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王城-4

 ファング王国の王都〈セボリー〉は、三方をすっぽりと連峰に囲まれた平地にあった。大地に巨大な水風船を押し付けて出来たような摺鉢状の底に、煉瓦色の街並みが放射線に広がる。放射線の中心になるのは、王国民たちに深く愛されている王国随一の名所〈大噴水の広場〉だ。代名詞にもなった大噴水は魔法駆動で、王都民たちの誇りと愛着を一身にあつめており、それになによりも、白亜色に輝く優美な立ち姿が一層、王都セボリーのシンボルとして相応しい貫禄を纏っている。


 威信に満ちた大噴水に押しかけるように、〈大噴水の広場〉には商工取引所や役所が立ち並ぶ。物の値段を決めるのも、人の価値を決めるのも、全てが〈大噴水の広場〉で行われた。


 中心地で幅をきかせる行政機関の隙間を縫うが如く、〈大噴水の広場〉から六本の大通りが放射状に伸びる。ここは商人たちの世界だ。六本の大通りから網目状に無数の小道が伸びていき、細道には肩を寄せ合うように露天が並ぶ。飛び交う歓待の大合唱は狭い道幅を一層暑苦しく押し潰し、毛細血管のように城下を活気で満たす。いつの頃からか六道とそこから成る小道を誰からともなく〈黄色市場〉と呼ぶようになった。


 〈大噴水の広場〉を離れて〈黄色市場〉を抜けると、やがて露天は減っていき民家がぽつぽつと増え始める。見上げて観察してみれば、そのほとんどが煉瓦造りの二階建てで、そして多くの家の二階にバルコニーが突き出ている。木造バルコニーにはたいてい小さくて可愛らしい円卓があって、一対の椅子が寄り添うように置かれている。昼下がりの温かな日差しに暖められたバルコニーが、王都民の最も愛すべき場所だ。そんな民衆の微睡の下を潜り抜けると、そのうち道は王都の外壁へと突き当たる。


 王都の外壁は、山際に沿って立てられた堅牢な石造である。成人男性の背を優に越す高さで一糸乱れぬように敷かれた石壁には、ところどころ火跡などで煤けていて、魔族との間に起こった先の大戦の気配を今に伝えている。この外壁に囲まれたおよそ800キロ平方メートルに百万人の民が暮らす都市。それがファング王国の王都〈セボリー〉だ。


 外壁は、山際に沿って王都〈セボリー〉をぐるりと覆っている。


 連峰は王都の三方をぐるりと囲み、唯一平地へとひらけていた南東方面に〈正門〉が設けられた。〈大噴水の広場〉から伸びた六本の大通りのうち五本までが、外壁に突き当たったあとにぐるりと弧を描いて、最終的にはこの〈正門〉へと辿り着く。


 しかし、六本の通りのうち北西へと伸びる一本だけは、人を別の場所へ誘う。


 〈大噴水の広場〉からぽつりと外れた北西の隅。〈黄色市場〉の喧騒からは遠く隔たれた場所。〈正門〉とは正反対の角に、連峰においつめられるようにして、それは在る。


 ファング国王の城〈玉髄城〉


 その相貌は名の明媚さと同じく、城壁は美しく磨き上げられた石英によって成る。乳白色で彩られた王城が朝露に瞬く様はどこか儚げで、それを目にした王国民たちに建国の蔦王フェルトブッシュの面影を思い出させた。荘厳な城門を潜ると眼前に芝の輝く外庭が広がり、間を割るように一本の道がまっすぐ居城の門扉へと続く。玉髄城には外庭の他に二つの開けた場所がある。一つは中庭、もう一つは城壁の取り囲む北西の外れにある兵鍛錬所である。


 海良真が与えられた住居は、居城の側に聳え立つ鍛錬所に面した高い塔の一室だった。


 地下一階、地上七階建てのその塔は、王城の背後から城下に睨みをきかせている。〈騎士の塔〉。ファング王国の長い歴史の中で代々国を守護する者たちへ住処として与えられてきた。つまり、騎士団の活動拠点そのもの。塔は白色と灰色の花崗岩を交互に積み重ねて造られており、その姿は朝日に夕日によく映えた。


 海良に与えられたのは、四階にある客間である。


 部屋の隅には簡素なベッドが一台と、窓際に面した壁に手狭なテーブルが一脚あるだけの簡単なものであったが、シーツは真新しく輝いていて、開け放たれた窓からは埃ひとつ舞っていなかった。


