叛逆の騎士
騎馬の隊列が一本の街道を行く。整然と列を成し、馬上で毅然と手綱を握る軍団は皆揃いの軍服を身につけている。目が覚めるような新緑の上着に縫い付けられた、緑に金縁の紋章。それを一眼見れば、誰もが彼らの素性を瞬時に悟り、その献身に首を垂れる。
深緑騎士団。
彼らが連なる様はまさに万緑が如く。しかしこの日は珍しく、その隊列の中程に一両の馬車があった。それはまるで草原の中にぽつんと落ちた緑陰のように、ひどく人目を引いた。貴人が乗るにしても、車体の装飾はやけに質素で、ほとんど木板が立て付けられただけの四角い箱だ。窓には垂れ幕がかかっていて、中の様子は誰にも見えない。ガタガタと馬車が振動する。地面に埋まった小石を車輪が跳ねて、車体が大袈裟に揺れた。
衝撃に体を揺さぶられて、海良は壁に大きく頭を打ちつけた。咄嗟のことで騒ぎ立てる余裕もなく、一人静かにうめき声をあげる。
腕を一括りにされているせいで、普段よりもバランスを取ることが難しいんだ。普通だったらこんな風に頭をぶつけたりはしない。
自分の哀れさを誤魔化すように、海良は胸中でひとりごちた。
「大丈夫か?」
正面に座っていたアンスリウムが、気の毒そうに眉を下げた。隣に座っているシルビオが、小さくため息をついた。
「普通に痛い」
身も蓋もない海良の返答を受けて、アンスリウムが片手を上げるが、すぐに再び膝の上へ落とした。シルビオのため息が大きくなる。
「私から遠ざかろう、遠ざかろうとするから、反対側の壁で頭を打つんだ。もう少し力を抜いて、こちらへ重心をかけろ」
ぐいと、シルビオが海良の腕を引っ張る。対面四人掛けの馬車は狭く、それだけで海良とシルビオの肩はぴたりとくっついた。それを見たアンスリウムの眉が跳ね上がったが、物言いたげな唇は開かなかった。
「初対面の人と密着するのはちょっと……」
そう言って海良がシルビオから遠ざかろうと腰を上げた瞬間、またしても馬車が大きく揺れる。再び大きく頭を壁に打ち付けて、海良はまたしてもうめき声を上げた。
「頭が長方形になる前に、諦めてこっちへ寄った方がいいと思うけれど」
「わりと屈辱なんだよ」
「好きにしなよ」
シルビオがそっぽを向くと、馬車には再び沈黙が落ちた。蹄の音と砂地の音が耳障りに響く。苦しくなるほど居心地が悪いのは、微振動と硬い椅子に起因する車酔いが原因か、それともメンバーに息が詰まっているのか……。
後者だろうな、と海良は自嘲する。この取り合わせはまさに、罪人・生贄・裁判官の何者でもない。三人でお喋りが弾む方が難しいだろう。だって今から俺は、この人たちに殺されるために王都へ行くのだから。
「ラウルたちは大丈夫だったかな。あの時は、ああするしか思いつかなかったけど」
ぽつりとこぼした海良の言葉に、アンスリウムが頷いた。
「アストラガス殿とポラリス様がうまく取り成して下さるだろう。あれが最善手だった。既に滅びて久しいとはいえ、教会が教会として権利を主張すれば、騎士団ごときがそれを無碍にすることはできないからな。王国府が共謀人の引き渡しを求めることになったとしても、俺たちが事案を持ち帰った後になる。それだけ時間を引き延ばせれば、当事者二人がどうとでも逃げおおせるさ」
「悪いことしたなぁ。ここまでずっと協力してくれてたのに、突然、蚊帳の外みたいな扱いにしちゃって……」
「お前が滅入る必要もないと思うがな。少なくとも、ゲンゲツは自身の意思に従って動いているし、ラウルはまあ……」
アンスリウムは珍しく、気まずげな様子で頬を掻く。
「意外と直情型だから」
遠慮がちな表現に海良は体を震わせて笑う。けらけらと楽しそうに頭を揺らしている海良の様子を見ていたアンスリウムは、口の端を微かに上げた。柔らかく目元を緩ませて、そのくせ、口先だけは無愛想な言葉を落とす。
