみようじゃないか。おい、ちょっと玄米茶持ってこい弟よ。お前のそのやわっちょろい鼻をへし折ってやる。お茶漬けには絶対! ほうじ茶だ!」
「……たまに姉が二重人格ではないかと思えて仕方ない」
――八時二十一分。
お茶漬けも食べ終え、姉と二人で湯飲みに入れたほうじ茶を飲みながらテレビを見ております。
テレビでは、独身女性の結婚観念についての議論が行われていました。30代の女性たちがあぁでもないこうでもないと意見を交わしています。
俺は彼女らの議論を少し憂鬱な気分で眺めていました。
「なぁ姉よ。こういう世代の女性たちを見ていつも思うのだが、どうして女という生き物はこう、極度に現実的な考え方をしているんだろうな」
「何だ、現実的といえば弟の方じゃないか。お前らしくもないことを言うんだな」
「いやそうなんだけどな、例えばあれを見てみろ」
俺はテレビを指しました。
画面に映っているHさんは『せめて夫の年収は500万以上はないと話になりませんよね。あと貯金は1000万くらいあればもう文句はありませんよ。やっぱりやる気っていうのかな、プロポーズするならそれくらいの頼もしさを見せてほしいですよねぇ』と意見を述べています。
それに対してMさんはうんうんと頷き、『プロポーズのときに1000万の通帳をどーんと見せられたら惚れちゃわない? 他がどんなによくっても、やっぱり最後はお金なのよね。いくらカッコ良くて優しくても、フリーターじゃちょっと苦笑いしちゃう。夢なら一人で追いかけてね、はいさようならーって感じ』と返し、スタジオ内に笑いが巻き起こっていました。
姉は湯飲みを置き、なんともいえない表情を浮かべています。
「こ、こいつら金の話しかしてないぞ弟よ。通帳見せながらプロポーズとかどんだけロマンないんだよ」
「だろう。年収350万の俺はもう憂鬱で仕方ない」
「女は30を超えると嫌でも現実的になるんだ。仕方ないといえば仕方ないし、お金はやはり大事なのだが」
画面上の女性たちには『年収400万以下の男性をどう思いますか?』という質問が提示され、微妙な空気が番組内を包んでいます。
Hさんは『……安心して寿退社できないじゃないですか』と苦笑い。
俺はがっくりと肩を落としました。
「……さすがにこれは酷い」と姉は少し引いています。
「姉よ、自らは寿退社して収入の全てを夫に任せようとしているのに、それでも現実的という言葉は当てはまるのか?」
「弟よ、これはもはや男からたかる気まんまんだな。でもある意味現実的なのか。これは自分がまだ選ぶ立場にあると勘違いしているイタい30代女のいい例だ。そろそろ賞味期限切れが迫っているというのに」
「はぁ……」
「気に病むな弟よ。ラブプラスやるか? 今のお前ならこのゲームが売れる理由が分かるはずだ」
「それだけは遠慮しとく……」
「何でだよ弟。働かないくせにぶーぶー言う女よりこっちの方がよっぽどマシだ。自分で年収500万稼げたら言えよって思うぞ私も。ほらほら、いいからやれよラブプラス。自分は働かないくせに飯にありつこうとする現実の女など最低最悪の極みなんだからさ、ほらほら」
言いながらひたすらDSを押しつけてくる姉。俺がそれを押しのけ続けていると、やがて姉は諦めたようにDSで遊び始めました。
テレビの女性たちに比べ、非現実の世界に走り過ぎている姉。どちらも極端過ぎると困りものですね。
俺はほうじ茶を啜り、一息。
「……って働かないくせにとかお前が言うな馬鹿姉!」
「チッ……このまま突っ込まれないで終わると思ったのに」
――八時五十九分。
「浴衣といえば野外プレイだよな弟よ」
「姉よ、しょっぱなからこんなことを言うのも何だが、話題を変えようか」
「何故だ。私、何か的外れなこと言ってるか。浴衣といえば野外プレイだろうが。待て待て、まさか弟は浴衣で屋内プレイを想像できるのか? 全くけしからんやつだな。いいか、コスチュームプレイにも適材適所というものがあってだな――」
「語らなくていいから! 頼むからそれ以上語るな! いいか姉よ、そもそもお前の繰り出す話題はことごとくデッドボールコースに直行してるからな。俺がホイホイその話題に乗っていったら文字にモザイクをかけざるを得なくなるんだよ」
「浴衣で野外プレイという風流にモザイクをかけるなど日本人にあるまじき行為だな」
「お前は風流という言葉を辞書で引いて内容を暗記した上で使おうな。そもそも浴衣でそんな単語が出てくる時点でどうかしてるぞ姉は。飢えてるんじゃないのか」
「女性に飢えてるんじゃないかとは、それはセクハラだぞ弟よ」
「……お前にだけは言われたくない台詞だ」
「私も夏らしい話題を出そうと思ってのことだったのに。弟にこうして出鼻をくじかれると私はもうどうしたらいいか分からんぞ」
「夏らしい話題で浴衣ならもっと言いようってもんがあるだろう。例えば、浴衣って着付けが大変だよな、とかさ」
