旅の始まり-6
深く穏やかな声で、クレイは続ける。
ある日、北の教会が言った。「この地に異邦人が降り立つ」と。それは吉兆に違いないとファング王国の民衆は喜んだ。そうして人々が望んだ異邦人が、どこからともなく東の塔へと現れた。しかし時を同じくして、東の塔に異変が起こる。獣のような集団が、一斉に東の塔を襲ったのだ。人々は逃げ惑い、そうしてかつては英知の郷と呼ばれた町がゴーストタウンと化した。
「北の教会は言いました。異邦人とは吉兆などではなく、災厄の兆しであったのだと。人ならざる物をこの地へと招き、ファング王国を滅亡させる存在だと。しかし国王は反論します。確かに異邦人は災厄と共にやって来たが、彼らは災厄を知らせるために遣わされた存在に違いないと。そうして、我々は異邦人を巡って対立することとなりました。」
北の教会の書物にはこう記されている。
異邦人とは獣人の儀式によって人の国へともたらされる災厄である。これが王国の地を踏むと、呪いが王国に蔓延し、多くの民が苦しみ、ついには国が亡ぶ。獣人は一定の周期に則ってこれを召喚し、異邦人は必ず東の、呪い返しの地へと降り立つ。ファング王国の民であるならば責を以てこれを必ず確保すべし。
この伝承に従って、北の教会に従う者たちは召喚の兆しを見て取ると、呪い返しの地にかけつけるのだという。
「確保とは言っていますが、していることは拉致監禁です。教会へと引き立てられれば最後、君には辛いことになる。そして、それを阻止するのが俺の役目です。少しは分かってもらえたかな?」
「はぁー…、何で俺がこんな目に…。」
受け入れがたい。なんとしても受け入れがたい。違う世界に引っ張って来られて、そのうえで命を狙われているなんて、一体何で俺がこんな目に合うんだか。頭を抱えてうんうんと唸ってみる。何かが解決するわけではないが、少し気分が軽くなる。悩んでいるというのは、存外気分がいいものだ。何かをやっているような気になる。
「残念な事に、教会の言葉はファング王国の民に大きな影を落としました。人々は異邦人を嫌い、見つければ捕えて教会へ渡そうとするでしょう。だから俺は、そうなる前に君を保護しにやって来た。さっきの連中も、君を攫いにやってくる。だから俺と一緒に別の土地へ逃げて欲しい。」
「別の土地っていうと、じゃあ王都?ってところに行くってことになる?」
そう問うと、クレイは妙な顔をした。それは例えるならば、まるで黙っていた授業参観がバレた時のような、ピーマン苦手だったっけと問われて、いや食べられないワケじゃないけど…と言葉を濁した時のような、そんな決まりの悪い微妙な顔だ。
「最近では王都でも、異邦人が安全に暮らせるとは言えない。人々が怯えているからね。真を王都に連れて行くのは得策ではないんだ。だから、少し遠回りをしてもらう事になる。俺が君に安全な場所を用意するから、そこでしばらく暮らしましょう。君にとっては不本意かもしれないけれど、王都の民を説得するのは諦めてくれないかな。」
「ぜんっぜん不本意じゃないけど?王都である必要ない。ぶっちゃけ。どっか安全に暮らせる場所があるなら、是非案内してほしい。そんでそこで腰を落ち着けて、さっきの狼男と連絡取れば、家に帰れるよな。っていうかあっちまで俺を迎えに来たのが狼男だってことは、異邦人は教会が言うとおり、その「ひとならざるもの」が連れてきたってことか。じゃあマジで俺厄介者じゃん。さっさと連れて帰ってもらおう。よし決まり!」
「あの…、真?」
おずおずとクレイが問いかける。戸惑う彼の姿に、海良は小首をかしげる。自分は何か間違った事を言っただろうか。異世界に来たとか来ていないとかは良く分からないが、目下にあるのは自分の命が狙われているという問題で、それを回避するにはとにかく逃げの一手だと思ったのだが。
もしかしたら、命を狙う敵の前へと堂々と姿を現すこの男は、一直線に出した逃げるという答えが気に食わなかったのかもしれない。そういえば、先ほども変な事を言っていた。王国の民を説得できないのは不本意だ、とかなんとか。
だから、彼には俺の提案が受け入れがたいのか。と、海良は勝手に結論づける。
まずは人間らしく対話の機会を持つ努力をして、分かり合う事を諦めるな、と。そう言いたいのか。
でも、だからといって自分を嫌っている人のところへわざわざ出向くなんて、そんな恐ろしいことはしたくない。