「他人を慮るよりも、自分のことを考えた方がいい。俺たちの方が絶体絶命に陥ってるんだからな」
「いいや、アンスリウムは大丈夫。そのために俺がいるんだ」
「シンがどういうつもりでも、俺はみすみすと君一人を死なせるつもりはないぞ」
二人の会話を黙って聞いていたシルビオが、呆れたような声で言った。
「俺がすごく気まずいんで、そのトークやめてもらっていいですか?」
そして彼は口を閉じると、海良の顔をじっと見つめる。そして僅かな逡巡の後、シルビオは涼やかな表情を崩すことなく、真顔で一言「手、外そうか」と海良に問いかけた。予想外の言葉に、海良の口から奇妙な悲鳴が上がる。シルビオは海良の返事を待たずに彼の片腕を強く引くと、後ろ手に括られていた縄を腰に差していた短剣で切り解いた。自由になった両手をさすりながら、海良は疑わしげにシルビオの顔を見る。一方で、馬車の中で二人の視線を一身に注がれているシルビオは、相変わらず涼しい顔のままで短剣を腰の鞘へと戻した。冷たい音が馬車の中に響く。「なんで——」海良は動揺を掻き分けて、かろうじて言葉を紡いだが、それ以上が続かない。三人の間に中途半端な疑問符がぶら下がった。
海良とアンスリウムの困惑に反して、シルビオの回答は端的だった。彼はまるで、理に従っているといった風に、平然と答える。
「なんでって……君、逃げるつもりないだろう。君が目的を達するためには、俺たちに連れられて王都まで行かなきゃいけないものな。そんな奴に縄つけて引っ張るのも滑稽だし、有り体に言えば労力の無駄さ」
「そういうあからさまなのって大丈夫なの?」
「この馬車が檻のようなものだ。流石にここから出すことはできないが、中で縄を解くくらいは許されるでしょう。団長も文句はないだろうし、ねぇ」
あまりにもシルビオが開けっ広げなものだから、何故か海良の方が気まずくなって、申し訳ない気持ちでアンスリウムの方を伺い見た。当のアンスリウムも、言葉に詰まって黙りを決め込む。ガタゴトと絵に描いたような馬車が揺れる音の響く中で、シルビオだけが悠然と自分の爪の先を眺めていた。
不自由を気にしていたわけではなかったが、それでもやはり、両手が自由になると自然と心に余裕が生まれる。僅かに安らいだ心には、息の詰まった沈黙は痛い。無理に気まずさを無視しようにも、そうすると今度は、意識が未来の不安へと持っていかれる。この馬車の終着点で起こりうる未来。いつか見た夢の続き。
「俺さ、異邦人が災厄を持ってくるなんて、この世界の人たちはとんだ迷信をえらく信じ込んでいるもんだなと、そう思ってた」
思考よりも先に言葉が口をついて出る。誰も海良の独白に答えるものはない。それでも一人、彼は胸に去来する不安を紡ぐ。紡ぐことをやめられない。
「アンスリウムはさ……三人は俺のことを『ただの人だ』って言ってくれただろ。でも、こうやって起こったことを辿れば、それは間違ってたのかもしれない」
そうだ、と海良は頷いた。結果が全てだ。全ては、俺がここへ来たことが原因だった。
「俺がこの世界へ来てしまったから、クリーデンス・クレイウォルターが王都を滅ぼすことになった。異邦人が災厄を連れてくる。それに、間違いはなかったんだ」
今度こそ、アンスリウムが腰を上げた。気遣わしげに伸ばされた腕の先、彼の手のひらがそっと海良の髪を撫でようとして、そして直前で思い留まったように、その手は真っ直ぐ肩へと落とされた。
「私は——」不意にシルビオが口を開く。「災厄とか信じてない」指先をゆっくりと握り込んだ。
