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王城-1

 茫然とした闇が満ちていた。持ち上げた手の指先どころか、腕の付け根すら見えない暗闇の中で、海良は佇んでいる。形骸的に周囲を見渡してみる。右も左も、変わりない暗闇。正しい位置を指し示す道標はない。ともすれば上下逆さまだったとしても気がつかないだろう。


子供の頃、押し入れに隠れた時のことを思い出す。まだ本当に小さかった頃、母と一緒に寝ていた寝室の壁に、一対の襖があった。襖の奥は上下にセパレートした押し入れになっていて、下段に整然と並んだプラスチックラックには、季節外れの衣類が詰め込まれている。上段には、普段はぎっしりと布団が仕舞われていた。しかしその日、そこにはぽっかりとした空洞が広がっていた。布団は朝からクリーニングに出されていた。いつもあるはずのものが、そこにはない奇妙。真はそれに誘われるように、小さな体を精一杯伸ばして押し入れの上段に上り、内からひっそりと襖を閉めた。部屋の明かりが次第に狭まり、それは細い一本の縦線になったかと思うと、すぐに押し入れは暗闇に満たされた。壁に背中をつけて、三角座りのまま、海良はしばらくの時を押し入れの中で暗闇と過ごした。その時感じた、不安と罪悪感。そして漂う微かな高揚。


押し入れの中で、幼い自分は確かに一人ぼっちだった。真っ暗な世界で出口がわからなくなって、指先で襖を引っ掻きながら泣いた。泣き声を聞いた母が血相を変えて飛んでくるまで、真は一人ぼっちだった。


しかし今は、奇妙な確信を握りしめて、海良はそれに声をかける。


「それで、あんたは俺に何を望んでいるんだ」


 滑稽な独り言。しかし確かに、それは海良の声へ応えた。


——君に望んだわけではないけれど、結果として君が僕を受け止めてくれた。それだけのことだよ。


 声はまるで、湖の底から湧き上がってきたかのように曇っていた。自我の下、無意識の上。遠い彼方から届いた声が耳元で囁く。頭蓋骨の中で脳が一回転するような眩暈に襲われて、海良は思わず顔を顰める。強がるように、喉を開いた。


「それじゃあ俺は、別にあんたの要望に沿う必要はないわけだ」


 それは少し考えた後、困ったように苦笑いを浮かべる。


——いいや、僕にはきっと、頼れる人は君しかいない。


 光が一つ、地面から浮かび上がる。それはか弱い尾を引いて海良の眼前まで上昇すると、不意に眩く弾け散った。牡丹花火が夜空に広がるように、光の粒が世界を照らす。点とも面ともつかない暗闇に、ふわりと地面が浮かび上がった。地面の先に整然と立ち並ぶ燭台が冷たく光を照り返す。燭台の頂きにぬらりと炎が立ち上がって、押し迫るような壁とステンドグラスが姿を現した。足元から真っ直ぐに続くビロードの絨毯、その上に詰めかける鈍色の甲冑を着た騎士たちの背中。膝をつく稲穂色の髪の彼。彼が睨みつける視線の先、黄金に輝く玉座の上に、一人の王が座っていた。


 つんと、血の匂いが鼻をつく。


 ああ、見たことあるな、と海良は他人事のように呟いた。


 事実、他人事だったのだ。あの時までは。


 王の間で処刑された異邦人。自分の少し前に来た、年頃もさほど変わらない男の子。クリーデンスが愛を傾け、死してなお彼の想いを一身に受ける存在。


「いつき?」


 脳の隅っこの方に走り書きでメモした名前を、舌の上に乗せてみる。確認するように慎重に呼んだつもりだったが、彼の名前はまるで通り過ぎる旧友の背中を呼び止めた時のように、懐かしい響きを持っていた。


