贖罪-2
桃色の瞳と視線が交じる。
祭壇の少女が深く呼吸をするのを、アストラガスは息を止めて眺めていた。彼女の瞳が窓から差し込む光を反射して、キラキラと星のように輝く。瞳と同じ桃色の長い髪が、絹のように肩から滑り落ちた。
「ポラリス様……?」
アストラガスの問いかけに、少女はゆっくりと頷く。翳った瞳で礼拝堂の中をゆっくりと見渡して、彼女はひとつため息をついた。
「知っていたのです。この未来を、私たちはずっと昔に見ていましたよ」
そうして射抜くような瞳で、祈るように膝をついていた少年を見た。
「あなたが今代の訪い人なのですね。名前を教えてくれますか?」
少年は顔を上げて、毅然と答える。
「海良真です」
「海良くん。そう……、あなたには申し訳ないことをしました。まさか、こうなるとは私も先代も、予想すらしていなかったのですよ。予言巫としては恥ずかしい限りだけれど」
そしてポラリスは、そこに並ぶ一人一人の顔をまじまじと見た。初めに視線を向けられたアンスリウムが慌てて膝を着く。騎士としての礼を取った彼を見て、ポラリスは嬉しそうに笑った。
「王国は健在なのですね。あなた、お名前は?」
「アンスリウム・クルシアと申します」
「まあ!では、ロゼア様のお家の方ね!言われてみればなんとなく目元が似ているわ」
階段をゆっくりと降りながら、ポラリスは子供のように手を叩いて笑う。悪戯っ子のような瞳で、跳ねるようにラウルの方へと近づいた。緊張に肩を硬らせているラウルの前に立つと、彼女は小首を傾げて問う。
「吟遊詩人の貴方。素敵な調をありがとう。よろしければお名前をお聞きしても?」
「ラウル・オルフェイスと申します。予言巫様。私のようなしがない放浪の身に、勿体ないお言葉です」
畏まって頭を下げたラウルに再び礼を告げて、ポラリスは視線を上げた。真っ直ぐに見据えた瞳の先で、悠然と構えたゲンゲツが笑う。
「話に聞いていた通り、レンゲとスミレにそっくりだな」
「そう言うあなたは、レンゲおばあ様たちのお話に聞いたまま。ゲンゲツ様、我ら教会一同、あなたのご帰還をお喜び申し上げます。みんな、ずっとお待ち申し上げていましたの。まさか、立ち会えるとは思っていませんでしたが」
にこりと破顔して、ポラリスは笑う。本当に嬉しそうに彼女が笑うものだから、ゲンゲツもまた、穏やかな笑みを口の端に乗せた。
そうして、彼女はついにアストラガスへと向き直る。陽の差し込む静かな礼拝堂を、穏やかな靴音を鳴らしながら、彼女はゆっくりと歩みを進め、固まったまま微動だにしないアストラガスの元へと近づいた。
未だ信じられない心持ちで、固唾を飲んでその光景を眺めているアストラガスの前へと立つと、彼女はそっと両膝を床へ付いた。
「巫様!?」
「この様な酷い仕打ちを強いてしまったこと、本当にごめんなさい。どれだけ謝っても、償うことはできないけれど、でも貴方たちには本当に、酷いことをしてしまったわ」
「巫様、立って!顔を上げてください。私たちが好きでしてきたことです。私たちが選んだことです。貴方は何も悪くない。悪いのは……」
そこまで一息に言って、アストラガスの心臓が嫌な音を立てて跳ねた。今自分は、なんと続けるつもりだった?ポラリスを見つめていた視線が、無意識のうちに一人の少年へと移動する。祭壇の真下でじっとこちらを見ているあの子。心からの安堵を抱いて、強い瞳でこちらの様子を伺っているあの少年。
彼が何をした?
