旅の始まり-4
伏せながら、その声を海良はずっと聞いていた。この岩陰の向こうでは、誰かが自分のせいで血を流し、命を散らしているのだと思うと、言いようもない恐怖が地面から這い上がってくる。何か良くないことが起きている。それも俺に。俺のせいで。誰かに。
不意にクレイが海良を引っ張った。瓦礫の影になるように座らせると、彼は幼い子に言い聞かせるようにゆっくりと告げる。
「これから三十数えたら、ロゼアに向かって走って下さい。」
「…ロゼア?」
「俺の愛馬です。俺もすぐ後を行くから、俺を信じて真っ直ぐ振り返らずに走って。」
「でも、あいつ。あの狼男…。」
「アレなら君が構うことはない。とにかく、君は三十…いや二十秒後に飛び出せばいい。あとは何も考えずに俺の言うとおりにして。大丈夫、全て上手くいく。」
クレイの言葉に海良は頷こうとして、とどまる。
岩陰の向こうでは、まだ怒号と悲鳴が響いていた。肉の割ける音、血しぶき、不気味な唸り、泣き声、誰かの懺悔。
「十五…十四…。」
クレイの声が耳に届く。
顔を上げるのが怖かった。どうして今まで普通に日常を生きてきたはずなのに、俺はこんなところで恐怖に身を伏せているんだろうか。どうしてこんな目に合わないといけないんだ。俺が何をしたって言うんだ。
彼らが、何をしたっていうんだ。
「もう!やめてくれ!!」
脳裏にそんな言葉が浮かんだら、もうダメだった。海良はなりふり構わずに顔を上げると岩陰から身を乗り出し、気付いたらそう叫んでいた。一筋の風が彼の髪を揺らし、草の香りを広げながら天へと抜けていく。そこで初めて海良は、クレイと話していた男の顔を見た。凛々しく整った眉に、意思の強そうな瞳。軍服のようなものをキッチリと着込んだ、がっしりとした体躯。
ああ、男が理想とする男前ってこれだよな。
場違いなのは分かっていたが、そんな感想しか浮かんでこなかった。
「魔術砲、撃て!」
副官がそう叫んだのと、クレイが海良を抱え上げて走り出したのは同時だった。俵のように担がれた海良は、揺れる視界の中で狼男が二人を庇うように両手を広げて立ちふさがったのを見た。そして、遠くへと一点を目指して収縮される光の束。砂っぽい風が急に酷く吹きすさび、急にピタリと止まった。
「ダメだ、やめろ。」
ひたりと、アンスリウムと目が合った気がした。
次の瞬間、真っ赤な一本の光の帯が兵士たちの間を抜けて獣人へと襲いかかった。それは木々を揺らし、鳥を焼き、廃墟を崩しながら真っ直ぐにこちらへ飛んでくる。あれが何かは分からないが、あんなものが当たればひとたまりもないことくらいは海良にも分かる。それでも狼男は一歩も引かず、それを正面から受けるつもりらしかった。
「やめてくれ!!!」
光の先端が弾かれたように狼男の前で霧散する。それは獣人の前で全てバチバチと弾け、舞い上がって、最後にはキラキラと光の粒となって大気へ消えて行った。
その夢のような光景を、海良は呆けたように見ていた。驚いた顔の狼男がこちらを振り返る。本当に驚いているのかどうかは、海良にはよく分からなかったが、それでも周囲の呆然とした雰囲気から、起こりえない事が起こったのだろうという事は推測ができた。
軽い衝撃と共に、馬の上へと座らされる。次いでクレイが飛び乗ってきた。栗毛の馬は一つ嘶くと、クレイに従って一心不乱に走り出す。
「このっ、異邦人風情が!!!」
遠ざかる景色の中で、誰かの絶叫が響いた。
夢を見ていた。
それはいつの事なのか、誰の物なのかは分からなったが、とにかくそれは夢だった。