——僕が君の知っている一樹そのものであるかと聞かれれば、きっとそうではないのだけれど……かつて一樹という人間が遺した物という意味では、その通りといえるかも。


「わかんねぇよ、それ」


 海良はクツクツと喉の奥で笑う。その様子に樹も雰囲気を和らげたようだった。


——僕は「一樹」の夢さ。死ぬ間際、どうにか助けてほしいと願った夢の果て。漠然として形すら許されなかった、願望の残滓。ずっと君を待っていたんだ。もちろん、待っていたのは「君」じゃないけれど。ええと……。


 言い淀む一樹に、海良は気風よく応えた。


「海良真、俺が今代の異邦人だ」


 躊躇いはなかった。たとえそれが侮蔑的な意味であったとしても、異邦人という響きが今の自分には似合っている。クリーデンスという一人の騎士を反乱軍にまで仕立て上げ、アンスリウムという忠義者を王国から奪いそうになった、とんだ愚か者にふさわしい呼称だ。歪んでしまったいくつかの人たちと言葉を交わすまで、優しい人たちが海良へと与えてくれた「訪い人」という名前を享受することは出来ない。


 「一樹の夢」は海良の決意を漠然と受け止めたようだった。それはしばらく黙り込んだ後、ぽつりと囁くように語り出した。


——死ぬ間際、一樹は強く願ったんだ。その願いは強烈に焼け付いたが、実現するには至らなかった。発現することなく終わったけれど、自然と霧散するには強すぎた。もちろん長い時をかければ消えていくだろう。けれどそうなるまでの長い時間、受信してくれる人をずっと探していた。


「衛星みたいだな」


 茶化すような海良の言葉に「一樹の夢」はくすりと笑った。——言い得て妙だ。


——広大なこの世界に、願いの残滓を受け取れる者が存在するのか、それすら分からなかった。誰にでも聞こえるものなのか、誰とでも語れるものなのか、視覚なのか聴覚なのか、何も頼りはなかったんだ。五年だ。五年の時をそうやって過ごした。そして、君が現れた。


「始まりの日、あの夢を見せたのは……」


——僕さ。けれど、あの時は今みたいに、君とコンタクトを取ることができなかった。どうしてかな。あの時と今と、何が違うんだろう。君は分かる?


 海良は応えなかった。だって、一つ一つ拾い上げたらキリがないほど、何もかも変わったのだ。あの日見たのと同じ光景が、目の前に広がっている。ただ今は、見ていた映画を一時停止したみたいに全てが静止していた。ビロードの絨毯の真ん中で、蝋人形のようなクリーデンスが叫んでいる。騎士に囲まれ、王から見下された彼は、世界に向かって吠えていた。炎が彼の影を揺らす。静寂に満ちた箱庭のような世界の中に、悲劇が縫いとめられていた。


「俺はどうしたらいい?」


 問いかけは単刀直入で、答えは簡潔だった。


——王城に来て、僕を見つけて。


 炎の揺らぎが大きくなる。地の底から湧き上がってくる振動が耳朶を揺らす。それは足の下を伝って徐々に大きくなっていき、次第に音へと変わった。地面を転がる荷馬車が立てる不愉快な移動音。馬の蹄。人のざわめき。


——もうすぐ着くよ。



「異邦人、そろそろ着くぞ」


 パチリと意識が弾けた。瞼を丸く見開いて、自分を覗き込んでいる顔をまじまじと見る。シルビオは不審そうに眉を顰めた後、ため息を一つ吐いて向かいの定位置へと着座した。そこで初めて、海良は自分の置かれた状況を思い出す。王城へ連行される馬車の中で、眠ってしまっていたのだ。座席から無様にずり落ちていた体を正して、大きく息を吸い込んだ。


 北の教会でラウルとゲンゲツと別れて三日。アンスリウムに逃亡を持ちかけられ、それを断ってから二日が経つ。あの夜から、アンスリウムは海良の乗る馬車に寄り付かなくなった。


 シルビオはワケ知り顔で、苦虫を噛み潰したような顔をしながら「下の者たちに示しもつくし、王への弁解に説得力も増すから」と、彼の変化を歓迎していた。そしてその代わりに、馬車の中はシルビオと海良の二人だけになった。二十四時間と三食を共にして、だいぶ気心が知れたのだろうか、と海良は恥じる。まさか彼の前で居眠りをしてしまうとは思わなかった。