 自室となるこの部屋に初めて案内された時、海良は自身を先導してくれたシルビオと三つの約束をした。


 ——一つ、塔から外出する前に必ず顔見知りに声をかけること。


 ——二つ、起床と就寝の時間は騎士団のスケジュールに合わせること。


 ——三つ、魔術講義中はいかなる理由があっても指導者に従うこと。




 シルビオの白魚のような指が規則的にテーブルを叩いている。固く閉じられた窓からは午前の眩い光が差し込み、薄いカーテンを通った後、手元に優しい影を落とす。手の中で開いた本のページが白く光る。インクの黒が光にかき消される。ハレーション。目を凝らしても、文字を読み取ることができない。


 ぐにゃりと歪む視界に負けて、海良は思わず呻き声を上げた。

 

 指の音が止まる。はっと顔を上げると、中性的な切れ長の瞳がこちらを睨んでいた。


「ごめん、先生」


 慌てて頭を下げると、対面で海良を睨みつけていたシルビオが、諦めたように瞼を落とした。


「少し休憩しようか。こういうのは、往々にして集中力の問題だからね」


 彼は静かに席を立つと、少し離れたところにあったサイドテーブルへと足を向ける。そこには、少し前に侍女が用意してくれた、ティーセットが置かれていた。


「紅茶が少し冷めてしまっているが、カイラは気にする質かな?」


 シルビオの言葉に、海良は内心舌を出した。この状況で文句が言える方がどうかしている。それを分かっていて、この男は聞いているのだ。


「冷水だろうと頂きますよ。俺なんかよりも、シルビオ先生は大丈夫なんですか」


 いらないことを付け加えたのは、意趣返しのつもりだった。しかし、シルビオの返事はあっけらかんとしていた。


「俺も別に飲めればいい。味にもたいして興味ないよ」


 そして彼は「そもそも俺が細やかな男だったなら、あの子がお茶を用意してくれた時点で休憩に入ったろうな」と唇の端を持ち上げた。


 海良がテーブルに置いていた本に栞を差し込んで、そっと閉じて窓際へ寄せると、空いたスペースに紅茶がなみなみと注がれたカップが置かれる。少しでも揺らせば淵からこぼれそうなそれを手に包むと、ゆっくりと口元へと運んだ。



 シルビオとの特別講義が始まってから、すでに三日が経過している。


 約束通り、シルビオは海良の魔術講義を引き受けてくれたが、彼の優しげな容姿からは想像ができないほど、講義内容はスパルタを極めていた。講義内容だけではない。朝は騎士団の号令と同時に起床し部屋の清掃を行い、食事は決められた時間までに食堂で摂る。他の騎士たちが鍛錬のため、塔のすぐ近くに設けられた運動場へと出ていくと同時に、海良の部屋には制服姿のシルビオがやって来る。それも両手に山積みの本を抱えて。


 シルビオが持参する本はどれも魔術の専門書らしく、分厚さもさることながら、何よりも表紙が固くて重かった。

初日、シルビオがそれらの専門書らしき書物を殊更丁寧にテーブルに置いた際に、テーブルの足が微かに軋んだのを見て海良は少し絶望した。鼻に届いた、糊と埃の匂いがそれを増長させる。それは間違いなく、何か長大な歴史の片鱗に手をかけてしまった、その瞬間だった。


 その聳え立つ雄大な書物の山が、専門書「らしい」というのは、海良には表紙に書かれた文字が全く読めなかったからだ。表紙とは言わず、背表紙も、二・三ページ軽くめくった先にも、海良の読める文字はない。それはまさに、ファング王国の書物であった。


「先生、読めないんだけど」


 慎ましやかに抗議の声を上げると、シルビオは当然という顔で頷く。


「団長から聞いている。カイラがこちらの文字を読めないことも、そして、読めないだけじゃないということもね」


 シルビオはいつの間にか海良のことをシンではなくカイラと呼ぶようになっていた。ただし名前を口にする時には、何故か少しだけ目が泳ぐ。


 海原で藁を探すみたいにペラペラとページをめくっていると、時折、見覚えのある形が出て来る。はて、どこで見覚えたのだったかと記憶を探り、そして海良は「あっ」と声を上げた。


