贖罪-1
人一人がかろうじて通れるほどの小さな横穴を通って、海良たちは暫くぶりに部屋の外へと出た。ロータス教会へ辿り着いた時には空に高く上がっていた日もすっかりと落ちて、世界には夕暮れの薄闇が漂っていた。
小部屋の隅に備えられていた秘密の脱出口は、教会礼拝堂の裏手にある茂みの陰へと繋がっていた。海良が服についた土埃を払っていると、周囲の様子を軽く見回っていたアンスリウムが寄ってきて、ぶっきらぼうに「後ろ」と言い放った。
「後ろ?」
「ああ、後を向け。背中が砂だらけだ」
そう言われて手を伸ばす。確かに、指先にざらりとした感触が触れて、どうにもひどいことになっているという想像がついた。肩を後方に回して、背筋が千切れそうなくらいに両腕捻ってみるが、健闘も虚しく、両手は宙を舞うだけで終わってしまった。
「あれ?まだ若いはずなんだけど、届かない」
「無理をするな、あと見栄を張るな。運動不足にもほどがある」
「シンくん頑張れ!たぶん思ってるよりも全然届いてないです!」
二人の声援を受けながらもう一度トライしてみるが、やはり背中に触ることすら難しくて、ついには肩甲骨が嫌な音を立てたので、海良は泣く泣く体を戻して口を尖らせた。
「もういい、俺は砂がついたままで行く。修羅場を超えたみたいでむしろ格好いいと思うね」
アンスリウムが大きくため息をつく。
「だから後ろを向けと言っているだろうに」
そう言って、彼は大股で海良の背後へと回ると、片手で海良の肩を強く掴み、もう片方の手で背中の土埃を払い始めた。
驚いたのは海良の方だ。ギョッとして思わず彼の方を振り返りそうになるが、肩に置かれた手がそれを頑なに拒む。有無を言わさぬ握力で押し返されて、海良は大人しく前を向いた。
まさか、あのアンスリウムが俺の世話を焼くだなんて。
今までほとんど触れる機会のなかった大きな手のひらは、思っていたよりも力強くて熱い。それがひどく恥ずかしく思えて、海良は耐えきれずに俯いて地面を見つめた。
旅の途中、彼にはほとんど触れる機会はなかった。ラウルとゲンゲツとはよく肩を寄せ合って笑い合ったし、夜更かしして雑魚寝もした。けれど、そこにいつもアンスリウムの姿はなかった。
それがどういうわけか、礼拝堂から今までアンスリウムがずっと側にいる。
嫌悪と悲嘆に絡め取られたこの腕を、頬を、手を取って真摯に語りかけてくれたアンスリウムの姿が瞼の裏に鮮明に浮かぶ。「シン」と、彼が俺を呼ぶ声が、力強く蘇る。
驚嘆と羞恥がない混ぜになって、鼓動が不気味なほどに早くなるのが分かった。
「シン」
耳朶をくすぐる柔らかな声がした。記憶の中と寸分違わない声が海良を呼ぶ。慌てて振り返ろうとする海良の体を押し留めながら、アンスリウムは暖かな声で続けた。
「ゲンゲツの事だ。よく頑張った。君がやり遂げたことを、俺は誇りに思う」
それだけ言って、彼は最後の仕上げとばかりに海良の背中を一度、強く叩いた。そして何事もなかったかのようにその場から離れると、未だ混乱したままの海良を放置したまま、礼拝堂の壁へと背を預けた。ゆったりと腕を組んで彼は問う。
「それで、この後は礼拝堂へ向かうんだな?」
その答えは決まりきっていた。
胸を張って、動きを阻む物がなくなった体でアンスリウムを振り返る。ひたりと彼を見据えると、彼もまた真摯な面持ちで海良の発する言葉に耳を澄ませた。
「ああ。教会へ行って、ポラリスの石化を解く」
「俺の意見は変わらない。礼拝堂へ戻るのは危険だ。せっかく誰にも気づかれず外へ出られたのに、再び捕まる可能性がある。今度は問答無用で命を奪われるかもしれないぞ」
アンスリウムにしては随分と手ぬるい脅しだと、海良は思った。彼はもう、この程度の脅迫で俺が止まらないことを知っている。知っていて、それでも彼は否定する。初めからそうだった。辛辣で、痛烈で、容赦ない反証によって、彼は海良真という人間の輪郭を浮き彫りにする。
「それでも俺は行くよ。それで?アンスリウムはどうする?」
