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400年の空白-6

 ゲンゲツが入口までたどり着くのを確認して、長官は研究者たちを建物の中まで下げ、塔の門を閉じる。扉一枚隔てた外からは、未だ悲鳴が続いていた。


 少年を床に下ろすと、彼は淚でグチャグチャになった顔をゲンゲツに向けて、小さな声で頼りなげに「お兄ちゃん。」と呟いた。その声に、心臓が酷く痛んで、ゲンゲツはただ彼の頭を撫でる。隣に立った長官が、呆然と問いかけた。


「人、なのですか。」


「ああ。そのようだ。変化するのを、この目で見た。」


「そんな……。」


 長官が頭を抱える。辺りにいた研究員たちも不安げにゲンゲツたちを囲んでいた。


「一体何があったのでしょうか。あの不気味な声に、何か関係があるのかしら。」


「分からない。ただ、外に出たら街の人たちが倒れていて、それが次々に獣に変わった。確かに、みんな人間だったんだ。」


 呆然と瞳を揺らしていた定食屋の息子の姿を思い出す。彼は確かに、人間だった。


「この子のように理性がある者と、先ほどのように腹を空かせた獣のような様子で他者を襲う者がいる。何がどうなっているのか……。」


 沈黙が落ちた。誰もの胸の内に不安が渦巻いていた。ゲンゲツもまた、不測の事態にどう対処すべきかと思考を巡らし、顔は自然と下を向く。ふと視線を落とせば小さな獣の目が二つ、じっとゲンゲツの顔を見つめていた。


 全ての不安や懸案を振り払うように、ゲンゲツは剣を取る。スラリと抜いた剣を掲げ、声を張り上げた。


「体勢を立て直し、討って出る。勇気のある者は私に続け!」


「私も参ります。ゲンゲツ殿の仰っていることが本当ならば、襲っている者も襲われている者も、私たちの友人なのでしょう。彼らを助けなければなりません。銃をこちらへ。」


 一丁の拳銃を手に取り、長官はゲンゲツの隣に並ぶ。彼女の後ろに、幾人もの研究者が集まり、各々手に武器を取った。


「とにかく、理性を失くした者を拘束しましょう。」


「そうですね。」


 そう同意をしながら、ゲンゲツは心の内で、無理ならば殺すも止む無しと決意を固めていた。たとえ元が人であろうと、この身は王国の衛士隊長なれば、秩序を乱す者を無力化するのが役目である。そしてその仕事は、おそらく研究者には辛かろう。


 扉に手をかけて、ゲンゲツは大きく息を吐く。外からは未だ獣の唸り声と、それに重なるように悲鳴が木霊している。腕に力を籠めようとして、ゲンゲツの耳は再びあの不気味な唸るような声を拾った。


 それは先ほどよりも近く、空気を震わすほどの質量で塔の外壁を震わせる。頭が割れるように痛い。手から力が抜けて、膝が笑う。あちらこちらで、研究者たちが倒れはじめた。バタバタと糸が切れた操り人形のように人が地面へと伏す。声をかけようと喉を震わせるが、自分がちゃんと声を出せているのかどうなのかも分からない。隣に立っていた長官が、美しい銀髪を床に散らしながら倒れた。


 それを見届けた後、ゲンゲツも気を失った。



 そして、どれほどの時間が経っただろうか。ほんの数分だったのかもしれないし、数時間だったのかも分からない。ゲンゲツがゆっくりと目を開くと、そこは普段通りの東の塔で、見慣れたエントランスのそこかしこに、見慣れない獣が大勢倒れていた。


 ああこれは、先ほど見た光景とよく似ている。


 近くに落ちていた己の剣に手を伸ばすと、灰色の毛むくじゃらの手と鋭い爪が目に入った。心の準備は出来ていたから、さほど驚かずに済んだ。髪は黒髪なのに、獣になると毛並みは灰色なんだな、とかそんな呑気な事を考えていた。