「『火』だ。この字」


 あれは、四人で始めた短い旅の一日目。海良は離れ離れになった彼らの顔を思い出しながら、まだ暖かさが宿る記憶の片鱗に指を這わせた。ゲンゲツとラウルに夕食を届けたかったけれども買い方が分からず躊躇っていた俺を、食堂の片隅で一人酒を煽っていたアンスリウムが一喝した。「食べて覚えろ」


「あの時に食堂のおじさんが指差したメニューに書いてあった。それで、出てきたのは、焼いた肉」


 嫌な顔ひとつせず世話を焼いてくれた、優しい宿屋の亭主を思い出す。辛味のついた牛肉の炒め物を差し出して、メニューの文字を指差しながら彼は言った。「これが『火』だよ、坊主。それでこっちが『肉』。育ち盛りの男なら、これだけ分かれば十分だ」


 海良が視線を上げると、正面には満足そうに頷くシルビオの姿があった。彼は対面へ優雅に腰掛けると、山積みの本の中から一冊を選って手に取る。


「俺たちファング王国生まれの魔導士に比べて、異邦人であるカイラにアドバンテージがあるとすれば、それは君の中にある莫大な魔力量にある。その話は覚えているかい」


 海良が頷くと、シルビオはにこりと笑った。


「だがそれは、君に宿る魔力を無駄なく行使すればの話だ。現状、君と俺が純粋な魔道試合を行ったとして、おそらく百回やれば百回、俺が勝つ。何故なら、カイラがいくら青天井の魔力を持っていたとしても、使用効率が落ちれば当然、発現した魔術の質量が落ちるからだ。例えるのなら、綿で殴るようなものだな。一方俺はレンガで殴る。それも渾身の力でね。どちらが強いかは歴然だろう?

 さて、ではそれを改善するためにはどうするか。当然、質を増やすに決まってる。そのスカスカな魔力をきっちりと細分化し、その全てに余すことなく役割を与えるんだ。そしてその一番の近道は、既存の知識で埋めることだ。つまり、カイラの中にファング王国が長年培ってきた魔術の概念をすっぽりと詰め込む。これはそのための魔導書や歴史書さ」


 シルビオはそこで言葉を止めて、途中から静かに挙手し続けていた海良に手のひらを差し出した。


「どうぞ?」


「ここに来るまでの道中で、同じ方法でアンスリウムから講義を受けてきたんだけど」


 ——その続きですか? と続けようとした海良の発言は、シルビオが不機嫌そうに眉を跳ね上げたために喉の奥へと飲み込まれた。海良がしぼんだ風船のように手を引っ込めると、シルビオが身を乗り出す。テーブルが軋んで、頼りない音を立てた。


「団長が君に教えたのは、既存の魔術を行使する方法だ。俺が君の意識に叩き込もうとしているのは、ファング王国が育ててきた魔法の概念そのものだよ」


 この人、今間違いなく叩き込むって言ったな。海良は背筋を凍らせた。


「スケジュールを説明しよう。午前中はここにある本を原文で読むことに努めてもらう。昼食を挟んだら、午後は実践だ。強化魔法を中心に、団長のサポートに必要になる魔術を優先して習得してもらう。当然、この間は俺が付きっきりで指南するから安心しなさい」


「原文……」


 呟きながらページを数枚めくってみる。ほとんど見たこともない形の黒い塊が、群れてそっぽを向いていた。


「文字、文法——言葉は使用者の概念をそのまま指し示す」シルビオが言う。


「ファングの歴史が培った魔法という学問には、君が会得すべきあらゆる知識が既に存在する。こちらの言葉を君が解釈するのではなく、そのまま脳に落とし込め。それが今のカイラに必要な作業だ。だからこそ原文と睨み合うのが大切なのさ」

これは途方も無い労力が必要なのではないだろうか。自分で言い出したこととはいえ、成し遂げられるのか。そもそも——


「クレ……クリーデンスの侵攻を目前にして、そんな時間があるのかな。王都侵攻までに強化魔法が使えるようにならなかったら、騎士団の人たちやシルビオ先生に……アンスリウムにも迷惑をかけることになってしまうし、それならいっそ、目下で必要なことだけシルビオ先生が教えてくれた方がいいんじゃないでしょうか」


