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ポラリス

 対峙した二人の騎士が睨み合う光景を、海良は呆然と見つめることしかできなかった。シルビオが発した言葉の意味が、どうしても理解できない。まるで脳の中にある衝立が流れる思考を堰き止めているかのように、頭がどんよりと澱んでいく。誰かに答えを求めようとして周りを見るが、誰もが厳しい顔をして眉を顰めていた。沈黙が満ちる礼拝堂で、最初に口を開いたのはアンスリウムだった。


「わかった、今すぐに戻ろう」


 彼はそう言って、騎士団へ背を向ける。そして、不安げに見上げる海良を真っ直ぐに見つめると、申し訳なさそうに眉を下げた。


「共に行くと偉そうな事を言ったが、どうやら最後までお前の面倒を見切れそうにない。すまない」


 柔らかな声でそう言うと、彼は視線を上げた。


「ゲンゲツ、ラウル、後を頼む」


 そう言って、三人に向かって頭を下げる。彼の殊勝な態度に、誰もが呆気に取られていた。誰もが、何か彼に声をかけなければならないと思っていたのに、思考がうまく言葉にまとまらない。アストラガスとポラリスもまた、沈痛な面持ちでことの成り行きを見守るしかなかった。


 そのまま踵を返して礼拝堂を出ようとしたアンスリウムをシルビオの声が止めた。


「団長、あなたの手で異邦人を捕縛してください」


 アンスリウムの足がピタリと止まる。シルビオの視線が真っ直ぐにアンスリウムの瞳を射抜く。


「分かっているでしょう?このまま王都へと戻れば、あなたは反逆罪で死刑だ。それを覆すためには、異邦人を連れていくしかない。王の御前で、手ずから首を刎ねるのです。そうすればきっと、あなたは罪を免れましょう。実際——」


 シルビオは一瞬言い淀む。そして一拍の後、彼は吐き捨てるように言った。


「クリーデンスはそうやって許された」


「それ以上は何も言うな」


 アンスリムが硬い声でシルビオを嗜める。彼の冷たく、低く、静かな声が、礼拝堂に大きく響いた。シルビオは、自分が何を咎められたのか理解できずに眉を顰めた。長年苦楽を共にしてきた己の上司が、クリーデンス・クレイウォルターを憎んでいることはよく知っていたし、この程度の言葉で咎められるとは思わなかったのだ。クリーデンスを貶めたうちにも入らない。どういう意味か問いただそうとして、しかし次の瞬間、シルビオはアンスリウムの紡いだ言葉に目を見開いた。


「言葉を慎め。シンの前だ」


「は?」


 言葉を失ったのはシルビオだけではなかった。後ろに控えた騎士団の団員たちや、墓守たちもまた、動揺に瞳を揺らして息を詰めた。ただアンスリウムだけが一人、当然という面持ちでじっと彼らを見据えている。その顔は、先程の冷徹な声からは想像もできないほど、怒りの色が浮かんでいた。


「何を仰っているのか分かりかねます」


「お前が理解できないはずがない。彼は」アンスリウムは半身をずらして海良を示す。「この話の当事者で、クリーデンスとも顔見知りだ。かつてクリーデンスと国王が、先代の異邦人をどのように扱ったかという話題は繊細すぎる。彼の前であからさまにする話ではない。そうだろう」


 誰もが二の句を告げなかった。まるで別世界の生き物を見るような目で、アンスリウムを見る。その不躾な視線に晒されながら、それを真正面から受け止めて、アンスリウムは胸を張る。もう、知らなかった頃には戻れないのだ。異邦人を「災厄を呼ぶ化け物」として扱っていた自分には戻れない。ここにいるのは一人の善良な少年で、彼の胸の内を思えばこそ、この話は彼の前ですべきではない。


 彼の慕っている男が、かつての恋人を殺された時の話など、聞かせたくはなかった。


 心の底がどよりと淀む。そう、シンはクリーデンスを慕っている。西の古城の地下道に落ちた時からずっと、シンの心の中にはいつもクリーデンスがいた。教会に至る道、馬車の荷台で彼がぽつりとつぶやいた言葉が、今も耳から離れない。


——最後の最後でいいから、クレイに会いたいな。


 結局、シンの頑張る理由はそれなのだ。両足で踏ん張って立ち上がり、一歩一歩歩き出した彼の最後は、結局はそこにたどり着く。そんなことは初めから理解していたはずなのに、それが今になって、どういうわけか無性に寂しい。まだ荷台に揺られていた時の方が、当て付けが言えた分マシだった。