「お兄ちゃん。大丈夫?」


 小さな少年が問いかけてくる。心配そうな瞳に覗き込まれて、ゲンゲツは相好を崩した。


「ああ、大丈夫だ。ありがとう。」


「みんな変なんだ。急に倒れたと思ったら、すごく苦しそうで……。」


「そうだな、怖かっただろう。」


 ゆっくりと身を起こすと、ちらほらと気がついた研究員たちが立ち上がり始めたところだった。もっとも、全員が獣の姿になっていたが。


 そして、その中から微かに聞こえる唸り声。この中にも、理性を失った者がいるのだ。この手では剣を握れない。研究員たちも、銃の引き金を引くような繊細な動作は出来ないだろう。どうすべきかと考えて、長官と意見を交わそうと、ゲンゲツは隣を向いた。


 そこには、目を血走らせ、牙を剥く銀色毛並みの獣が一匹立っていた。





 ゴクリと唾を飲んだラウルを見て、ゲンゲツは笑う。そして「人にこの話をするのは久しぶりだな。」と言った。


「それで、その後はどうなったんです?」


「塔の中で殺し合いが始まったよ。理性ある者たちで、力を合わせて理性を失くした者を……そうだな、抑え込んだ。我々の苦難は、そこからだ。」


 彼は寂しそうに遠くを見つめる。海良には、彼の語る在りし日のファング王国は夢物語のように聞こえた。クレイから聞いていた話と随分違う。彼の話が本当なら、塔も教会も王国も、それぞれが手を取り合って一つの国を支えていたのだ。


「会えば混乱させると思って、私はフェルトブッシュ国王殿下には手紙で事の次第を伝えた。陛下は当然心配して、私に帰還を促したが、私は東の塔を離れることができなかった。その頃には近隣の村々に塔に突然現れた獣の集団の噂が回っていたのだ。彼らは私たちを侵略者と思い、討伐隊を組んでいた。魔族の残党だとね。それを退けられる武人は……いや、塔の研究者を統率できる人員は私ひとりだったのだ。」


 ゲンゲツ・セネシオは文字通りセネシオの領主として、東の塔に住む人々を守る事に決めた。王宮からは引っ切り無しに文が届き、教会と協力して原因の究明に努めてくれたが、一向に解決策はつかめない。塔でも英知を結集して自分たちの体を調べたが、何も手がかりがなかった。


 不思議なことに、獣人となった人々は心身ともに衰えることがないようだった。それが分かったのは、六十年余り経った頃の話で、きっかけは王都から届いたフェルトブッシュ国王の崩御の知らせだった。東の塔には獣人しか住んでいなかったせいで、ゲンゲツはすっかり時の流れを捉え損ねていた。自分より年若い親友が老衰で亡くなるほどに年月が経っていたことに、その時初めて気づいたのだった。


 愕然とするゲンゲツに、フェルトブッシュは遺言を残していた。


 何があっても、諦めるなと。何を犠牲にしても、東の塔に住む人々を、ゲンゲツを、救う事に全力を注いでほしいと。彼は、最後にそう書き残していた。


 更にそれから四十年余り経った時、北の教会に神託が下った。当然、その時にはもう既に巫は代替わりしており、東の塔との親交も失われていた。


 巫は言った。


 異邦人が来る。


 ゲンゲツたちは、その異邦人に目をつけた。彼ら百年前の魔族大戦の折りに異邦人の力を借りて大規模魔術砲を建造した経験があり、その膨大な魔力量を知っていた。彼らは、その異邦人に頼んだ。獣と成り果て、獣人として忌み嫌われている自分と友人たちを助けて欲しい。あなたが願えば、可能性があると。


 そして、その異邦人は拒絶した。


「拒絶した……?」


 海良が不審げに問い返すと、ゲンゲツは頷いた。


「嫌がったのだ。どうして突然連れて来られて、他人のために力を貸さねばならないのかと。それならば、自分が家に帰るために力を使うとね。」


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