西へ-1
逃避行の朝は早い。
寝ぼけ眼を擦りながら、海良は馬の背で揺られていた。
朝、太陽が昇るや否やクレイは海良を叩き起こして身支度をさせ、すぐに馬へと飛び乗った。海良がぐずぐずとしているうちに、野営の痕跡すら消してしまう有能さ。そして柔和な笑みを浮かべて
「俺たちの当面の目標は、西に進路を取ってファング王国を脱出することです。」
と言った。
彼の言いたいことはこうである。
北の教会が言った「異邦人=災厄説」は、ファング王国の人々の心に暗く影を落とした。彼らは皆不安から、異邦人という存在を嫌がり、見つけ次第に北へと引き渡そうとするだろう。だから、海良は周りに異邦人と知られるわけにはいかない。
北の教会は言わずもがな、南の王国もきな臭いし、東の塔ではおそらく昨日の連中が張っているだろうから、とにかく西に進路を取って王国を出てしまい、その先で一旦腰を落ち着けようという事らしい。街道を堂々と馬で走れば、そんなに時間はかからないという。案外大胆なんだな、と少し感心した。
クレイは言う。
「西に俺の仲間が待っています。とにかくそこまで行けば、真は安全だ。」
「準備いいな。仲間って、騎士団の人?」
「ええ、そんなところです。」
その言葉を聞いて、海良は安心して彼に背中を預ける。クレイの仲間というのは、なんだかとても頼りがいがある気がした。
そうして街道を西へと進路を取りながら、海良はふと思った。
「なあ、西には何があるんだ?」
「何、とは?」
「北、南、東ときて西には何もないなんて変な話だろ。」
「そう…ですかね…?俺が知っている限りでは、別に特別な物はないな。西には森があって、それを抜けるとさびれた古城が一つある。」
「それで?その古城は何か、いわくはないの?」
「特には…。確か、誰か貴族が住んでいたんだけれど、東の塔が獣人に襲われた時に逃げ出したと聞く。それ以来無人で、誰も移り住んでいないとか。」
「へぇ…。」
無人の古城。そう聞くと雰囲気満点なのだが、こちらの人にとっては特に興味を惹く物でもないらしい。
「案外あっけらかんとしてるな。こっちには幽霊っていないの?」
柔和な笑みが、キュッと凍ったように見えた。穏和に和らいでいたはずの瞳が、揺れる前髪に隠れてよく見えない。俄かに不安に襲われた海良が、そっとしたからクレイの目を見ようと覗き込む。そんな海良に、クレイが視線を落とした時には、先ほどの違和感はすっかりと消えていて、優しげで誠実な一人の騎士がいるだけだった。
「死者の有り方についての意見は様々ありますが、俺は幽霊を信じません。魂は天に還り、そうしてまた地に産まれ落ちるものだと、そう思います。」
「輪廻転生ってこと?」
「あなた方はそう表現するんですね。そう、巡って再び生まれる。死してなお魂がそこに残るなんて、俺は信じません。ましてや、その場で消滅するなんて更におぞましい。」
「なるほど、だからクレイさんは幽霊否定派か。案外ロマンチストなんだな。」
「先ほどからずっと思ってたんですが…。」
眉をハの字に下げて、今度はクレイが海良の瞳を覗き込む。後ろから囲われるように顔を近づけられて、海良は思わず目をこぼれんばかりに見開いた。
「俺の事はクレイでいいです。これから共に旅をするのに、他人行儀じゃないか。」
「でも、俺より随分と年上だろ?」
「構いません。些細なことです。」
「じゃあさ、クレイもその中途半端な敬語やめろよ。ちょっとくすぐったい。それに、俺がクレイにため口なのに、クレイが俺に敬語使ってたら変じゃん。目立つよ、絶対。」
「そう…かな。じゃあ。」
クレイはにっこりと微笑むと、ご機嫌で「真、そろそろ街だ。そこで少し休憩しようか。」と言った。
その声があまりにも優しくて、そして幸せそうで、海良は思わずクレイから顔を背ける。
そんな風に呼ばれたら、まともに顔を合わせていられない。恥ずかしすぎる。
どうしてこんな上等な男が、しかも昨日会ったばかりなのに、俺の事を守ってくれて、その上好き
だなんて言ってくるのか、本当に意味が分からない。意味が分からないレベルで言えば、異世界に来てしまった事よりも難解だ。
辿り着いた町は、小さな宿場町のようだった。街道を覆っていた木々がさっぱりと切られ整備した場所に、点々と建物が見え始め、気が付けば進む度にその数は増えていき、そうしていくうちに立派な街並みとなり、海良はその中心部まで足を踏み入れていた。
クレイがロゼアを止め、地面に足を着ける。そうして、海良の方を向いて手を差し出した。悔しいが、今はまだクレイに頼るしか海良にはロゼアから降りる手段がない。苦い顔をしながら自分の言うとおりにする海良を見て、クレイは珍しく声を上げて笑った。
「何がおかしいんだよ。」
「いや、ごめんごめん。納得したら不本意でも従ってくれるんだなと思ったら、可愛くて。」
「ちょっ、こんな往来で可愛いとかやめろよ!俺、傍から見たらただの男子高校生なんだから!」
「照れない照れない。さ、せっかくだからここでお昼ご飯にしよう。ここを出たら、次の宿場町まで何もないからね。何かリクエストはある?」
クレイの言葉に、海良はしばし考える。が、良く考えてみたら自分はこの世界の食事について何も知らないので、リクエストのしようもないことに思い当たった。そのことを素直に伝えてみると、クレイは慣れた様子で「じゃあ、ちょっと俺に任せてくれるかな。」と言い残すと、ロゼアと海良を置いてどこかへと駆けて行った。
突然一人にされ、海良は思わずポカンと空を見上げる。
えっ、俺、傭兵団に追いかけられてんのに一人にされて大丈夫なの?
右を見る。立ち並ぶ商店に人々が集まり、賑やかに言葉を交わして笑いあっている。
左を見る。広場のような場所で子供たちが駆け回り、周囲の大人たちは彼らを微笑ましく眺めている。
異世界にきたと聞いて構えていたが、自分が知っている日常風景とそう変わらない様子に、海良はほっと息を吐いた。人々の姿は特筆して海良と違うところはなかったし、自分はここの人たちと少しばかり顔立ちが違うかもしれないが、これといって目立つほどでもない。あの召喚された際に、実際に海良を目にした者さえいなければ、他者から一目で自分が「異邦人」と認められる可能性は無いように思えた。だからきっと、クレイもここを離れたのだろう。
少し安心してロゼアをポンポンと叩くと、ロゼアもご機嫌そうに尻尾を揺らして応えた。
見上げれば、空は広く澄み渡っていて、輝く太陽は街を明るく照らしている。石畳を荷馬車の車輪が叩き、あちらこちらから笑い声が響く。遠くで鳥が鳴いている声がした。
昨日のことが嘘のように平和な風景。そして海良は気付く。自分はこちらに来てから初めて、この世界の様子をしっかりと眺めているのだと。なんだか不思議な気分で、そっと目の前に吹く風に手を伸ばしてみるが、少し冷たい微風と、柔らかな日差しの感触がするだけで、それは別段なんの変哲もないように思えた。
「おい、異邦人が東に降りたらしい!」
広場の真ん中で、一人の男が叫んだ。その途端、嫌なざわめきが波のように周囲に広がった。先ほどまで笑いあっていた人たちがピタリと口を閉じ、彼らの異変に気付いた子供たちが不安そうに立ち止まっていた。