弦月
防音の魔術をかけ直した後、ラウルはずっと旅を共にしてきた竪琴を腕の中に抱え込むと、慣れた仕草で一音一音、丁寧に弦を弾いて調律しだした。軽快で美しい音が、埃の積もった小部屋の中に弾むように響く。まだ曲ですらない音の連なりに耳を傾けながら、海良は冷たくなった指先をじっと握りしめていた。手首から先が、凍るように冷たい。気がつけば奥歯を噛み締めている。原因は明らかだった。
緊張だ。
自分は今ひどく、緊張している。
上手くやらなければ、ゲンゲツに何が起こるか分からない。それに、これは自分が始めたことなのだ。今度こそ間違いなく己で考えて、そして皆に提案した。成功しても、失敗しても、何が起こっても、これは俺が背負う責任に違いないのだと思えば、どうしても体の芯が冷えていく。放り出したくなる責任感をしっかりと抱き抱えるようにして、海良は背中を丸めた。
ポロン、ポロンと丸い音が鳴る。それは雨垂れのように連なって、狭い物置の中を跳ね回り始める。心なしか、部屋を照らす明かりが少しだけ明度を上げた気がした。途切れることなく降り注ぐ心地よい音色は、突如としてその姿を消した。唐突に止まってしまった音に驚いた海良が思わず顔を上げると、それとほぼ同時に、海良の隣にどっかりと埃を立てながら、竪琴を持った吟遊詩人が座った。
ラウルは手の中の竪琴を膝の上へと置いて、じっと海良の顔を覗き込む。
「突然、何」
誤魔化すように、ぶっきらぼうに海良がそう言うと、ラウルはじっと瞳を覗き込むようにして顔を近づけた。部屋の隅で、アンスリウムが動揺しているのが見える。ゲンゲツの表情は分からなかった。もとより、彼はどんな時でも鷹揚に構えている上に、顔も毛に覆われていて、真意はほとんど良く分からないのだ。
「共犯ですからね」
ラウルは、噛んで含めるようにそう言った。
「君の背中に重くのしかかっているそれ、たとえどんな言葉をかけても決して軽くなることはないと思うんですけど、まあその分知っていてもらいたいというか」
ひと呼吸置いて、ラウルはキッパリと言い放った。
「おなじだけ、僕の背中にもあるので。その点だけは安心してください。一人にはしませんから」
彼の言葉が驚くほどに予想外だったので、自分が緊張していたことも忘れて、海良はキョトンととぼけた顔でラウルの目を見つめ返す。思わずぽろりと言葉が溢れた。
「慰めてくれてる?」
ラウルは自嘲するように笑った。
「慰めにもなりませんよ」
彼は立ち上がると、ひらりと外套を翻す。腕の中の竪琴を軽やかに弾くと、振り返った先をひたりと見据えた。視線の先にいたゲンゲツが小さく息を吐いた。
「さあ各々方、ご準備のほどは如何です。そろそろ幕を上げてもよろしいですか」
「どうぞ、いつでも」
ゲンゲツが戯けたように両手を広げて肩を竦める。ラウルは唇を引き結び、強い瞳で海良を誘う。まだ揺れ続けている瞳を眺めて、そして優しく相好を崩した。宥めるように、慈しむように、悲しむようにラウルは笑う。
さあこれで、君がいくら戸惑い、躊躇ったとしても、もう幕は上がってしまった。この指が奏で始めてしまえば、君はもう歌うしかない。それが、君の良心が向く方を無視して残酷な方へと賛同した俺の、精一杯の懺悔。未だ円くて柔らかなままの君に代わって、ここは俺が引き受けよう。傷つくことも、後悔することも、たぶん君よりは俺の方が慣れているのだから。
指先が弦を弾く。あの夜、感情の赴くままに出来上がった音階が、雫のように小部屋の中を満たしていく。ラウルが知る限りのゲンゲツという人間の生き様を、この一音一音にかけて紡ぎ出す。仄かな明かりが薄暗く灯る、埃が積もった小さな小部屋を舞台に、吟遊詩人は指先から曲を、喉の奥から歌を絞り出した。
聞かせるべきたった一人の観客へ、全てが伝わりますようにと祈りながら歌う。さあ、後に続きなさい。どれだけ俺が声を張り上げようと、君が続かなければ話は始まらないのだから。