「この世は悲劇に満ち溢れていて、死神はいつも、傍に佇んでいるでしょう。それは異邦人が降り立った時に限らない。君が居ても、いなくても、惨事の数は変わらないのさ。それは騎士である己が一番よく知っている。だからまぁ、異邦人を罪人扱いするのは、世界の規律がそうと決まっているからで、異邦人を捕まえるのは仕事だからだ。そう言ってしまうと身も蓋もないけれど」
「シルビオ」
アンスリウムの厳しい声が飛ぶが、シルビオはあっけらかんとした態度を崩さない。
「誰も聞いてなんかいませんよ。それに、もう日が暮れます。団員たちは晩飯のことで頭がいっぱいだ。聞こえていても、空腹に気を取られてすぐに忘れてしまうでしょう。俺も含めてね」
そして彼は、口の端を器用に釣り上げると、瞳に仄暗い色を灯した。
「君が災厄かどうかなんて、どうでもいい。俺たちにとって大切なのは、君の命が、団長の命と引き換えられるか否か。それだけだ」
隊列が止まる。日が落ちてしまうと、松明のあかりだけで暗がりに馬を走らせるのは困難だというアンスリウムの判断で、街道沿いの開けた場所で夜を明かすことになった。海良は馬車の中に閉じ込められたまま、じっと外の喧騒に耳を傾ける。自由になった両手で頬杖をつきながら、盛り上がる雑談の中に時折混じるアンスリウムの声を追いかけて目を閉じた。
初め、アンスリウムは海良を置いて馬車を降りることを拒んだが、それを諌めたのはやはり、シルビオだった。彼は団長であるアンスリウムが異邦人と行動を共にすることに危機感を抱いた。というのも、そんなことをすれば団員たちの間で「アンスリウムは未だ異邦人に傾倒しているのではないか」という疑念が湧き上がることになろうからだ。そうなれば、国王への命乞いに説得力を欠く。シルビオの危惧をアンスリウムは苦渋の表情で受け止めた。
締め切られた窓を一枚挟んだ向こうで、アンスリウムの低い声が聞こえる。会話の内容までは分からなかったが、彼が穏やかであることだけは察せられた。出会ってから初めて聞く、気心を許した彼の声。波のように寄せる心地よい響きを耳にして、海良は再び決意を固くする。
なんとしてでも、アンスリウムを元の場所に返す。
不意に、馬車のドアが開く。篝火に緩く照らされた影を纏って現れたのは、夕食を片手にしたシルビオだった。彼はそのまま馬車の椅子に皿を置くと「君の分だよ」と言い残して去ろうとする。
「シルビオさん、話があるんだけど」
海良が呼び止めると、彼は意外そうな顔で振り向いた。そして軽く辺りを見渡すと、人目を避けるように素早く中へと滑り込んできた。ドアを閉めて、内鍵を下ろす。車内は再び薄暗い闇に包まれた。
「それで、話って?」
アンスリウムが同席していた時よりは幾分か砕けた口調で彼が問う。見えていないことは承知で、海良はひとつ頷いた。
「俺に魔術を教えてくれませんか」
「は……」
シルビオは絶句した。頭の中には数多の罵倒の言葉が浮かんでいたが、そのせいで返答に適切な文句を探し出せずにいる。
「初めてお会いした時——東の塔でのことですけど、あなたは騎士団の中でも魔術を扱う団員を率いていたでしょう。それで、アンスリウムは魔術が使えない。それならきっと、この王国で一番の魔術の使い手はあなただと思って」
「それは、間違っていないが」
事実だった。研究職としての魔術ならいざ知らず、戦闘職として魔術を行使するならば己の右に出るものはいない。シルビオにはその自負がある。あるいは、アンスリウムが魔術も行使できる人材であったならば、その地位も脅かされていたのかもしれないが、そうはならなかった。士官学校時代はそのことに何度感謝したか分からないが、それはこの異邦人には関係のない話だ。
例外があるとすれば、クリーデンス・クレイウォルター。