「豪胆だな、お前。一両日中に死ぬんだぞ」


 海良の胸中を覗き見たかのようにシルビオが揶揄する。それには取り合わず、海良はふと、一つの問いかけを思い出した。


「シルビオさんは、人が死んだらどうなると思う?」


 かつて、この問いかけを二度、海良は二人に投げかけた。一人はアンスリウム・クルシアへ。そしてもう一人は、クリーデンス・クレイウォルターへ。


 シルビオは愉快そうに鼻を鳴らすと、長い足を組み替えて目を光らせた。


「幽霊や祟り、霊界や地獄、そういう話か」


「どっちかというと、輪廻転生的な方を想定してました」


 海良の言葉は、さしてシルビオの機嫌を損ねるものではなかったらしい。彼は「なるほどなるほど」口で遊びながら思考を巡らせて、おもむろに「転生はないな」と言い切った。


「ないですか?どうして」


「ロマンチックだからだ。人が憧れ、欲し、夢物語に描こうとする事柄は、たいてい現実には起こり得ない。そう思わないか」


 シルビオの口から飛び出した珍説に、海良は思わず口を開けた。もっと理知的な話が聞けると思ったのだ。詐欺だ、と叫び出したくなった。


「死者との再会、転生して第二の人生、そうして今度は幸せに暮らしました、めでたしめでたし。そんな奇跡が万に一つ、この世に起こり得るなら、もっとちゃんと機能してくれと思うね。そうだな……万に一つなら年間で550件は起こってくれないと困る。神様に苦情が言いたいくらいだ。それで、世界は決してそうじゃないから、人は死んだら終わりだよ」


「それじゃあ、さっきの祟りや幽霊という話はどうなんですか。あれも作り話でしょう」


 海良がそう追い縋ると、シルビオは片眉を跳ね上げた。


「幽霊はいるね」


「無茶苦茶だ!」


 思わず座席から立ち上がる。タイミングよく車輪が小石を踏んで、馬車が大きく揺れた。体制を崩して倒れそうになる海良の腕をシルビオが乱暴に掴んで、粗雑に座席へと戻した。


「あれは教訓だよ、異邦人。他人に酷い仕打ちをすれば、死後にしっぺ返しを喰らうのさ。だから幽霊はいるし、祟りはある。規律の話だね」


「俺が死んだら、絶対にお前を呪ってやる……」


 尾てい骨に響く鈍い痛みをさすりながら海良が呻く。シルビオはそれを一瞥して「やってみろ」と嘯いた。そして彼は人が変わったように、にわかに声を落とすと、内緒話をするように目を細めた。


「人の魂なんてものは、所詮は脳を流れる電気信号に過ぎない。脳が活動を停止すれば全て消え失せる。だが——体内に巡っていた魔力がどこへいくか、考えたことはあるか」


 しかつめらしく腕を組み、シルビオは言う。臓器、糞尿、分泌液、人間を構成する全ての物は、死者の体に残っている。魂すら脳という形で存在するが、こと魔力に関しては全く感知ができなくなるのだ、と。それがたとえ、生前に魔術師として働いていた人間であったとしても、体の中に残されているはずの「魔力」を確認することはできない。


「死せる魔術師の魔力は、どこへ行くのだろうな。霧散するのか、あるいはその場に留まっているのか。留まっているとしたら、どんな形で、どのような目的で?そう考えると、幽霊がいると言えなくはない。そう思わないか」


 その答えの一端を、海良は手の中に握っていた。それはきっと、今も彷徨い続けているのだ。死者の最期の願いを抱いて、霞のように広がっている。暗闇に浮かぶ燭台と、禍々しいビロードの紅さが脳裏に蘇る。あの惨劇の中で、ずっと。