微かに光量が増した気がして、海良は不安げに伏せていた瞳を上げる。鼓膜を打つラウルの声に、あの夜の篝火を思い出した。
これは、俺が始めたことだ。今までは感傷に流されてきた俺だけれど、これは間違いなく俺が始めた。アンスリウムの心配を押し切って、アストラガスには啖呵を切って、俺がやると吠えてみせたじゃないか。
ゲンゲツが目を細めてこちらを見ている。「よく知った動く獣相手には躊躇うと——」あの時の彼の言葉が耳元で蘇る
「それは少し……。そうだな、道理が通らぬよ」
彼の声に腹を決めて、海良はすっくと立ち上がった。高らかに歌い声を響かせるラウルへ真っ直ぐに向き合うと、体の奥底に感じる「核」の感覚を辿る。道中に魔術の使い方は覚えた。どれも根本は同じだ。脳裏にアンスリウムの言葉が響く。初めて会った時、真っ暗闇の地下で彼は言った。
「異邦人の属性は崩壊と破壊だ」
そしてゲンゲツは答えた。
「訪い人の属性は古来より蘇生と萌芽だ」
そして、あの柔らかな焚火を手の中に収めた。きっと二人とも間違いじゃなかった。俺の属性は破壊と蘇生。彼らの言うことを信じよう。きっとできる。それはまるで、瓦解した場所から草木が萌えるように。
どこからともなく風が吹く。『光』の宝石がまるで星空のように明滅して、ラウルの歌声が雨垂れのように降り注いだ。
ゲンゲツ・セネシオ。
海良は思う。ラウルは歌う。彼の半生を。彼が人として生きたおよそ二十年余りの時間を、彼らは強く想った。
ふと、ゲンゲツが目を覚ますと、見慣れた城の庭があった。さて、見覚えはあるがここはどこだったろうと思い回らせて、はたと思い当たる。西の果てに構えられたパキフィルム城の中庭だ。先ほどまでシンたちと共に北の教会にいるはずが、どうしてこんなところへ来てしまったのだろうと、なんとなく夢心地のまま辺りを見渡す。
数日前に完膚なきまでに破壊した魔術砲は姿形もなく、それどころか庭には荒れた様子もない。ここには、まるで今もなお人が住んでいるかのような静謐さが漂っている。
一本の大樹の下に、人影が座り込んでいた。
目深にフードを被ったその人は、膝に抱えた分厚い本を食い入るように見つめて、しばらくしてから優しい手つきでページを捲る。その動作がひどく懐かしくて、ゲンゲツは思わず声を上げた。
「セダム・パキフィルム。君か」
男はゆっくりと顔をあげると、勿体ぶるように厳かな動作でフードを下ろす。現れたのは、白い肌に神経質な瞳を備えた、懐かしくも見慣れた無愛想な顔だった。
「遅かったじゃないか、衛士隊長殿。待ちくたびれたぞ」
「君が待っているとは夢にも思わなかった。いや、誰かは居てくれるのではないかと思っていたが、ロゼアかフェルトかと」
「あの熊女が残るって言い張ったんだが、鬱陶しいから殿下と一緒に先に行ってもらったよ。ああ、今は陛下か。俺なら別に、ここで何百年待とうが行く当てもないし、暇つぶしには事欠かない。本さえあれば何百年とでも待てる。適役ってやつだ。で、何年だ?」
口の端を皮肉げめくり上げて笑う男に、ゲンゲツも肩をすくめた。
「四百年だ」
「わお、長いね。セネシオ隊長、ちょっと雰囲気変わった?」
言われて、ゲンゲツは初めて己の体を見渡した。視界のどこにも、獣然としたあの体は見当たらず、そこには四百年前に失われた人の手足が確かにあった。成功したのだ。きっと。あの訪い人は、確かにゲンゲツの体をかつてのものへと戻した。
「かつての私のままだろうか。君から見て、どうだ?」
男は小首を傾げた後、つまらなそうにつぶやいた。
「髪の色が違う。深夜のような黒髪だったのに、今は曇り空がかった浅葱色。それ以外は俺の知ってる弦月だ」
ふわりと、男が笑った。
「セダム」
