旅の始まり-3
二人で岩場に転がったままで、しばらくの時間が経った。いつの間にか石を叩く音も、布擦れの音も止まっていて、馬の蹄だけが興奮したように辺りを動き回っている。周囲に人の気配がした。ぐるりと、四方から。その中から、誰かが大きく声を張り上げる。
「どこの誰かは知らないが、そこにいる異邦人をこちらへ渡してもらおう。」
海良の上で、クレイが「もう来たのか。」と苦虫を潰したような顔をした。意味が分からず彼を見上げると、クレイは表情を和らげる。
「大丈夫。俺がなんとかするから、君は決して立ち上がらないで。」
コクリと首を動かしたのを確認して、クレイは大きく息を吐く。そして、伏せたままで大きく声を張り上げた。
「姿を見せる。撃つな。」
「…良いだろう。弓兵、構えを下ろせ。」
そこで初めて、海良は自分が弓で撃たれていたのだといういことに気が付いた。先ほどまで自分を追って岩を叩いていたのは、鏃だったのだ。
恐怖に身をキュッと縮めた海良の頭をそっと撫でて、クレイは立ち上がる。それを視線で追いながら、出会ってから彼の手はとてもずっと温かいと、海良は思った。
クレイが顔を上げると、四方を取り囲んだ兵からどよめきが起こった。彼らはてっきり獣人が現れると思っていたのだ。異邦人と共にいるのは常に獣人と相場が決まっている。
団長であるアンスリウム・クルシアも、異邦人を庇った人物が姿を現すまでは、それを疑っていなかった。身を起こしたその姿を目にして、彼はハッと息を飲む。彼の動揺を見てとって、周りの兵が思い浮かんだ疑惑を確信へと変え、そのざわめきは瞬く間に全体に伝わった。
「人間…だと。」
「まさか異邦人を庇ったのが人間だとは夢にも思わなかったのか?さすがに傲慢じゃないか。この世すべての人間が、お前たちと志を同じくしているだなんて、思い上がるにも程がある。」
クレイの言葉に、アンスリウムは不快そうに顔をしかめた。
アンスリウムの横で様子を伺っていた副官が、あたりの兵へと目配せする。団長から指示がなくても必要ならば撃て。そういう類の伝令だ。
「何故人間が異邦人を庇う?お前も知っているだろう。あれは災いだ。」
クレイの眉がピクリと跳ね上がった。災い、という単語に海良は顔を上げる。
ザワザワとして手触りの悪いその言葉は、もしかして自分を指すものなのだろうか。彼が侮蔑と怒りを込めて呼ぶ「異邦人」とは、自分のことなのだろうか。
「災いだとも。だから何だ。」
力強く、クレイの声が響く。ひたりとアンスリウムを睨み付けて、彼は言い切った。先ほどまでの優しげな雰囲気が一変して、息がつまるほどの威圧感がアンスリウムを襲う。
ああ、この手の人間は質が悪い。
アンスリウムが腰に帯びていた剣の柄に手をかける。
「これが最後の通告だ。今すぐそこの異邦人をこちらに渡せ。そうすれば、お前の罪は不問とする。」
丸腰で両手を上げた男は、その言葉を一笑に付した。
「俺の罪を、お前に問われる筋合いはない。」
「そうか、じゃあ交渉は決裂だな。」
上げていた手をブラリと下ろし、クレイが兵士の前へ踊り出るのと、副官が大きく「撃て。」の号令を出すのとは全くの同時だった。
無数の矢がクレイに襲いかかり、その身を貫こうとする。隙間なく空を埋め尽くした矢が急降下する直前、一筋の赤い風が吹きすさぶ。それはクレイを囲むように渦を巻き、立ち上って、そして突然何事もなかったかのように弾けて霧散する。
クレイの手には、いつの間にか美しく金に光る一本の剣が握られていた。
朱と金のコントラストが美しく端正で繊細なその剣は、その装飾とは裏腹に、兵士たちが放った矢を力強く全て薙ぎ払った。刃が照らした太陽がクレイの頬に光る。透けるようなブラウンの髪が、風を受けて柔らかくそよぐ。そして二、三歩ほど踏み出したかと思うと、突然クレイはアンスリウムへと肉薄した。