彼自身の魔術はさして技巧に長けたものではないが、持っている聖剣が規格外の代物だ。使用者の内包する魔術素養を吸い取り、そのまま出力する魔導装置を有した魔導具『炎風の聖剣』。魔導装置の特性上、その性質は炎にこそ固定されるが、それゆえに最大出力が化け物級で、おそらくシルビオであっても太刀打ちできない。さらに、それにクリーデンスの剣技が乗るのだ。もしシルビオとアンスリウムが同じ一人の人間として生まれ、その才を伸ばしながら上等教育を受ければ、勝てる可能性はあるかもしれない。クリーデンスという男は、そういう人材だった。
今からそんな男が率いる反逆軍と戦うのかと考えると頭が痛いが、それでもなんとかするしかない。そして、なんとかするためには、クリーデンスと戦う上で半身とも言えるアンスリウム・クルシアを団長という地位のまま騎士団に返してもらう必要がある。罪人として投獄など、ましてや処刑などさせるものか。だから、シルビアは涼やかな目元を皮肉げに歪ませた。
「面白いことを考えたようだが、無理だ。俺が異邦人に魔術を教える道理なんてないはずだよ。情けをかけて、逃げられでもしたら困る。君は私と目的を同じにしていると思っていたが、それは私の勘違いだったのかな。国王陛下にその首を差し出して許しを乞うまでは、君に消えてもらうと困るのだけれどね」
そう言って彼は、腰にかかった縄をちらつかせる。思わせぶりなシルビオの動きをじっと見て、海良は思わず苦笑した。もう一度縛った方がいいのかな?と彼の威嚇が聞こえてくる気がするが、それなのにあまり、彼に警戒心を抱けない己がいる。アンスリウムが信頼を置く部下だからと、それだけの理由で、心が柔らかいままなのだ。微笑みを讃えたまま、海良は真っ直ぐに顔を上げた。薄闇の向こうでパチリと瞳が合う。不意を突かれた様子で微かにたじろいだシルビオの顔には、動揺の色が浮かんでいた。
「俺とあなたの目的は同じです。アンスリウムをアンスリウムとして元の場所に戻し、クリーデンス・クレイウォルターの凶行を止める。でしょう?」
海良の言葉に、シルビオは口をへの字に曲げた。
「君が死んだ後の話が混じっているよ」
「いや、これで合ってる」
今度こそシルビオは厳しい顔をして黙り込んだ。ここが勝負所だ。
「アンスリウムを無罪にするために、俺は間違いなく、あなたに連れられて王都へ行き、異邦人として裁かれます。それで……自分の命乞いは自分でする。あなたにお願いしたいのは、その後だ」
「クリーデンスの説得にでも当たるつもりか?」
シルビオがバカにしたように鼻で笑う。そして、すぐに否定の言葉が発されないことに気がついて、訝しげな顔をした。眼前では真面目な顔をした海良が、一歩も引かずにこちらを見据えている。心臓の鼓動がやけにうるさい。異邦人が次に発する言葉に予想がついて、自分が高揚しているのが分かった。煮立ち始めた頭の隅で、冷静な自分が囁く。
なるほど、団長はこの瞳にやられたんだ。
「クリーデンス・クレイウォルターと話がしたい。だから俺を、前線で戦えるように鍛えて下さい」
これが、海良の出した答えだった。
アンスリウムを死なせたくない。王国の滅亡なんか望んじゃいない。でも、クレイの居場所は分からない。それなら、彼らについて前線へ出ればクレイに会えるのではないかと、そう思ったのだ。クレイは優しい人だから、対話を望めばきっと応じてくれる。クレイの悲しみを癒して、そうしたら、今度こそ彼の本当の話を聞こう。何を望んでこうなったのか、それはどうすれば叶うのか、改めてみんなで話し合えば糸口が見えてくるはずだ。そのためにはまず、生きてクレイに会わなければ。
深いため息が正面から聞こえた。熟慮と逡巡の間にある、一呼吸の思考。一種の諦観にも似た気分の中で、シルビオは静かに口を開いた。