彼の名を呼ぶ。ファング王国の創世記において決して語り継がれることのない、森の奥へと隠された彼の名前。国のため共に戦った仲間でありながら、打ち捨てられた古城の城主として一生を終えた、大切な人の名前。この名だけは決して、彼らにも教えなかった。
「そういえば、聞いた?」
セダムが問いかける。なんのことか分からなくて、ゲンゲツは素直に首を捻った。彼の様子を見て、セダムは拗ねたように唇を尖らせ「ま、いいや」とつぶやいた。
「それで、弦月はどうするつもりなのかな?」
口は子供っぽく尖らせたまま、瞳は悪戯っぽく弧を描いて、セダムはゲンゲツに問いかける。共に行くか、それとも戻るか。どうやらそれは、ゲンゲツが決めても良いらしい。ひと呼吸置いて、ゲンゲツは答えた。
「力を貸したい者がいる。俺は、彼らを助けに戻ろうと思う。それに残してきた塔の研究者たちも迎えに行かなければならない。そこまでが俺の仕事だ」
「相変わらず堅苦しいな、弦月。いいよ、そう言うと思ってた」
そう言うと、セダムは再びフードを被って大樹の根元へと腰を下ろす。再び分厚い本の一ページ目を捲ると、俯いたまま食い入るように見つめ始めた。
「おい、お前は先に行け。何も俺を待つことなんてないだろう」
「うるさい。俺がどこで何をするかは、隊長殿に関係ないだろう。俺はここでもう少し、本を読んでいたい気分なんだ。あんたは早く戻れよ」
そう言ったきり、身じろぎ一つしなくなったセダムを見下ろして、ゲンゲツは大きくため息をついた。こうなると、この男はテコでも動かないのだ。
フードの上から彼の頭をひと撫でして、ゲンゲツは大樹に背を向ける。空虚な中庭に声が響く。
「弦月、その髪色も似合ってる!」
名残惜しいが、振り返らなかった。
ふと、ゲンゲツが目を覚ますと、見慣れた3つの顔が不安げにこちらを覗き込んでいた。ぼんやりと呆けた頭を軽く振って、脳と目の焦点を現実に合わせる。なにか、とても懐かしい夢を見ていた気がする。ため息を吐きながら鈍く痛む頭に手をやって、視界に入り込んできた風景に思わず息を詰めた。
手がある。スラリと節張った5本の指に、ピンク色の爪。滑らかな肌を纏った一本の腕が、そこにはあった。
驚いて、弾かれるように飛び起きた。胴も足も、指先に至るまで、それは人のものと言って違いない。喜びのあまり声をあげようとして、ふととても重要なことに気がついた。
「全裸だ!」
「座って!とりあえず座って!」
慌てた海良が興奮のあまり立ち上がっているゲンゲツを押さえ込み、その隙にラウルとアンスリウムが廃品の山を漁る。いくつもの箱を開けては閉め、開けては閉めてを繰り返したのちに、アンスリウムが嬉しそうに声を上げた。
「これなら着られるんじゃないか?」
持ち上げた衣装を目にして、ゲンゲツ・セネシオは目を細めた。四百年前、自身が衛士隊長として最も親しんだ制服。華美な装飾はなく、ただ実用を重んじて意匠された、王城の警備隊としての本質を表した己の戦闘服。こんなところに仕舞い込まれていたのか。
「ありがとう」
アンスリウムの手から制服を受け取って、ゲンゲツは手慣れた動作で身につける。まるで時間があの日に戻ったかのように、そこには衛士の亡霊が一人出来上がった。胸についたままになっていた勲章を外して床に置く。そのままゲンゲツは、キラキラとした瞳で見上げてくる海良へ片膝を着くと、彼の両手をそっと持ち上げて言った。
「やり遂げたな、真。ありがとう」
途端に、海良の瞳から大粒の涙が溢れた。声も上げられずに、ただ口をパクパクと動かしながら、ひたすらに泣きじゃくる真の頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜて、ゲンゲツは笑う。彼が始めようとした挑戦の対価は、今私が支払った。これでもう、彼の行為を独善だなどと誰にも言わせはしない。
「成功……したのですね」