 そう、当てつけだ。「努力の理由を他人に求めるな」なんて、今から思えば当て付け以外の何物でもない。ただ気に食わなかったのだ。


 どれだけ魔術を教えたとしても、どれだけ経験を積ませたとしても、そしてどれだけ俺が彼の瞳を気に入っていても、それは最後には全てクリーデンスのところへいく。それがひどく、寂しい。


 寂しい、は少し違うな。アンスリウムはひっそりと口の端をあげる。虚しいのだ。小さな木の球がクルクルと縁を回って、真ん中の小さな穴にコトリと嵌る。虚しい。初めから分かっていた。こんなことに付き合っていたって、俺には何も残らない。任務を放棄した上に、罪人の旅路に付き合って、やっていること自体はクリーデンスと何も変わらない。彼と俺に違うところが一つあるとすれば、彼は国王の寵愛を受けていた身で、俺はそうでもない事だ。つまり、まあ、良くて永久投獄。最悪の場合は死刑。そんなことは、初めから分かっていた。ただ古城の地下道で、誰かの罪に祈りを捧げると言った彼に興味を持ってしまった。その結果がこれだ。


 だから、最後にかける言葉は決まっていた。アンスリウムはしっかりと三人の前に立ちはだかって騎士団の面々と対峙すると、背後にいるはずの少年に向かって声を張る。


「シン、俺のことは気にせず逃げろ。お前にはお前のやるべきことがあるだろう」


 シルビオが叫んだ。


「正気ですか!?」


 彼の悲鳴に、アンスリウムは穏やかに微笑む。


「とはいえ、俺はお前たちに剣を抜くことはできない。だから、できれば黙って彼を見逃してほしい。お前たちがこの教会に着いた時には、俺が異邦人と獣人を逃した後だった。そういうことにしてくれ」


 アンスリウムの言葉を聞いて、一番に動き出したのはゲンゲツだった。彼はラウルと海良の手を引くと、騎士団たちと距離を取るようにして反対側の壇上へと駆け寄る。かつてポラリスが立っていたところまで駆け上がると、祭壇が置かれているすぐ真横の床板を真っ直ぐに蹴破った。それは驚くほど呆気なく踏み抜かれて、人が一人通れるほどの小さな穴が空いた。


 それは遠い昔、有事の際に脱出できるように歴代の巫が整備し続けてきた脱出経路の一つ。まだ健在だったことに安堵の息を吐き、ゲンゲツはまず海良の脇を両手で持ち上げた。


「待って、ゲンゲツ」


 シンが言う。ゲンゲツは間髪入れずに応えた。


「待てない。アンスリウムの願いを叶えるには、今この時しかないんだ」


 ラウルが苦虫を噛み潰したような顔で言った。


「ここは彼らの言う通り、一度逃げた方がいいでしょうね。どの道、王都に行くことになったとしても、行き方がとても重要です」


 ラウルには一つの予感があった。


 クリーデンス・クレイウォルターの謀反が真実なのであれば、この戦いを止められるのはおそらく世界でただ一人。目の前にいるこの少年なのだ。クレイという男が溺愛し、何に代えても守りたいと思った人。たとえそれが、事実より少し歪んだ形だったとしても、大切であることには変わりない。そんな存在であるシンをクレイの元に届ければ、あるいは血を流さずに刃を納めることができるかもしれない。


 そしてきっとシンくんも、それを望んでいる。だから今この場で彼を捕らえられるわけにはいかないのだ。縛られて王城へ引き立てられてしまえば、クレイと接触することができない。だから、この場は逃げの一手が最も正しい。


 たとえその選択で、アンスリウムの生命が絶たれても。


 悲壮な表情でシルビオが首を横に振る。「いやです」小さな声が溢れた。


「嫌です!どうなるか分かっているでしょう!私は嫌だ!」


「待ってゲンゲツ。だめだ。行けない」


 王城に満ちる鉄錆の匂いを知っている。首を刎ねる冷たい金属の感触を知っている。それはいつか見た夢の光景だった。どうしてあんなものを見たのか未だに全くわからない、自分には何の関係もない夢。けれど、今は違う。