己が己に問いかける。答えたのは、数刻前に刻まれた礼拝堂の残像だった。
この世の悪意を一身に受けて、ひとりぼっちで立ち尽くす彼に、寄り添った騎士の男がいた。男は言った。彼は一度たりとも、誰かの破滅を願ったことなどないのだと。
獣人を救いたいのだと聞いた。家に帰りたいのだと聞いた。謝りたいのだと言っていた。
言葉の一つ一つが、鮮やかな色彩を伴って耳に蘇る。そして唐突に、あの雨上がりの陽の下で、彼が一番初めに訪ねてきた時の情景が目の前に広がった。
ああ、思い出した。
彼は私を訪ねてきてくれたのだった。一言お礼をいうためだけに、彼はここまで来てくれたのだ。
「悪いのは私なのよ。私たちなの」
穏やかな声で、ポラリスがそうボソリと呟いた。遠い過去を思い出すように、彼女はゆっくりと礼拝堂を見渡す。かつての繁栄の面影を宿したまま、石となったまま動かない人々を視線で辿りながら、遠い過去を思い出すように言葉を紡ぐ。
「この未来を、先代の予言巫であるスミレ様はご存知だったのです。いつか教会に滅びの時が来ると、私たちは知っていた。知っていて、滅びを受け入れたのです」
話しておくべきですね、とポラリスはひとつ零して立ち上がる。近くにあった椅子へ腰掛けると、隣に座っている老婆の硬くて冷たい手をそっと握った。
「それがいつかまでは知らなかったのですよ。ですけど、私の代であることは分かっていました。原因が、精神的に追い詰められた訪い人であることも」
「なぜです……?なぜポラリス様は、それをお許しになったのですか?」
困惑したアストラガスに、ポラリスは笑う。
「諦めきれなかったの。東の塔の人々を」
誰もが絶句した。言葉も出ず、彼らはポラリスを見つめることしかできなかった。
「私の代になった時にはすでに、臣民が獣人化したという真実を信じる者は国府のごく一部の人間と、教会の者だけになっていました。私はレンゲおばあ様とスミレ様の遺志を継ぐ予言巫です。ですから当然、獣人が塔の研究者たちだと信じていたのですよ。そして初代国王からの言伝も残っていた」
「何を犠牲にしても、東の塔を諦めるな」
ゲンゲツが鎮痛な面持ちでポラリスの言葉を引き取る。それは西の古城の地下で、ゲンゲツから聞かされた、国王フェルトブッシュの最後の書簡の内容だった。その言葉を初めて聞いたアストラガスは言葉をなくし、突然突き付けられた真実に目を白黒させていた。
ゲンゲツの言葉を聞いて、ポラリスは悲しそうに瞳を伏せる。
「ええ、だからもし、訪い人に東の塔を救える可能性があって、その過程に教会の滅びがあるのだとしたら、それを受け入れようと思ったのです。良かったのですよ、それで彼らが救えるのならば。だからね、私たちが滅びることは知っていました。滅びた先の未来は見えなかったし、見る者も残せなかったから、まさかこんな風に貴方たちとお話しできるとは思っていなかったけど」
そうしてひと呼吸置いて、ポラリスは再びアストラガスへ頭を下げた。
「まさかこんな風に私たちの遺体が残ることになるとは、夢にも思っていなかったの。本当にごめんなさい。こんな目に見える形で残ってしまったから、貴方たちはここへ縛りつけられてしまった。忘れられなくなってしまった。本当に、ごめんなさい。貴方たちには貴方たちの人生があったはずなのに」
「やめてください、巫様。私たちは……そんなつもりで……」
否定しようとして、アストラガスは次の言葉が告げられずにいた。墓守は、そんなつもりで彼女らの墓石を守っていたつもりはない。滅びた教会に縛り付けられていたわけではない。そう言葉にしたいのに、口から出てくるのは乾いた吐息の音だけだった。
縛り付けられていたではないか。私たちは。
喉が震える。呼吸が早くなるのが分かった。