意地悪く瞳を歪めた海良の言葉に、アンスリウムは面食らった。まさか彼が問い返すとは思わなくて、一瞬言葉に詰まった後、諦めたようにひとつため息を吐く。少し離れたところでラウルが声を上げて笑った。お手上げだ、と両手を上にしてアンスリウムはがっくりと肩を落とす。
「行く。当然だろう」
「じゃあ決まりだ。ゲンゲツが合流したら、アストラガスたちにバレる前に礼拝堂へ入り込んで、さっさと終わらせちゃおう」
「僕には聞いてくれないんですか?一緒に行くかどうか、聞いてほしいなぁ」
わざとらしくラウルがそう言うので、海良は努めて子供っぽい表情を作りつつ、口を歪めてつっけんどんに返事した。
「聞かなくてもどうせ来るだろ。一人で野宿もできないんだし」
「え、ひどい」
「それに、ラウルが来てくれないと困る。俺も一人じゃ何もできない」
ラウルは驚いて息を止めた後、弾けるように破顔して海良の頭を両腕で抱え込んだ。そのまま彼の髪を乱暴にかき混ぜる。笑い声を上げながら逃げようとする海良を逃すまいと、ラウルもまたクスクスと笑いながら海良の首にしがみ付いた。
「なかなか言うようになりましたね!」
「まだまだラウルさんには敵いませんって。離して!」
「大嘘つき。悪い子ですね、シンくんは。これは教育的指導が必要だ」
「必要ないです!アンスリウム先生助けて、ラウルくんがいじめます!」
「先生、僕いじめてないです!シンくんが人を誑かすのが悪いと思います!」
戯れ合う二人を微笑ましく思いながら、アンスリウムがわざとらしく「うーん」と唸る。勿体ぶるように間を置いた後、彼は残念そうにつぶやいた。
「シンが悪い。しばらくそこで反省していなさい」
「横暴だ!公権力の私的行使だ!」
咄嗟に上がった海良の反論に、アンスリウムは耐えきれなくなって、ついに声を上げて笑った。ビクリと二人の動きが止まる。呆気に取られたようにこちらを見ているのには気づいていたが、もうどうにも止まらなかった。
「アンスリウムってそんな風に笑うんだ。意外」
呆然と海良が言う。
「俺も人間だからな、笑う時は笑うさ」
目尻に溜まった涙を拭いながら、アンスリウムはなんでもないように答えた。
「待たせて悪かった。楽しそうなのは良いことだが、あまり大きな声を出すと墓守たちに居場所が知れるぞ」
礼拝堂の影から顔を出した青年が、呆れた顔で肩をすくめた。毛並みと同じ鈍色の髪が滑らかに流れ、鋭い眼差しが月のように弧を描く。古風な衛士服についた土を長い指で軽く払いながら、地上の太陽の元で、ゲンゲツは愉快そうに口元を緩めた。
「ゲンゲツ、本当に人間だったんだな」
アンスリウムが言う。嫌味の一つも混ざらない純真な言葉に、ゲンゲツも気を悪くすることなく、当然と頷いた。
「昔に比べると多少雰囲気は違うが、これが本来の私だ。ファング王国創世期における三英雄の一人、ゲンゲツ・セネシオだとも。拝んでくれてもいいぞ」
「俺の家柄から考えれば、拝んでおく方がいいんだろうが……、今更そんな気にもならないな。結局のところ中身はゲンゲツだろう」
「君のそういうところは、ご先祖との血のつながりを感じるよ」
「アンスリウムさんのご先祖さんといえば、ゲンゲツさんの同僚なんですよね?そう聞くとなんだか本当に、歴史上の人物に会ってる感ありますね。すごい」
物珍しそうにゲンゲツを眺めながらラウルがそう言うと、ゲンゲツも大きく頷いて、改めて自分の格好をまじまじと見下ろした。
「大人になってから士官学校の制服を着た時の気分だ。なんとなく気恥ずかしい」
「それは……恥ずかしいな」
アンスリウムがしみじみと頷く。
「俺まだ分からないや」
「僕もイマイチ」
海良とラウルが照れている二人を不思議そうな眼差しで見た。
「そういえば、タブレット置いてきたんだな。てっきり持ってくるかと思ってた」
ゲンゲツは両手に何も持って来なかった。海良の悪気ない問いに、ゲンゲツはふわりと微笑むと、穏やかな音で「ああ」と漏らした。
「必要なものは全て受け取った。あれは、ここに置いていく」
「そっか」