金属と金属がこすれ合う、不快な音が周囲へ響く。辛うじて、アンスリウムの剣はクレイの初撃を受けていた。アンスリウムは受けた太刀を払うように受け流し、半身を崩して瞬時に攻撃へと転じる。一撃、二撃と重なるアンスリウムの剣劇を全て真正面から受け止めたクレイは、数歩後ろに下がると、再び体勢を整えた。その足取りは軽く、身のこなしは隙がない。
「その刀に剣筋…、お前は何者だ。」
アンスリウムの問いに、クレイは答えない。チラリと岩陰の方に視線を向けただけで、すぐに彼は片手で剣を構え直した。辺りの風がフワリと戦ぎ、急に強く吹き付ける。崩れかけた街並みの欠片が粉塵となって舞い、互いにぶつかり始めると、チリチリと音までし始めるほどとなった。音と同時に、クレイの周囲に小さな火花が散り始める。それはまるで蛍のように軽やかで、そして花火のように華やかに映える。
幻想的な光景ではあったが、アンスリウムはそれに本能的な脅威を感じていた。粉塵で視界がだんだんと悪くなっていく中、手遅れになる前にと叫ぶ。
「弓兵、構え!」
姿こそは見えないが、だが確実に味方が弓を構えた気配がする。目の前の男から気を逸らさないように、しかしできるだけ早く男から後退する。アンスリウムの指令はクレイにも聞こえていただろうに、彼は剣を構えたまま動かなかった。
動けないのか?とアンスリウムは勘繰る。
今なお風は強く吹きすさび、視界は奪われていく一方ではあるが、アンスリウムが味方陣営まで後退してしまえば、次の瞬間にはこの男に向かって再び無数の矢が放たれる。それが分かっているはずなのに、何故この男は追ってこないのだろう。
もし、この不可思議な現象を起こすために男の動きが制限されているのならば、今が好機だ。この男を射殺して、岩陰に隠れている異邦人を無傷で確保することができる。
アンスリウムはその場で踵を返して真っ直ぐに味方陣営の元へと走った。やはり、男は追ってこない。煙る視界を抜け、すぐそばに副官の姿を認める。次の瞬間、アンスリウムは振り返り、剣を掲げて叫んだ。
「撃て!」
空を埋め尽くすほどの矢が、弓形にクレイを襲う。幾本かは風に煽られ、幾本かは火花に焼かれて消えていくが、防ぎ切れないほどの矢が彼へと到達する。ピクリと、クレイの眉が動いた。
その時、二人の間に灰色の巨体がものすごい勢いで割って入った。それは無数を弓を鋭い爪で全て弾き返すと、尻尾をブワリと逆立てながら、アンスリウムを睨み付けた。
獣人。
「王都の民よ、訪い人を連れて逃げろ。ここは私が引き受けよう。」
灰色毛並みの大きな狼の背格好をした獣人がそう唸る。背にクレイを庇いながら、その後ろに彼が庇う岩陰にチラリと目を落とし、悔しそうに顔を歪めた。
「ただし勘違いをするな。訪い人は我らの客人だ。」
「獣人ごときが何を言う。彼は俺の大切な人だ。誰にも渡すつもりはない。」
獣人が牙を剥きだしてクレイを威嚇する。一瞬でも隙を見せれば切り裂いてやると言わんばかりの殺気を、クレイも真っ向から受け止める。しばらくのにらみ合いの後、獣人は真っ直ぐにアンスリウムに向き直った。
獣人の肉体強度は人間の矢など歯牙にもかけず、戦闘能力は人間のそれよりはるかに高い。アンスリウムは片手を挙げ、声高に叫ぶ。
「魔術砲用意!」
「了解、第四班は魔術砲用意!第一班と第二班は左右に展開。第三班は詠唱開始。」
副官の指令内容に従って、一糸乱れぬ統率で兵隊が動く。辺りには第三班の唱える魔術詠唱が木霊し、木々がざわめいていた。
「クルシア団長。彼らに魔術砲を打ち込むのは危険では。異邦人の身柄はどうします。」
副官の問いかけに、アンスリウムは答える。
「砲は獣人を狙え。異邦人があの岩陰から出て来なければ、かすり傷で済むだろう。」
「了解しました。三十秒後には砲撃準備整います。」
獣人が兵士へと飛び掛かって来る。魔術詠唱を止めようと突き進んでくるのを、左右に展開していた一班と二班が押しとめる。槍で突き、剣で斬るが獣人の皮膚はそれを物ともせず、爪を振るう度に当たりに悲痛な叫び声と血しぶきが飛んだ。