教会を滅ぼした異邦人への憎悪に、ずっと縛り付けられてきた。大切に大切に、毎日礼拝堂の扉を開けて、かつてのままの憎悪を360年保ってきたではないか。教会の墓守と自分たちでは銘打っておきながら、人々に心の安寧と高潔さを説いておきながら、私はただ醜い憎悪の欠片を毎日磨いてきただけだったのではないか。
だとしたら、自分はなんて非道で醜い人間だろう。ただ、正しくあれと己を律して生きてきたつもりが、正しさが誤っていたのだとしたら。
今までずっと目を逸らしていた、胸の内に響く泣き声が、今ははっきりと聞こえる。冷静で、公明正大で、慈悲と慈愛を持つ正しい人になりたかった。少年が「あなたのようになりたい」と言ってくれた、そんな私でありたかった。人は誰を断罪することもできない。正しい人などいないからだ。私が信じていた正しさも、一皮剥いてみれば醜い独善だった。一筋、涙が頬を伝う。視界が歪む。寄る辺のない世界で、アストラガスは瞳を閉じた。
「私は酷い人間です。傲慢で、不遜で、どうしようもない」
奥歯を噛み締めて、アストラガスは懺悔する。小さな声で呟いた「悪いのは、私だ」
「いや、違うでしょ」
空気を切り裂く様にそう言ったのは、海良だった。驚いたアストラガスが瞳を開けると、そこには仁王立ちの海良がしっかりと二人を見据えて怒った顔をしていた。
「間違ってなかっただろ、アストラガスさんは。どんな理由や経緯があったとしても、教会をこんな風にしたのは異邦人で間違いないんだ。怒って当然だし、同類である俺を責めるのもそんなに筋違いじゃないし、国が決めてるんだから捕縛して差し出すのも間違ってない。アストラガスさんは何も悪いことしてない」
静まった礼拝堂に、小さく笑い声が響いた。隅の方で、口元を抑えたアンスリウムがクスクスと声を殺して笑っている。海良が剣呑な目で睨んでいるのに気がついて、彼は「失礼」と未だ笑いを含んだ声で謝った。
「そこで庇うのか、と思うと愉快で」
言い訳にもならない理由を口にして、アンスリウムは面白そうに三人を見る。頬を膨らませて、海良は口を尖らせた。
「初めて会った時、アストラガスさんみたいに在りたいって思ったんだよ、俺。理性で切り分けて、正しくありたいって思った。これはその真似してるだけだから。それにさ」
言葉を切って、海良はポラリスを見る。悲しそうに俯くポラリスに笑いかけながら、声を弾ませて言った。
「アストラガスさんたちがポラリスさんたちを大切にしてくれていたおかげで、俺はあなたと話すことができたんだ。教会の備品を見たおかげでゲンゲツを人の姿に戻すこともできた。もし墓守の人たちが教会を捨てて散り散りになっていたら、どうにもならなかったんです。だから、ほら。もう悲しそうな顔しないで」
あとは石になったままの信徒を人に戻すだけなんだ、と海良はあっけらかんと笑った。地下で眠っていたタブレットでは、信徒一人一人の情報を得ることはできなかったが、ポラリスが意識を取り戻したとしたら話は別だ。彼女から人となりを聞いて、ラウルが歌を作って、海良が魔力を注げば、そのうち全員を人に戻すことができる。そうすれば、次は東の塔だ。獣人たちをみんな人へと戻して、この話は一件落着。みんなが幸せになる。
みんなが幸せだ。誰一人、不幸な人なんていない。大手を振って家に帰れる。
海良の脳裏に、人影が掠めた。
日に照り返った金の稲穂。透ける様な柔らかな髪をしたあの人。クレイの愛した人はもう戻らない。彼だけが孤独を抱えたまま、この世界に取り残されるのだろうか。
ふとアンスリウムの方を見る。楽しそうな顔をしてこちらを見ていた彼は、海良が自分の方に視線を寄越したことに気がつくと、不思議そうに首を傾げた。アンスリウムなら、どう言うだろう。忘れろ?お前が気負う必要はない?嘲る様にそう言ってくれるだろうか。
教会に静かな沈黙が落ちる。ポラリスが視線を落として、何度か手を握り、握っては開いてを繰り返す。神妙な面持ちで、ゲンゲツがその挙動を見つめていた。