初めて会った異邦人は初夏の薫風のような人だった。彼は甘やかなブラウンの髪を白くて細い腕で掻き揚げると、柔らかな瞳を騎士に向けてゆったりと微笑みこう言った。
「大丈夫、一度会って話をしよう。そうすればきっと、分かり合えるよ。」
彼の側には、一人の騎士がいた。彼の言葉は、騎士の鼓膜を優しく揺らした。彼がそう言うのならば、その言葉に賭けてみよう。自分と彼が分かりあえたように、きっと王も彼の事をひと目見れば変わってくれるはずだ。そう考えて、騎士も一つ頷づいた。
王宮の煌びやかな廊下を並んで歩く。長い廊下の両端には長槍を持った鎧の兵士たちが立ち並び、視線が二人の背中を執拗に追いかけてくる。それでも彼は、真っ直ぐと背筋を伸ばして前を向いていた。南の国に群生していると話に聞く、日を向いて咲く花のように凛と立つ彼は、しかしその小さな手でこっそりと騎士の裾を掴んでおり、騎士はその微かな重みを感じながら、彼と共にいつまでも生きていきたいと、そう思った。
王の間が開く。
重厚かつ荘厳な扉のその向こう、玉座におわす我らが王が、琥珀色の瞳をこちらへ向けた。
そして、これでこの話は終わりである。
最期はあまりにもあっけなかった。彼が口を開く前に、王は気だるげに瞳を伏せると、一言「殺せ。」と兵たちに声をかけた。命令というには気軽げで、少し呟いただけのその言葉に、周りの兵士たちは手にしていた槍を一斉に彼へと向ける。数名の兵士たちが、彼に手を伸ばそうとした騎士を力づくで拘束し、そうして何も出来ないままで、大勢の男たちに囲まれた彼はいとも簡単に捕縛され、柔らかなベルベットの絨毯に膝をつかされる。
彼は、それでも真っ直ぐに前を向いていた。いつでも彼の瞳は美しい光を帯びていて、その視線の先にはまるで常に神でも見えているかのように迷いがない。だからこそ、彼が何かを変えるのではないかと、最期の最期まで騎士は信じていた。
騎士の見つめるその先で、薫風の君は頭を垂れる。鋭い刃が閃いて、彼の首が飛ぶ。血しぶきが大理石を汚して、王はその光景を見て微かに眉をひそめた。
不機嫌な顔で、王が言う。
「王宮の騎士クリーデンス。俺はお前に、異邦人の始末を命じたはずだが、何がどうなって俺の前にこいつを連れてきた。おかげで王の間で血を流す事となった。この王国始まって以来、前代未聞の不始末である。…が、我が王国の平穏と矜持を守るためならば致し方ない。これもまた王の務めよ。」
剣呑な目で王は騎士を見下ろす。
「とはいえクリーデンス。お前のこの醜態、どのようにけじめつけるつもりだ。」
王が何を言っているのか、騎士には理解ができなかった。頭の中は破裂しそうなほどに血が強く流れ、熱く真っ赤になっているのに、心臓は驚くほど冷たく凍って動かない。喉の奥から、ザラザラとした音がする。ああ、吐き気がする。辛い。叫び出したいのに、肺から上手に空気が出せないせいで、言葉にならない音ばかりが口から洩れた。
呆れた王が、クリーデンスに聞こえるように大きなため息をついた。クリーデンスを押さえつけていた兵士たちに、今度は彼を立たせるように指示し、三人掛かりで支えられながらクリーデンスは両足で立たされる。
「下がれ、クリーデンス。お前は異邦人の邪法にかかり、錯乱していたのだ。少し自室で休めばよい。その後でお前の答えを聞こう。」
クリーデンスはこの時、己の神に誓った。何があっても、次こそは彼を守ると。必ず皐月の新緑のような彼を命に代えても守り抜き、二人で共に生きるのだと。血の滲む掌をなおも強く握りしめ、歯を食いしばり、己の足で歩き出す。
次こそは、必ず次こそは。