「端的に言って、それは不可能だ」
完全なる否定。しかし、彼の言葉には攻撃的な音が含まれていない。まるで暗がりを指先で探るように、音が硬い車体を這った。
「いくら異邦人とはいえ、魔術の魔の字も知らない人間を実践段階まで引き上げることはできない。習得には長い月日と努力が不可欠で、決して早道はないからだ」
「アンスリウムから似たようなこと言われた気がする」
ふ、とシルビオが笑みを漏らした。
「そうだな、団長なら言う。彼も努力の人だから。それで俺が見聞きしたところによれば……異邦人の持ち味は、その爆発的な魔力量と、多少強引とも言えるほどの具現化率にある」
それもアンスリウムから聞いたな、と海良は記憶の中を辿った。魔力量が多いから、イメージの固定があやふやでも、願望に沿って具現化ができてしまうのだと、そう言っていた。突然「ところで」とシルビオが声色を変える。足を組んで、指先を軽く会わせる仕草は、神経質な医者か大学教授を思わせた。
「団長が魔術を使えないのは知っているようだったが」
「本人から聞いた」
満足そうにシルビオが頷く。
「彼はファング王国一の……いや、クリーデンスを除けばだけれど……とにかく国内有数の剣の使い手だが、魔術が使えないという欠点がある。つまり、クリーデンスが使うような『聖剣』の類を持つことができないんだ。それを補って余りあるほどの実力者ではあるのだけれど、今回のように実力が拮抗している対象であれば必然的に、武器の性能で相手に劣る」
アンスリウムが初めてそれを打ち明けた時の、苦しそうな声を思い出す。俺は魔術が使えないんだ、という告白は、まさに己のコンプレックスの独白だったのだ。しかし、それを思う胸の苦しさとは別に、海良には沸き上がってくるものがあった。
必要であったとはいえ、それを初対面の人間に真っ直ぐ暴露してしまうのは、それはなんともアンスリウムらしい。
「それ以外にも、相手が魔術士だったりすると団長の手に余ることがある。魔術道具の解除とかは、魔術素養のある人間にしかできないからだ。だから俺たち深緑騎士団は、大規模作戦時において、魔術士で構成された一班が常に魔術的に団長をサポートする立ち回りをしている」
深緑騎士団魔術詠唱班。通称を第三班。東の塔で魔術砲撃の準備をしていたのもこの班だとシルビオは言った。魔術道具での攻撃、防御、時には身体機能の向上などを一手に受け持つ魔術班。しかし、彼らに割り振られる労力の比重は非常に重い。
魔術士の数は、魔術を使えない人に比べて圧倒的に少ないからだ。精鋭を集めた騎士団といえども、その理が適用された。第三班の仕事は多い。なら、それを助ける人材は喉から手が出るほどにほしい。特に、今回のような特異級の有事においては。
「君が次の戦いにおいて、団長専任の魔術補助をするという条件でなら、私が君に魔術を叩き込もう。前線投入も支持してあげる」
驚いたのは海良の方だ。それは願ってもいないほどの好待遇だ。瞠目している海良を一瞥したシルビオは組んでいた指を解くと、ゆったりと背もたれへ沈み込んだ。
「状況が逼迫してくると、第三班のみならず私も団長の魔術補助につくことがある。けれど、そうすると戦場で動かせる駒がかなり減るんだ。それをだよ、君が一人で担ってくれれば選択肢にかなりの幅が出るのさ。そうすれば、戦場での身の振り幅のタイトさが御夫人のコルセットから、俺たちのベルトくらいまで緩くなる」
「未だ締まったままだな、それ」
「確かに。けれど、それは大きな違いだ」
クツクツと笑い声を漏らすシルビオの様子に、海良は思わず肩の力を抜いた。
「シルビオさん、ありがとうございます」
「単なる利害の一致だ。有用そうなら異邦人でも臆さず使えってね」