「あれ……?」


 はたと、海良はあることに気が付いた。夢の中で誘われたのは、一樹が永劫の死に囚われるあの瞬間、最期の一場面だったはずだ。一樹は騎士に首を落とされ、クリーデンスが慟哭する。こちらに来てすぐの夢でも、ラウルから聞いた歌でも、筋書きはそうなっていた。しかし、海良は未だ彼の姿を見たことがない。首が落とされる、その事実は知っている。だが、それだけだ。先ほどだってそうだ。ビロードの上にいたのは、騎士と王とクリーデンスだけ。一樹の死体は、どこにも見当たらなかった。


 一樹、という少年は死んだはずだ。それは確かだ。しかしならば、どうして彼の「夢の跡」に彼の遺体が描写されないのだろう。彼は一体、最期に何を願ったのだろうか。


「異邦人」


 シルビオの声が海良を現実に引き戻す。


「命乞い以外の考え事なら、早めに終わらせた方がいい。そろそろ城門をくぐるぞ」


 それと同時に、誰かが声を張り上げる。「開門!」その凛とした声に、海良は顔を上げた。


 あ、アンスリウムの声だ。


 逃走を誘われた夜から、久しく聞いていない彼の声。それがとても懐かしく、恋しく思った。ずっと、向かいに腰掛けてくれているものだと、思い込んでいたのだ。旅の途中はそうしてくれていたから、王城に着くまでは一緒にいてくれると思っていた。どうしてそんな風に勘違いしていたのだろうか。一緒に逃げてくれと、そう告げてくれた彼の手を取っていたなら、今も彼は向かいで微笑んでくれていたのだろうか。


 感傷の片隅で、声が上がる。


 違う。違うに決まっている。他ならぬアンスリウムが教えてくれたことだ。自分の足で立って、自分の足で歩く。この世界で営まれてきた生活を知り、同時に己を知るのだ。安穏と他人に手を引かれるのはもう終わり。この話はきっと、俺が生まれるもっと前から始まった。そして預かり知らぬところで進んできて、ある日突然、その只中にぽろりと俺が落ちてきたのだ。


 それでも、ラウルと、ゲンゲツと、アンスリウムと始めた旅は俺の物語なのだ。海良真という一人の人間が選択した末にたどり着いた場所。


 城門が軋む音が聞こえる。人々の喧騒が一層大きくなり、遠くから誰かの叫び声が響いた。


「勝負の時だぞ」


 シルビオが笑う。馬車の扉が乱暴に開かれた。鈍色に輝く厳つい甲冑を身につけた騎士が二人、扉の狭い隙間から中を覗き込むや否や、海良の腕を乱暴にとった。無抵抗で馬車から乱暴に降ろされる。目の眩むような太陽の光が顔面を照らして、海良は思わず目を細めた。


そこは、中庭のようだった。


石造りの回廊に囲まれた小さな庭園に、吹き抜けから日が降り注いでいる。遠くには端正な造りの純白のパビリオン。そこへ誘うように、体をくねらせた女の像や、羽の生えた獣の像などが規則正しく置かれている。どこからか水音が響き、四角く切り取られた広い空間いっぱいに広がっている若草色の中から白い小花が顔を覗かせ、その草陰には石畳が見えた。


それを横切って、海良たち一行は冷たい回廊の先へと進む。四十名ほどの騎士たちが、言葉一つ交わさず、緊張した面持ちで歩いていた。先ほど海良を捕らえた二名の騎士が彼を挟んで歩き、その背後には当然のようにシルビオが続く。アンスリウムの姿は見えない。おそらく先頭を歩いているのだろう、と海良は思った。北の教会よりもなお大きく、堅牢な回廊をずっと歩いていくと、そのうち薄暗い廊下へとたどり着く。迫り来る壁に燭台がずらりと並び、日陰の闇を薄暗く照らしていた。壁に掛けられた絵画を具に見ながら、海良は察する。これは、夢で見た光景に似ている。だとしたら、この先がきっと目的地だ。


列が止まる。大仰な掛け声が廊下にこだまして、ついに王の間が開かれた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新お待ちしてました~!まだアンスリウムショックから立ち直れてませんが、シン君が寂しいながらもしっかりやるべきことをやろうと頑張ってるので見習ってちゃんと見守ろうと思います( ;∀;) […
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