 あれは、ここから地続きにある未来の景色だ。


 海良の腹は決まった。ダメだ、嫌だと、泣き言を喚き散らしていても事態は変わらないのだ。それを教えてくれたのは、アンスリウムじゃないか。息を吸い込む。この場にいる全ての人に叩きつけるように、海良は叫んだ。


「投降する!俺の命運もここで尽きたみたいだ!」


 ゲンゲツが驚いたように目を見開き、そしてすぐに、鋭い視線で海良を睨んだ。まるで「それでいいんだな」と問うように。海良は一つ頷く。


「俺の……じゃ、邪法?で操っていた騎士団長殿も元に戻してやろう!ずっと俺の操り人形だったのだ!」


 たしかアストラガスがそんなことを言っていたはずだ、と海良は回らない頭で必死に言葉を続けた。「この男と、そこの吟遊詩人もだ!」


 呆気に取られて動けないラウルを尻目に、ゲンゲツは穴の横にそっと海良を下ろすと、彼らにしか聞こえないほどの小さなため息をついた。


「頑固さも取り柄と思えば、致し方あるまい。思う通りに」


 海良は祭壇をゆったりとした足取りで降りる。やるべきことは山積みで、成すべき方法は検討もつかなかったが、今この瞬間だけは、何をすべきか分かる。


 アンスリウムを守る。それができるのは、この場でただ一人、自分だけなのだ。


 アストラガスとポラリスの横を通り過ぎ、アンスリウムの隣に立つ。


「シンお前、何を考えている!」


 刺すような語気で声を荒げるアンスリウムを無視して、海良はシルビオに手を差し出した。


「俺が一緒に王都へ行けば、アンスリウムは許されるんだな?」


 シルビオの瞳は凪いでいた。憎しみも怒りもない、理性的な色を宿した瞳で、彼は海良を真っ直ぐに見る。


「そのように全力で取り計らう」


「じゃあ、俺を早く捕まえてよ」


 ゆっくりと差し出された腕をシルビオが掴む。アンスリウムがそれを阻止しようと走り出て、側に控えていた騎士団員に押さえつけられる。「ダメだ、シン!」彼の悲鳴が響いた。「お前がそれを背負う必要はない!必要ないんだ!」


 もがきながら訴える男に、海良はにこりと微笑む。その眩しさに、こんな時にも関わらず、アンスリウムは目を細めた。


「うん。でも俺が行くって決めた」


 シルビオが腰に下げていた荒縄で海良の両手を後手に括る。それはひどく優しい手つきで、縄は意外にも柔らかく結ばれた。彼が海良を拘束しながら、礼拝堂の外へと連れ出そうとした時、アンスリウムを押さえ込んでいた一人の騎士が声を上げた。


「副団長、あちらの男と吟遊詩人はどうします?」


 シルビオは静かにラウルとゲンゲツを見る。本来ならば、彼らは異邦人と共謀している可能性があるので、捕らえて王都へと連れて行くのが望ましい。そして王都へと連れて行けば、彼らに待ち受ける運命はこの異邦人と同じだ。厳しい処断が待っている。


「あの人たちは関係ない!俺が操ってただけだから!」


 すぐ隣を歩いていた異邦人が声をあげる。


 シルビオは逡巡の後、出来うる限り手落ちのない選択肢を選ぼうと声を上げた。


「事情を聞く必要もあるから、一緒に拘束して王都へ……」


 それを遮ったのは、アストラガスの声だった。


「異邦人の邪法によって操られていた方々のケアは、我々が致します」


 一歩、アストラガスが椅子の陰から歩み出る。蜂蜜色の髪を揺らして、凛とした声を響かせながら、彼はまるで海原のように悠然と前を向いた。様子を伺っていた墓守たちが口々に彼の名前を呼ぶ。正気かを問いただすかのような仲間の呼び声に見向きもせず、アストラガスは一歩も引かず騎士団の前へと立ちはだかる。


「騎士の皆様はクルシア団長殿と異邦人を連れて、お早く王都へとお戻りください。彼らは私共、ロータス教会がお預かり致します」


 有無を言わせぬ口調だった。


「災厄関係の事項は騎士団に一任されています。墓守殿には関係のない話では?」


 シルビオの言葉に、アストラガスは静かに首を振った。


「それをあなた方に一任したのは国王陛下でしょう。我らロータス教会はファング王国の三柱が一つ。つまり王都と教会は対等であり、巫は国王と同等の権限を持つはず。ですから、この件はこちらにお預け頂くと宣言しているのです。お願いではございません」