海良の不安を前にして、しかし、シルビオは揺るがなかった。


「過程をすっ飛ばして成果を得る方法はないし、あったとしても碌な結果を生まない。『賢者は東に頭を垂れる』だ。君の世界にこの考え方はあるかな?」


「えっと」


 海良は目を泳がせながら、おずおずといった調子で答える。


「——学問に王道なし、かな?」


「幸先が良いね。俺たちはきっと、やり遂げることができる」


 そして彼はちらりと窓の外へと視線を投げると、一拍の逡巡の後、何かを諦めたかのように気怠く頬杖をついた。


「カイラはさ、大変なことを思いついてしまったらしいじゃないか。団長から聞いているよ。なんでも、教会と東の塔にかけられた呪いを解くんだと。しかも、誰かにそう宣言してしまったらしいね。つまり……頼まれたんだよ、団長に」


 目を見開く海良に、シルビオは微笑む。


「だから俺にとって、君のゴールは団長の補佐魔道士ではなく、『おとぎ話級の大魔法使い』なのさ。頑張れよ」



 そうして始まったシルビオの特別講義だったが、たったの三日で海良にとっては早くも限界を超えていた。


 シルビオは付きっきりで隣に陣取り、ファング王国語と取っ組み合う海良の世話を焼いてくれたが、それでも言語のハンデは大きく海良の勉強は思ったようには捗らなかった。しかも困ったことに、海良がげっそりとした顔で謝罪をすると、シルビオは鼻で笑ってこう言うのだ。


「思ったようにって何さ。俺に師事すれば、瞬く間に上達するとでも思ったかい。それは大した思い上がりだね」


 あまりにも頼もしすぎて、海良の方が吹き出してしまったくらいだ。


 それでも地道に続けていれば、わかってきたこともある。


 ファング王国の言葉は海良が扱うものに比べると、抽象が主体になる言語のようだった。例えば「火」と言う言葉で、火が起こす万象を表している。燃える、焼く、照らす、など火によって起こされる事象は全て、同じ言葉によって書き表された。しかしどういうわけか、かつて地下道で使ったような「周囲を明るくする」魔法には『光』と名付けられている。この矛盾に海良が首を傾げていると、シルビオは事もなげに解答を放り投げてくれた。彼曰く、世界を照らし出すのは天から注がれる『光』なのだ、と。


 核融合……プロミネンス……、と喉元から出掛かった言葉を抑えて、海良はまず頷く。つまりファング王国とは、ファング王国民とはそういうものなのだ。現象をざっくりと、大枠で捉える。当然、彼らが使役する魔法も言語に倣って大別されている。魔法世界においては、そうやってざっくりと捉えた物事をグループに区分けした、その集団を「属性」と呼ぶらしい。


 三日かけてようやく理解し始めた内容を頭の中でかき混ぜながら、海良は生ぬるい紅茶をテーブルへ置いた。テーブルの隅に退けられた読みかけの本が嫌でも目に入る。分厚い冊子へ、申し訳程度に差し込まれた栞。けれどたぶん、栞なんか挟まなくたって数ページも繰れば簡単に、それも物の五秒足らずで見つけられるだろう。その薄さに、焦燥と不安が去来する。


 それは初日に、全て投げ捨てたはずだった。


 今にも進軍のラッパが響いて、反乱軍が王都へ殺到するのではないか。クリーデンスが王都を蹂躙する。騎士団の誰かが部屋に飛び込んできて、シルビオに耳打ちをすると、彼は「初陣だよ」と笑い、そしてアンスリウムがクリーデンスに刃を向ける。


 自分がどれを恐れているのか、海良にも分からない。優しいクレイを人殺しにしたくないなんて、美しい慈悲心が痛んでいるのかもしれないし、けれど同時に、ただ自分勝手な臆病風に吹かれているだけなのかもしれなかった。


 閉じたばかりの魔道書に手を伸ばして、硬い表紙を掴む。その感触は、浮き足だった海良の心を少しだけ慰めてくれたが、蓋をするには至らない。勢いのまま手元に引き寄せようとした腕を、しかし、シルビオがそっと制した。


「窓を開けよう」


 彼は柔らかな笑みを浮かべると、テーブルの向こうの窓に手をかける。蝶番が外れる軽い金属音と同時に、両開きの窓が開け放たれて大空にそよいだ。


 東の空にこうこうと太陽が照っている。吹き込む風の清々しさに、海良はふと、ファング王国にも四季があるのだろうかと考えた。


 塔の足元には騎士団が鍛錬に使う運動場が広がっている。折り目正しく整地された正方形の砂地の上で、今も多数の騎士団員たちが午前の鍛錬に励んでいた。彼らの掛け声が、風に舞い上げられて四階まで届き、窓を潜って海良の耳元までやってくる。