「ん、あぁ確かにな。ははは、脱がすのは断然楽なのにな、変な話だよ」
「ちょっと待て、また話の方向性が戻ってきそうだ。浴衣はもうやめよう。そうだ、夏といえば海だよな。姉は暑い時期に海で泳ぎたい願望を抱いたりしないのか?」
「そうだな、この歳になってもスク水は着たいと思うものだからな。その延長で泳ぐのもいいだろう。そうそうスク水といえば――」
「待て待て、やっぱり海の話題も駄目だ、変えよう。あぁ、夏といえば甲子園だよな。どうだ姉よ、高校野球には興味あるか?」
「いや全く。どちらかと言えば高校球児よりチアガールに目が行くな。そういえばチアガールって日本じゃあまり需要ないよな。私は結構好きだが、弟はどう思う?」
「どうも思わん。よし次の話題だ。えーと……あ、そうだ。夏といえばGや蚊などの虫が増えてくる嫌な季節だよな」
「そうだな。そんな弟におすすめしたいのがこの一冊。ミギナナメ45°から出展の『ごきぶりくん』だ。これは虫擬人化ジャンルのBL本でな。Gを擬人化して見ると、普段のGの行動も可愛く見えてしまうという秀逸作だ。これで私たちのG嫌いも解消されること間違いなし!」
「……もう駄目だこの姉」
――午後九時十四分。
「弟よ、シュレディンガーの猫を知っているか」
「シュレディンガーの猫?」
「うむ、まずここに箱があったとして、中には生きた猫、放射性原子核、そして放射性原子核の分裂を感知した場合のみ放出される毒ガスの装置が入っているとする」
「核分裂した場合の放射線が箱の外に出てこないかが心配だな。というかその猫が可哀想な気もする」
「いや、そういう話は抜きにしようじゃないか弟よ。これは中の原子が核分裂すれば毒ガスが放出されて猫は死ぬ、逆に分裂しなければ猫は生きたまま、という仮想実験だ。この猫の生死については、大昔に人気を博した解釈があってな、箱の中には死んだ猫と生きた猫が同時に存在しているというものなんだが」
「箱の中に生きた猫と死んだ猫が同時に存在……ちょっと分かりにくいぞ姉よ」
「今の人間からしてみればかなりSF的な考え方なんだよ。大昔の論文では生きた猫の世界、死んだ猫の世界とが同じ箱の中に並行的に存在していると解いたらしい。その猫の生死は誰かが箱の中を観測し、その瞬間に結果が収束するのだという風に。つまり誰かが箱の中を覗いたその時点で猫の生死が決定するという解釈だ。ま、非現実的な考え方だから真面目になることもないんだけどな」
「はぁ、なるほど、箱を開けてみる前の状態を論じているわけだな。その解釈だと、箱を開けるまでは異なる二つの可能性が重なり合って存在いるということか。普通に考えると、猫は生きているか死んでいるか、その2分の1の確率だと思うけどな」
「ま、あくまで大昔の解釈だからな。弟が今言った確率解釈こそが正統的な理解のようだが」
「それより姉よ、お前量子力学に興味があったんだな。どうだ、その方面で勉強して進路を決めてみるのは。今からでも遅くないと思うぞ」
「いや全然、勘違いしないでくれ弟よ。ただな、私もシュレディンガーの猫を知って、独自にシュレディンガーの○○を思いついたんだ」
「……この流れはもはや何番煎じなのだろうか」
「題してシュレディンガーの引きこもり」
「もっとひねったネーミングはなかったのか姉よ」
「まずある部屋の中に一人の引きこもり、求人情報誌、そして首吊りのロープがあるとする。引きこもりは部屋に入る前に親から『いい加減働かないなら死にさらせ!』と言われている設定だ」
「ちょうど俺もその親と同じ台詞を姉に言おうと思っていたな」
「部屋の中には働くため意志を燃やす引きこもり、首を吊ってぶらんぶらん揺れている引きこもりが並列存在しているわけだ。観測した瞬間、そのどちらかの結果になるわけだが、親は後者を恐れていつまで経っても部屋を開けられない。自分のあらぬ一言で引きこもりが死んでしまうなら、いっそこのまま開けずに結果を見なければいいんじゃないのか、とね。どうだ弟よ。この方法で私も部屋に引きこもれば弟も恐ろしくなって私の部屋を開けられず、さらに働けとガミガミ言ってこなくなるのではないか?」
「俺ならそんなもん関係なくドアを蹴り破るけどな」
「オゥ……バイオレンス」
――午後十時。
姉が三十分ほど前からキッチンでなにやら作業をしていて、やがて満足げな顔で茶碗を二人分運んできました。茶碗の中を覗き込んだ俺は、思わず顔を背けました。
「弟よ、鮭茶漬けに対抗して私が新しいお茶漬けを考えたぞ」
「姉よ、こ、これは……」
「名付けて、リアルけろっぴちゃん茶漬け」
「うっ……色んな意味でB級だな姉よ」
姉が最近、おかしな方向で料理にハマっています。時折、俺の意図しないところでB級グルメが食卓に出てくるのです。
「よし、食べるか弟よ」
「食えるか!」