「誰の権限でそのような横暴を仰るのです?」


 シルビオの言葉を受けて、ポラリスがアストラガスの隣に並んだ。


「この場合は私ですね。初めまして副団長様、私の名前はポラリス。かつてこの地を率いた最後の巫であり、今この時だけは彼らの長としていられる者です。ロータス教会の予言巫として、彼らの身柄を引き受けさせて頂きます」


 ざわりと動揺が広がった。墓守たちも、騎士たちも、誰もが幽霊を見るような目でポラリスを見る。最も混乱していたのは、当の墓守たちだった。彼らは目の前で喋る少女の言葉を聞くや否や、慌てて祭壇に視線を走らせて、そこに石像の姿がないことを確認して息を呑む。一体何が起こったのか理解できずに、しかし、それが本物の巫だということだけは不思議と信じられた。涙を流す者がいる。膝を折り、祈りを捧げる者がいる。ポラリスが言葉を続けた。


「彼らは罪人ではありません。ですから、騎士団にお渡しする必要もないはずなのですよ」


 シルビオは目の前で起きていることが理解できずにいた。滅びたはずの教会で、失われた予言巫が動いている。それはまるで、御伽噺のような光景で俄には信じられない。


 もしかして、と彼は思う。団長から届いた手紙に、そういうことが書いてあった。一日にして滅びた東の塔と、突然現れた獣人の話。異邦人は災厄を呼ぶ化け物などではなく、それどころかもしかしたら、繁栄を極めたかつてのファング王国を取り戻すための鍵となるかもしれないこと。それが本当だとしたら……。


 思わずアンスリウムの顔を見る。彼は無言で頷いた。


 目の前の少女は、本物のポラリスなのだ。だとしたら、この異邦人が取り戻したことになる。意味も理屈も分からない。ただ、それが事実だ。


「承知しました」


 シルビオは呆然と呟く。


「そちらの二人は、教会にお任せします」


「ありがとう、騎士様」


 ポラリスは子供のように笑った。





 騎士団が海良とアンスリウムを取り囲んで、喧しく礼拝堂から出ていくのを見送って、ゲンゲツは「よし」とつぶやいた。そして徐に、先ほど踏み抜いた壇上の穴へと身を躍らせる。その長身がすっぽりと消えてしまったのを見て、ラウルが慌てて穴の中を覗き込んだ。


「ちょっと待って!どこへ行くんですか!」


 穴の下でゲンゲツが言った。


「真とアンスリウムが王都へ行き、王都にはクリーデンスの反乱軍が迫っているとなれば、私にも一つか二つやることがあるからな。先を急ぐ」


「二人を追いかける方が先でしょう!このままじゃ、アンスリウムさんは処刑。シンくんは王城で首を刎ねられて、怒ったクレイさんが王都に攻め寄せて王都が壊滅!誰も幸せにならない未来しか待ってないですよ!」


「君の考えが分からないわけでもないのだが……」


 いつの間にかよじ登ってきていたゲンゲツが、ひょっこり穴から顔を出す。


「真を騎士団の手から逃がしたところで、助けられるのはどちらか一つ。逆もまた同じだ。しかし、知っての通り彼の望みはそうではなく、できればアンスリウムとクリーデンスの両方をどうにかして救えないかと考えている。ならば、真の願いを叶えるために必要なものを用意しようとすれば、必然的に……直前に控えた窮地は自分で脱してくれることに賭けるしかない」


「それで、シン君が死んだら?」


「そこまでだった。そういうことは、ままある」


 ゲンゲツはさっぱりとした口調でそう言うと、再び穴の底へと姿を消した。遠ざかっていく足音を聞きながら、ラウルは一人で頭を抱える。


「どこまで勝手なんだあの人たちは!」


 初めから、最後までそうだ。協調性とか、調和とか、そんなことを物ともせずに、やるべきことを勝手に決めて、そこに向かって走り出してしまう。今までは同じ方向に走っていたからいいものの、三方バラバラに一斉に走り出されたら、一体自分はどうしたらいいのか。