 遠い喧騒が部屋に満ちると、不思議と海良の心は落ち着いた。硬い表紙から手を離して、視線を窓の外へと投げる。澄んだ空はどこまでも広がっている。


 気迫に満ちた発声と鋭い剣戟が巻き上がる。追いかけるようにして歓声。その隙間に、海良は聴き慣れた声をみつけた。


「レイブン、後ろ足への意識が低い。君は身長が比較的低いのだから、小手先に頼っては駄目だ。しっかりと足を引き、腹を使え」


 アンスリウムだ、と視線を落としたのと同時に「はい!」と威勢の良い返事がこだまする。


 四階の高さから見下ろした運動場は、おもちゃの兵隊が整列しているみたいに見えた。深草色の一糸乱れぬ兵隊さん。けれどその中を自在に泳ぎ回る一人の男については、自分でも不思議に思えるほどに、彼の深い瞳の色まで見える気がする。


 アンスリウムは若い騎士に檄を飛ばすと、今度はたちまち破顔した。


「しかし気迫はいい。負けん気ならば新緑騎士団一だろうな。戦場では気迫が生死を分けることが少なからずある。忘れず励んでくれ」


 そうして彼は「次!」と雄叫びを挙げた。


 隊列の中から、次の一人が飛び出してくる。アンスリウムは剣を構えると、さっそく部下と斬り結んだ。


 アンスリウムの剣捌きは鮮やかで、武道を解さない海良ですら目を奪われるほどだった。剣が振るわれるたびに前髪が揺れる。しなやかな体躯から繰り出される剣技が相手を襲い、終始アンスリウムの独壇場だった。しかし優位の中で一歩、二歩、三歩目を進めようとした瞬間、思わぬ反撃が繰り出されてアンスリウムが半歩足を引く。軽々と相手の剣を避けながら、そして同時に、弾けるように笑った。


「そうだ!いいぞ!」


 初めて見る顔だな、と海良は唇を綻ばせる。仲間の前ではこんな風にも笑うのか。


「太陽のような人でしょう」


 気がつくと、シルビオがこちらを見つめていた。どう答えようか逡巡して、けれど結局諦める。浮かんでくるのは、初めて出会った東の塔、地下道での喧嘩、宿屋のからみ酒だ。込み上げる笑いを噛み殺して、海良は澄ました顔を繕った。


「出会った頃はそうでもありませんでした。トゲトゲして、ネチネチ絡んできて、ただの怖い人だった。太陽からは程遠い」


「我らの団長は散々な言われ様だな。まあ、分からなくはないんだけども。内と外の区別がはっきりしてるんだよね」


「……でも最近は、ちょっと分かるかも」


 太陽のような人だ。たしかに、そう思う。蒼天の中で己を繕うことを知らず、白日の閃光で人の影を鮮明に暴く。自分にとっての彼は決して、天から降り注ぐ恩恵というほど生やさしいものではないけれど。


「太陽だって、夏場は嫌になるほど痛いものだから」


 シルビオが笑い声を噛み殺す。苦しそうな息の間で「団長はあれでね」と言い、そうして再び、己の発した言葉に後押しされて笑みを増す。息も絶え絶えで、目尻に溜まった涙を拭きながら、シルビオがようやく息を吸った。


「団長はあれで、兵士たちからは優しさゆえに慕われているんだ。勇敢で、誠実で、優しい団長だよ。それをカイラは、苛烈だと言う。極寒の冬に恵みを与える麗らかな日差しなどではなく、真夏の西日だって?」


 心底愉快そうにな様子で、シルビオは手を叩いて喜んだ。得心するように何度も小刻みに頷いて、溢れ出した笑みが唇の端を持ち上げる。


「それで君は、あの夜に団長の手を取らなかったのかい?」


 一瞬、心臓がどきりと跳ねた。シルビオの言う「あの夜」がいつのことなのか、海良にはすぐに察せられた。彼は見ていたのだ。あの夜。王都につく前に、アンスリウムが海良へ脱走を持ちかけた夜。共に逃げようと、悲壮な覚悟を打ち明けてくれた夜。彼の後ろで瞬く星が、とても綺麗だったあの夜を。