歌うように言ってシルビオは腰を上げた。内鍵に手をかけて、そして思い出したように振り返ると「けれど」と付け加える。
「斬首回避はそっちで勝手にやってくれ。君が自分で言っていたように、私が手伝えるのはその後の話だからね」
そのまま彼はドアを開けて馬車を出る。上機嫌な背中を見送ってすぐに、ドアが再び締まった。戻ってきた沈黙と暗闇の中で、海良は長く息を吐く。取り残された夕飯が椅子の上へと置かれていた。冷たくなったそれを手に取って口に入れる。不思議と不愉快さはなかった。
馬車のドアが再び開いたのは、それからしばらく経って、外の喧騒が聞こえなくなった頃だった。暗闇の中で篝火だけが軽い音を立て、騎士たちはその周辺で眠っている中、一人の男が静かな足取りで馬車へ近づく。気遣わしげな指先でそっとドアを引き、中の様子を覗き込んだ。
眠りの浅かった海良は、ほんの些細な物音で目を覚ました。蝶番の軋む音に引きずられて、沈んでいた意識が浮上する。差し込んだ月の光に目を瞬かせて、己の顔に落ちる影の正体を見た。
「アンスリウム?」
緊張した面持ちのアンスリウムが、声を出した海良を咎めるように、人差し指を唇の前に立てた。彼は物言わさぬ様子で横たわっている海良の腕を引くと、焦った様子で馬車のドアから引き摺り出した。寝ぼけ眼でわけも分からないまま、海良は外の空気を吸う。夜風が心地よく頬を撫でて、篝火が纏っていた火の粉を数粒、攫って行った。葉擦れの乾いた音が星空に響く。夜が寝静まっていた。
アンスリウムが焦ったように、強く海良の腕を引いて歩き出す。彼に誘われるまま、海良もまた真っ暗な道を歩き出した。
それからしばらく世界は、二人分の土を踏む音だけだった。アンスリウムが茂みを掻き分けながら進んでいることだけは分かったが、どこに向かっているのか皆目検討はつかない。ただ引かれる腕だけを頼りに海良は歩き続けた。
「アンスリウム」
不安になって名前を呼ぶ。ぴたりと、彼は立ち止まった。
「どうしたんだよ、アンスリウム。こんなことしたらシルビオさんに怒られるぞ」
「ああ、そうだな」
アンスリウムらしくない空虚な返答。それに首を傾げて、海良は再び名前を呼んだ。
「アンスリウム」
「この道をまっすぐに走れば、小さな山村がある。そこで身を隠して騎士団をやり過ごした後は、街道に出て東へ。東の塔にさえ着けば、おそらくゲンゲツの仲間に会えるだろう」
アンスリウムは一度も海良を見なかった。指差す道は暗く、声は遠い。彼の言わんとしていることを察して、海良の体が反射的に後ずさったが、きつく掴まれた腕がそれを許してくれなかった。
「何言ってるんだ。俺はアンスリウムと一緒に王都へ行って、国王に会う。そのために騎士団に捕まったんだよ」
「そんなことをする必要はない。俺は正当な裁きを受ける覚悟があるし、シンにはシンのすべきことがある。ゲンゲツの友人にさえ会えれば、クリーデンスとも繋がるだろう。だから、行きなさい」
ぽつりと、闇夜にアンスリウムの言葉が落ちた。
「お前を死なせたくない」
「俺だってだ!俺だってアンスリウムに生きていてほしい!俺一人が逃げて、あんたが死ぬなんて嫌だ!」
「自分の面倒は自分で見られる」
「俺はあんたと一緒に行く!一人で逃げたりなんかしない!」
大声に驚いた鳥が慌てて小枝から飛び立った。木立が派手な音を立てて揺れる。海良は飛びつくようにして、己の腕を掴んだままのアンスリウムの手を握りしめた。彼の体がビクリと揺れる。戻ろう、そう声をあげようとした海良を遮るように響いたのは、アンスリウムの慟哭にも似た声だった。
「なら、俺と一緒に逃げてくれ」