「それより何より、あんたらは王城に入るの簡単かもしれないけど、俺一人ではどうしようもないじゃないか!」


 シンくんを助けるためには王城に入る必要がある。その壁は果てしなく高い。精神的にも、物理的にも。アンスリウムのような地位も力もなければ、ゲンゲツのような知識も隠し玉もない。そんな自分に、一体何ができるというのか。ここで終わり?とんでもない。勝手に置いて行かれてたまるか。


 衝動のままに、空いていた穴に身を投げ出す。思っていたよりも深い穴の底に尻餅をついて、ラウルは低く呻いた。竪琴を庇いながら、痛みを耐えて体を起こす。上から声が降ってくる。


「ラウルさん、道を抜けた先に厩舎があります!馬を一頭お使いください!」


 アストラガスだった。彼の言葉に頷いて、ラウルは駆け出す。真っ暗な道を躓きながら直走った。






 全ての人が去った礼拝堂で、アストラガスはじっと成り行きを見守っていた仲間たちを振り返る。彼らは一様に、全てのあらすじを知りたがっていた。


 静まり返った祈りの場で、小さな足音が響く。ポラリスはかつて己が縛り付けられていた祭壇へと上がると、そこから全てを見渡した。老婆が祈りを捧げながら祭壇を仰ぎ見ている。王都から毎年一度、顔を見にきてくれる人。娘さんが二人いて、どちらも結婚して近くに住んでいるのだと幸せそうに笑っていた。年若い少年の名前はルーク。近所の村に住む子で、毎日熱心に礼拝堂にきてくれるのはいいけれど、いつも同じ場所に座って、いつも同じ腕組みのポーズで居眠りをしてしまう。私が祭壇から降りると途端に目を開けて、楽しそうにパチパチと手を叩く姿が愛らしかった。隣の人に挨拶を交わして席に腰を下ろそうとしている中年男性は、街道近くの寂れた古屋に住んでいる彫刻家。人好きのする人で、人里離れたところに住んでいるはずなのに友達がたくさんいて、私にもいつも気軽に声をかけてくれた。


 みんな、みんな、楽しそうに幸せそうに笑っている。それはごく普通の、平穏な日常が切り取られた光景。


「ここに、苦しみはないのですよ」


 声が響いた。ステンドグラスから、木漏れ日が差す。


「あの日、誰もがみんな笑っていました。幸せでした。温かな日差しに包まれたまま、私たちは石になった。けれど、苦しみはありませんでした。あれからずっと、永遠に幸せだったのです。けれど私たちは、あなたたちを苦しませてしまった。苦痛と憎悪を消すことができなかったのは、ここに私たちがいたからなのです」


 短い時間の中で、ポラリスは最後の使命を果たすことに決めた。きっと自分は、このためにここに呼ばれたのだ。


「礼拝堂の扉を閉じなさい。何人たりとも入れぬように。あの日の憎悪を思い出さぬよう。ただ私たちは幸せだったと、御伽噺のように語り継いでほしい」


「ポラリス様……」


 アストラガスが彼女を呼んだ。ポラリスは応えなかった。


「北の教会は、今を生きるあなた達のものです。過ぎ去った私たちのものではなく。あなた達は、あたな達の人生を生きて」


 星の神殿。ファング王国が栄光をほしいままにした時代、この場所はそう呼ばれていた。天井のステンドグラスから差し込んだ日が、祭壇というにはささやかな装飾の檀上を照らす。桃色の髪が透けるように光り、穏やかな光がポラリスの頬を濡らした。整然と並んだベンチがキラキラと日の光を反射する。まるで宝石でも埋め込まれているみたいに、礼拝堂の中はチカチカと光が点滅を繰り返す。夜空に煌めく星のように。早朝に輝く露のように。祝祭に飾るオーナメントみたいに。寂れた木造の大扉が開く軋んだ音がする。人々の笑い声が聞こえる。騒々しい足音が流れ込んできて、誰もが笑い合いながら席へ座る。

「腰を痛めてね」「あら大変、お医者さんはなんて?」「孫が生まれたのよ」「明日の寄り合いの時間だが、少しズラせんかな」「帰りにご飯食べて帰りましょうよ」「ポラリス様、おひしぶりです!」


 賑やかで、楽しい日々だった。もう一度この風景を見られただけで、十分。


 ポラリスは静かに瞳を閉じる。やがて彼女の姿は、まるで夢のようにキラキラと輝く星の海に消えていった。

後にはなにも残らなかった。


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