 答えられずに息を呑む海良の顔を見て、シルビオは気まずげに視線を外した。そうして海良の返事を待たないうちに、彼にしては珍しく言い淀みながら、おずおずと「俺はね」と話し出す。


「正直な話だよ。俺はね、団長が君の脱走を手引きすることくらい、予想していた」


 瞠目する海良に、彼は気まずげな笑みを向ける。


「俺だけじゃないと思う。あの場にいた騎士団の誰もが考えていたんじゃないかな。あの夜にちゃんと眠れた奴なんて、一人もいなかったと思うよ。それで俺は……まあ、じっとしている性分でもなかったから、俺は寝床を抜け出して見張ってたってわけだ」


「馬車の物陰にいた?」


 シルビオが首肯した。


「君の脱走は予想していた。どれだけカイラに決意があろうとも、団長が無理矢理に連れ出すのではないだろうか、とね。けれど……」


 端正な口元から、長いため息が漏れる。椅子にすっかりと深く座り込んで、シルビオは天井を仰いだ。


「まさか、団長が全てを捨てて共に行くなんて言い出すとは、夢にも思わなかったんだ」


「俺もだよ」と海良は笑った。「アンスリウムがあんなに思い詰めていたなんて、考えもしなかった。俺は彼に、出会ってからずっと、悪いことをしてきたなって」


「いいや、そうじゃないだろう!」


 シルビオが飛び上がる。どこか困惑した表情で瞳を彷徨わせながら、柳眉を不格好に歪めた。そのまましばらくフリーズしたかと思うと、今度は厳しく顔を顰めたままで長考の構えに入る。どうしたことかと戸惑う海良を尻目に、シルビオは苦虫を噛み潰したような顔で再び動かなくなってしまった。


「あの……先生?」


 一体なにが違いますか?と海良が続ける前に、シルビオが声を上げる。


「カイラはさぁ、ぶっちゃけ団長のことをどう思っているわけだい?」


「どうって、そりゃ感謝してます。ちゃんと事情を聞いてくれた上に理解もしてくれて、一緒にここまで来てくれたんだから。助けてもらったし、迷惑もかけた。すごく良い人だと思う」


「それで」


 促されて、黙り込む。シルビオが何を期待して質問したのか、分からなかった。


「そ、それで?」


「それで」


 梃子でも質問方法を変更しようとしないシルビオの様子に、海良はたじろぐ。逃げるように視線を窓の外へと放り投げて、渦中の人の小さなつむじに落とした。誰かさんは海良の窮地など知りもせず、楽しそうに体を動かしている。そういえば、シルビオに師事してから三日、全くアンスリウムと顔を合わせていない。扉を叩く拳の主は、いつだって別の誰かだ。会いに行けば会えるのだろうか。たとえば、会う用事がなくても、居場所を訪ねていいのだろうか?


「幸せに生きてほしいなぁって、そう思います」


 騎士団の誰かにアンスリウムの居場所を訪ねて、それで断れられたとして、その理由で一番恐ろしいのは「異邦人との交流はアンスリウムのためにならない」だ。もし自分の存在が、彼のキャリアに傷をつけるのだとしたら。彼が努力によって築き上げてきたすべてのものが、海良真というたった一人の存在のために瓦解するのだとしたら。それほど恐ろしいことはない。だから、居場所は尋ねない。会えるのは、用事がある時だけだ。


 シルビオがうめき声をもらす。「うーん」とも「あー」とも取れない曖昧な響きの中に滲んでいるのは、明らかに焦燥だった。やはり質問の意図を捉え損ねていただろうかと、海良が気後れしていると、シルビオは微妙な表情のまま歪な笑顔をつくると


「ここで十分間の休憩に入ります。その後、予定を変更して実践授業を行います。解散!」


と言い放ち、早々と席を立った。



 鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしている海良を残して、廊下に飛び出て扉を閉める。乱暴な物音と主にずるずると扉の前にしゃがみ込むと、片手で乱暴に頭をかき混ぜた。銀糸のような髪が乱れるのも構わず、気分が晴れるまで存分に頭を掻き乱すと、しばらくしてようやく両手を放り投げる。


 視線を宙に彷徨わせ、呆けたままで脱力しながら、シルビオは敬愛する団長の苦労を思った。団長、これだいぶ面倒なやつですよ。

 


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