アンスリウムが初めて、海良の方を振り向いた。月光を照り返して、強い瞳がキラキラと揺れている。その輝きは、まるで涙に濡れるみたいに、水面のように波打った。紺碧の空には無数の星が輝いていて、彼らの瞬きを邪魔するものは何もない。木立の騒めきと、遥かに光る星夜の明滅だけが世界だった。
「シン、俺と共に逃げてくれないか。王都から遠く離れた場所で身を隠し、機を見て海を渡る。海の向こうには、かつて国父フェルトブッシュが封じた魔物がいると聞くが……お前と穏やかに暮らせるのなら、魔物の国でも構わない」
違う、と海良の心が叫ぶ。
違うんだよ、アンスリウム。俺が望むあなたは、騎士団長として誇り高く笑う貴方なんだ。実直で、思慮深くて、素直で、実はほんの少し笑い上戸の、幸せな世界を暮らすアンスリウム。俺のわがままに付き合わせたせいで失いかけた光景。そんな世界に貴方を返したい。実力で勝ち取った地位も、育んだ人徳も、全て捨てることなく生きていてほしい。命だけじゃ、俺が満足できないんだ。だから、この方法しかない。
溢れ出した心に反して、言葉に出来たのは、ほんの一欠片だった。
「行けないよ、アンスリウム。俺は王都に行かなくちゃ」
その言葉だけを受け取ったアンスリウムは、悲しそうに瞳を歪めた。
「俺とは行けないか……?」
彼の真意が掴めなくて、海良は口を噤んだ。それをどう捉えたのか、アンスリウムが自嘲気味な笑みを浮かべる。小さな声が漏れた。「そうだよな」
虚な瞳に瞼が落ちて、それが再び開いた時、アンスリウムの瞳にはもう星は浮かんでいなかった。彼は一言「悪かった」と呟くと、元来た道を戻り始める。戸惑いながらも自身の後を追いかけてくる足音を聞きながら、アンスリウムは一人、じくじくと痛む心の中を抉り返す。
シンが拒むのも当然だ。初めから言っていたではないか。彼は「優しいクリーデンスを人殺しにするのが嫌」なのだ。西の古城で大規模魔術砲を破壊した時も、彼はそのために必死だった。クリーデンスが自分を見ていなかったと知った時の、膝を抱えた小さな背中が目に浮かぶ。ずっと続いていた苛立ちが、一本の線で繋がって、ついに姿を表した気がした。
きっとシンは、クリーデンスの凶行を止めるだろう。そのための何かが王都にあって、それを目指しているに違いない。そうして、国王陛下の許しを得たクリーデンスは、栄光の騎士としてファング王国に君臨し続ける。ハッピーエンドだ。だから、俺とは逃げられない。彼が大切なのは、俺じゃなくてクリーデンスだ。
そっと目を閉じる。陰鬱な気持ちに蓋をするように、深く呼吸を落ち着けた。
シンがそれを望むなら、俺はその道行を助けよう。シンとクリーデンスが再会して分かり合えたなら、そうしてシンが笑っていられれば、それでいいじゃないか。だから、絶対に死なせはしない。彼をクリーデンスの元へと帰そう。俺の命と引き換えになど、絶対にするものか。
背後の海良に見えないのを良いことに、アンスリウムはひっそりと唇の端を持ち上げる。滑稽だ。これではまるで、かつて憎んだクリーデンスの異邦人説話と同じではないか。異邦人に拐かされて国王を裏切ったクリーデンス。それ以上のことを、俺は今やろうとしている。彼は国王の覚えめでたく、失態の後も栄光の騎士として保護されたが、俺はそうはいくまい。後世の人々は、異邦人に傾倒した大馬鹿者として俺の名を嘲笑うだろう。
教会へ向かう直前で、ラウルの叩いた軽口が耳に蘇る。
「異邦人を捕らえずに共に旅をするだなんて、王国の叛逆者として捕まるんじゃないですか?」
後ろにピッタリとついてくる、土を踏む音に耳を傾ける。この頼りない足音を守るためなら、それも良い気がした。たとえファング王国創立以来の不出来として、叛逆の騎士と汚名を残すことになったとしても——。