不意に振動が大気を伝った。微かに地面が揺れる様なその音に、アンスリウムが眉を顰めて腰の剣に手をかける。ゲンゲツもまた、何かを探るように窓の外へくま無く視線を巡らせた。そうしてひたりと入口の扉を睨め付けた二人の緊張感を察して、ラウルもまた腰を上げ、いつでも動き出せるように臨戦態勢を取る。
複数の足音が近づいてくる。その時になってようやく、アストラガスと海良も、異常事態に気がついたようだった。
「シン、ポラリス様とアストラガス殿を連れて俺の後ろへ」
アンスリウムが海良を促す。海良は頷くと、二人の手を取ってアンスリウムの後ろへと駆け寄った。
「ゲンゲツ、お前どの程度動ける?」
「私は騎士ではなく衛士だ。それに今は得物もない。戦力という意味でなら、獣人の時の方が役に立った」
「期待しないでおこう」
「そうしてくれ」
軽口を叩きながら、二人は足音を出迎える。明らかに鎧を身につけている重々しい足音は扉の前で立ち止まると、一瞬の空白の後に勢いよく礼拝堂へと雪崩れ込んできた。
「アストラガス、騎士団が来てくれたぞ!無事か!」
墓守の声が響き渡る。アストラガスは驚愕に目を見開いて、その光景を見た。深緑の旗印と揃いの鎧を身につけた騎士たちが、隙なく陣形を組みながら礼拝堂を包囲する。それに守れるように、自分以外の墓守たちが中の様子を伺っているのが見えた。
「どうしてこんなに早く……」
アストラガスが呆然と呟く。労るようにポラリスが彼の腕を触った。
「手紙はまだ出していないのに。確かに、机にしまったはず……」
騎士団へ宛てた、異邦人捕縛の知らせは未だアストラガスの机の中にある。だから、彼らがこんなに早く教会へ辿り着くのはどう考えてもおかしかった。少年が逃げ出したと同時に友人たちが知らせに走ったとしても、いくらなんでも早すぎる。
戸惑うアストラガスを置いて、騎士団が距離を詰める。その中から騎士が一人歩み出てきて、身につけていた兜を脱いだ。美しい顔つきをしたその男は鬼の様に形相を歪めながら、地を這う様な声で言った。
「団長、あなた、こんなところで何をしているのですか」
「シルビオ……」
団長と呼ばれた男は、苦虫を噛み潰したような顔で腹心の名前を呼んだ。アンスリウム・クルシアを団長と呼ぶ彼らは、名を深緑騎士団と言った。
「団長はあの地割れに巻き込まれて、死んだと思っていましたよ。それが突然、手紙が届いたと思ったら、異邦人を連れて教会へ行くだなんて、俺らがどれだけ心配したか分かってますか?」
「シルビオ、悪かった。心配をかけた」
「心配をかけたとか、かけなかったとか、そんな話じゃないんですよこっちは。今すぐ王都へお戻り願いますよ、団長。時間がないんです」
頭を下げるアンスリウムの言葉を冷たく切り捨てて、シルビオは背後を振り返って団員へと声をかけた。
「おい、異邦人を捕縛しろ。一緒に王都へ連れていく」
「ちょっと待て、話を聞いてくれ」
声を荒げて制するアンスリウムを意に介さず、シルビオを初めとした騎士団たちは容赦なく歩み寄る。未だ抵抗の意思を見せるアンスリウムを呆れの浮かんだ瞳で眺めながら、シルビオはまるで子供を言い含める様に言葉を紡ぐ。
「時間がないって言っているでしょう。とにかく戻ってきてください、団長」
「シルビオ、頼むから俺の話も聞いてくれ。異邦人と、獣人の話だ。彼らは¬——」
「団長!いい加減にしてくれ!」
シルビオの怒鳴り声が教会に響いた。今まで聞いたことがない彼の激昂に、アンスリウムが思わず息を呑む。震える声を抑えながら、シルビオは長く細く息を吐き出した。努めて冷静に、舌の上に言葉を乗せる。
「いいですか、団長。よく聞いてください。今、ファング王国は危機に瀕していて、団長にはすぐに、王都に戻っていただく必要があります。本当に貴方が生きていて助かりました。貴方じゃなければだめだ」
固唾を飲んで見守る中で、シルビオは重々しく無慈悲に告げた。
「クリーデンス・クレイウォルターが反乱軍を率いて王都に迫っています」