ここはなんとかして、クレイさんには納得してもらわないと。そのためには逃げの一手の有用性を説かなければ。
決意を新たに、海良は口を開く。瞳は真っ直ぐにクレイを見つめて。
「俺は死にたくないし、ここが異世界だっていうなら元の場所へ帰りたい。だからとにかく、この世界の人が俺を殺そうとしているなら、危ない所には近づきたくないです。見ず知らずの人間を捕まえようとかしている奴らを説得なんて出来るはずないし。まずはあの人たちから逃げ切って、それから家に帰る方法を探すのが最善だと思うけど、右も左も分からないような俺一人ではきっとどうにもならないし、できればクレイさんに一緒に居てもらえたらなって…思うんですが。どうでしょうか。」
初めは力強く響いた声も、後半にはしおしおと萎んで、最後の方は自信なげに伺うものとなっていった。
冷静に考えれば、クレイさんには俺に付いてこなければいけない理由はない。ただただ、彼の好意によってここまで付き添ってくれただけで、彼の意に沿わない行動を俺が取るのだとすれば、別にそこまでお守りをする義務は彼にはない。
目の前の男が一体何を望んでいるのか急に分からなくなって、海良はがっくりと肩を落とす。怯えるようにおずおずと、クレイの顔を下から見上げて伺った。
「クレイさん、俺…。」
「いや、違うんだ、真。俺が、異邦人というのは誰もが平和主義者なんだと思い込んでいた。だからきっと君も、危険を顧みずに皆の説得を試みるのだろうと…。」
「やだよ、知らねぇもん、そんな奴らなんか。」
顔を伏せて、両手で膝を抱え込む。
焚火がパチパチと爆ぜて、闇夜を蛍のようにフラフラと舞う。それはしばらく漂ったあと、ふつりと消えた。あたりはすっかりと暗くなっていた。大きな闇が、どっと海良を押しつぶすように辺りに迫る。手足が悲しいほど冷たく感じた。
そっと頭を撫でる手があった。さして柔らかくもないだろう毛先を擽るように触れた後、その手はそっと海良の頬に添えられる。導かれるように頭を上げると、そこには橙色に温かく照らされたクレイが、こちらを見て、目を細めながら座っていた。
「逃げましょう、一緒に。どこまでも、俺が君を守るよ。」
クレイの指が、そっと海良の目尻をなぞる。輪郭を確かめるように、指先が優しく顎へと触れた。
その感触があまりにも甘くて、海良は思わず身を引いてしまう。自分で離れておきながら、遠ざかってしまった体温にどこか物悲しさを感じながら。
「クレイさんはさ、何でそんなに俺を、その、守るとか言うの。仕事だから?」
「そうだな…。」
海良から引いた手をそのまま自分の顎へと持ってくると、クレイはわざとらしく考えるポーズをとる。勿体ぶるように数秒沈黙し、花が綻ぶような笑顔と共にこう言った。
「俺は、君が好きなんだ。」
「え…?」
頭の中が真っ白になる。突然示された好意は意味が分からなかった。
「何で、俺、あんた、会ったばっかり。」
しどろもどろに言葉を紡ぐ度に、どんどんど耳が熱くなっているのが自分でも分かる。こんなに優しい声で、好きを告げられたのは初めてだったから。
「確かに真とは会ったばかりだ。でも、俺はずっと君の事が好きだったよ。」
「嘘…、何それ。」
「嘘じゃないけど、そうだな、夢のような話ではある。そのうち分かるさ。」
夢。その言葉に、何かが引っ掛かった。
最近、不思議な夢を見た気がする。誰かが泣いていた。それは、どうしてだったっけ。思い出せない。涙の落ちる音がする。鉄錆の香りが鼻をついた。
「別に真にどうこうしてほしいわけではないんだ。ただ、覚えていて。俺は君が好きだ。君を守るよ。この命に代えても。さあ、寝ようか。明日からは厳しい旅路になる。」
暖かな手が海良の背を摩った。覗き込んだ瞳が、暖かな炎を照り返してキラキラと輝いている。その視線から逃れるように、海良は地面へと寝転がった。
そういえば、あの狼男はどうして俺を追ってくるんだろう。人間に捕まれば、ひどい目に合うだろう事は分かった。じゃあ、あの狼男に捕まったら……?
ドロリとした眠りが海良の意識を奪っていく。明日聞けばいい。明日、クレイさんに聞いてみよう。覚えていたら……明日……。
頬の下の砂利は冷たく尖って冷たかったけれど、ゆらりと照る焚火の暖かさを感じながら、海良は泥のように眠った。。