それ以上は何も言わず、海良はゲンゲツに背を向けた。視線の先には、数刻前に連れられた礼拝堂が静かに佇んでいる。まるで巨大な墓石のように、誰を待つでもなく、誰を迎えるでもなく存在し続けた教会を見据えて、海良は一歩踏み出した。
後ろに三人の足音が続く。星の教会、神坐す丘。その美しい領地を迷いなく進み、海良はついに、その荘厳な扉に自らの手を掛けた。
アストラガスがそれに気づいたのは、騎士団へ届けるための手紙を書き終わり、なんとなくそれを机に仕舞ってから、随分と経った頃だった。
どこからともなく聞こえてくる旋律に、ふと意識が向いた。それは時折瞬く夜空の星のように、大気の隙間を縫って途切れ途切れに届く。じっとそれに耳を傾けて初めて、ああ、これは弦楽器だと気がついた。墓守たちの中に、弦楽器を嗜むものはいない。となると、先ほどの吟遊詩人が手慰みに奏でているのだろうか。たしか楽器は取り上げなかった。きっと彼にとって竪琴は大切なものだろうし、特に取り上げる必要もないだろうと思って、彼に持たせたままにしたのだ。
それを取り上げるのは、ただの嫌がらせじゃないか。そう、仲間達に言った。
美しい音色だ。
ただ純粋に、そう思った。
柔らかく弾かれた弦の音が優しく耳に届く。大気を揺らすように響いては、跳ねるようにきらきらと瞬いて、そしてどこへともなく溶けていく。指先に触れたと錯覚するほどに彼の音階は涼やかで、アストラガスはその心地よさを少しでも近くに感じたくて、静かに部屋の窓を開いた。
微かに密度を上げた音色が風に乗って耳へと届く。彼の奏でる、爽やかでキラキラしい音にふと瞳を閉じた、その時だった。
「アストラガス!大変だ!」
友人の声と同時に、扉が乱暴に開かれる。何事かと目を見張るアストラガスに向かって、彼は肩で息をしながら声を荒げた。
「騎士と吟遊詩人がいなくなった!窓が開いていたから、おそらく外へ逃げ出したんだ!」
そんなはずはない。
咄嗟に、アストラガスはそう思った。
彼らが逃げたのだとしたら、じゃあ、今聞こえているこの音色は一体何だというのか。墓守たちの目を欺いて首尾よく逃亡した彼らが、未だ敷地内で暢気に竪琴を爪弾いているとでも?
そこまで考えて、ふと、彼のことを思い出した。
灯りひとつない地下に閉じ込めている、あの災厄を呼ぶ異邦人のことだ。あれもまた、自分たちに捕縛されると分かっていて、なぜか逃げ出すこともせず、じっと礼拝堂に立っていた。あの時彼は、なんと言っていただろうか?
彼は私に何かを伝えたがっていた。何事かを言うために、わざわざここまできたのだ。
私には、それを知る必要があるのではないか?
ドアの外に慌ただしく足音が響く。墓守の一人が、新しく駆け込んできた。
「おい、地下のやつがいなくなってる!」
「なんだって!?」
「物音がしないからドアを開けてみたんだ。そしたら、姿も形もない!逃げたんだ!」
「今すぐに追いかけろ!大変なことになるぞ!」
二人が声を上げながら走り去るのを、どこか遠いところでアストラガスはぼうっと聞いていた。
心のどこかで声がする。
逃げるわけがない。
そっと、開いた窓から身を乗り出す。柔らかな風が前髪を触って、空の彼方へと舞い上がった。星の音色は今もどこからか鳴り響いている。その始まりを探すように、アストラガスは風を手繰る。
あの強い目をした子が、何もせずに逃げるものか。
導かれるままに、アストラガスは部屋を出て、長い廊下を歩く。その歩みに焦りはない。コツコツと静謐な足音が石造の無機質な廊下に響き渡る。星のような音階は、今や花が綻ぶように天真爛漫な音を教会中に響き渡らせていた。なんの遠慮もない、無邪気なほどの陽気さ。それはなぜか、この教会に酷く似合っていた。
墓石とまで称されたはずの、この死んだままの教会に。
一音一音、近くなる音色に促されるように、アストラガスの足取りは迷いがない。
そしてようやく、彼はそこへとたどり着く。荘厳に彩られた礼拝堂の大扉。その取手に両手をかけて、アストラガスは大きくその楔を開け放った。
長くなったので2話に分けて一気にアップロードします