噛み締めるように言ったのはラウルだった。彼は恐る恐るといった様子でゲンゲツの肩に触れると、その感触を確かめて、どっと疲れた顔でその場にへたり込んだ。長い長いため息の後、どこでもない何かを見つめながら、ラウルは魂が抜けたかのようにそっと瞳を瞑って、か細い声で言った。
「緊張が極限まで達していまして、なんといいますか、とてもつらい」
「心配をかけたようだな」
「全くだ。姿が戻った後、どれだけ声をかけても返事をしないから心配したんだ」
ゲンゲツに答えたのは、苦々しい顔をしたアンスリウムだった。彼は3人の側に座り込むと、ようやく泣き声を上げることを覚え始めた海良の頭に手をやって、ゲンゲツが乱した髪を整えるように優しい手つきで彼を労う。
「シンはお前から離れないし、ラウルは現実逃避のつもりなのかポラリスの情報を読み込み始めるし、俺一人で二人の面倒を見るのは骨が折れる。お前が目を覚ましてくれて助かった」
「それは苦労をかけたな。目に浮かぶようだ」
「ち、ち、違いますからね。私はシンくんのことを信じていましたし、絶対成功するから次のタスクを今のうちに熟そうと思っていただけです!」
「俺は心配したー!」
虚勢を張ったラウルが抗議の声を上げて、海良が素直に泣きつく。暖かな瞳でそれを見守るアンスリウムがいて、その光景にゲンゲツはまた声を上げて笑った。
「ゲンゲツさん、笑いすぎ。本当に心配したんだからな」
不意に、彼らの近くにあったパッドに明かりが灯る。ポンと間抜けな音が室内に響いて、桃色の髪の少女が無機質な声を上げた。
「ゲンゲツ・セネシオ様宛にメッセージを一件お預かりしています。未読です。」
AIスミレはそれだけ告げて、再び黙り込む。まるで誰かの返事を待っているかのような彼女の態度に、海良は「あ」と声を上げた。彼は目元の涙を拭いて、涙声を引きずりながらもしっかりと言葉を紡ぐ。
「そうだ、言い忘れてた。このパッドを使って誰かがゲンゲツさん宛にメッセージを残していたみたい。俺なら再生の仕方わかるけど、聞く?後にする?」
ゲンゲツは一時の逡巡の後、チラリとアンスリウムを盗み見た。視線に気づいたアンスリウムが、訳知り顔で小さく頷いて声を上げる。
「墓守たちが扉の前にいる手前、あまりのんびりしない方がいい。部屋の中を改められる前にここから出よう。成功した以上、お前たちは礼拝堂へ行くんだろう。ラウルも、もう準備は済んだな?」
アンスリウムがそう言うと、海良とラウルが強い瞳で応えた。
「では、急ごう。ゲンゲツもそれでいいか?」
わざとらしく振られた問いかけに、ゲンゲツは頭を振る。
「先に行ってもらえるかな。私は、メッセージとやらを聞いてから向かう。真、すまないが再生だけしてもらえるか。問題ない、聞き終えたらすぐに追いかけるよ」
ゲンゲツが有無を言わさぬ口調でそう言うものだから、彼の気圧された海良は言葉なく頷いた。AIスミレが待つパッドを両手で持ち上げると、スミレに「メッセージを再生して」と告げる。感情の抜け落ちたスミレの声が「再生します」と告げた。
画面に、スミレと瓜二つの少女が映し出される。生き生きとした桃色の髪の少女は、こちらをじっと覗き込むと、興味津々といった様子で笑いかけた。
『これが未来のセネシオさんに届くのです?よく分からないですね!』
『レンゲちゃん、ちょっと真ん中はフェルトに変わってもらえますか。フェルトも、そんな隅でちっちゃくなってないで、堂々とこちらへ来て!国王でしょう!』
『ロゼアも少し声を抑えよう。セダムがびっくりしちゃってるから』
賑やかな様子に、ゲンゲツは頬を緩める。酷く、懐かしい光景だった。
じっと見入るゲンゲツの横顔を眺めていた海良は、アンスリウムに肩を叩かれて我に帰った。振り返ると、神妙な顔をしたアンスリウムが出口を指さしている。その意味を理解して、海良は彼が促すままに出口へと歩みを進めた。




