旅の始まり-2
焦って背後を振り向くが、そこには特に何も変わった様子はない。
この学校には、特筆するような七不思議はなく、幽霊話も聞いたことがない。なんせ、新設されたばっかりの新しい学校なのだ。
コンクリートでつくられた綺麗な廊下に、綺麗なトイレ、プロジェクターが導入され、ホワイトボードで授業を受けるような真新しい学校。だから、幽霊が出るだなんて、噂ですら聞いたことが無い。
でも、あれ…?じゃあどうして、この進路指導室はこんなにも薄汚れてるんだろう。
海良は、目の前の薄汚れた本棚を眺める。過去の入試問題や、大学の資料が所狭しと並べられた本棚は木造りで、うっすらと表面に埃が積もっていた。
チカチカと、小さく点滅を繰り返す蛍光灯。ギシギシと軋むパイプ椅子。
ここは、どこだ?
カタン。
音は背後にまで迫っていた。
息苦しいほどの恐怖心を押さえつけて、海良は再び後ろを振り返る。
そこに居たのは、人ではなかった。
上半身を狼、下半身を人間という出で立ちで、その生き物は物も言わずに海良の背後に佇んでいた。
立ち上がった犬よりは器用そうな格好で、歩く人間よりは不器用そうな姿勢だったから、ズボンの下が本当に人間のものだったかどうかは海良にも分からない。
しかしとにかく、それは人間ではなかった。
狼男は物言わず、海良にむかって手を伸ばす。そこで初めて、海良は短く「ひっ。」と悲鳴を上げることが出来た。海良の声を聞いた狼男はピクリと耳を震わせると、低く唸り声を上げた。
その姿はあまりにも恐ろしかった。それこそ、恐怖で凍り付いていた体が思わず走り出してしまうくらいには。
次の瞬間、海良の体は進路指導室を飛び出していた。
何か行くあてがあったわけでもなく、誰か縋る先があったわけでもなく、ただただその場から逃げ出したかった。扉から出て、左へ。長く続く廊下を、大きな足音を立てながらひたすら走る。
誰かいないか、誰か気付いてくれないか、そう願いながら廊下の先まで来た時にはたと気が付いた。
静かだ。
放課後とはいえ、あまりにも静かすぎないか。さっきから、誰とも会っていない。
階段を降りる。下の階には職員室がある。木造の階段がキィキィと軋んだ。
長い廊下を一気に駆けて、職員室の扉に飛び縋る。歪んだレールのせいで扉がガタガタと揺れる。勢いよく開けた先は、蛍光灯が仄暗く室内を照らすだけの、無人の部屋だった。
「なんで…。」
誰もいないんだ。
海良の問いかけに答える者はいない。異様なその光景に、海良の足がふらつく。2歩、3歩下がって、先ほど入って来た扉に背を預けた。
担任は、放送室の鍵を貸し出すために職員室に行ったはずだ。それが終わったら進路指導室へと戻ってくるはずだから、途中ですれ違わないワケがない。
「とにかく、逃げないと。」
あのバケモノが校内にいるのだ。己を奮い立たせるように口に出して、これからの行動を頭に刻み付ける。
とにかく逃げよう。外に出て、人に会うまで走る。校門を出たら駅の方へ向かい、交番へと駆け込む。
「よし。」
顔を上げて職員室から飛び出る。踏みしめた廊下がキィと音を立てるのを聞いて、再び海良は凍りついたように動きを止めた。
下を見る。
廊下だ。そこには、木の板が張った廊下が続いていた。
そんなもの、この学校には存在しない。
この学校の売りは、最近建て替えられた真新しい校舎だ。コンクリート造りの綺麗な廊下に、綺麗なトイレ、授業はプロジェクターを使った先進的な方法を取り入れ、板書は黒板ではなくホワイトボードを使用する。
それで、それじゃあ、ここはどこだ?
教室の並びも、職員室の中も、自分が見知った物と同じだった。なのに、校舎の風合いだけが違う。ここはどこなんだろう。
キィ。
沈黙の中に、小さく足音が聞こえた。はっと顔を上げると、廊下の先に黒い影が見える。獣というには器用で、人間というには不器用そうな立ち姿。血の気が引く音がした。
アレが追ってきた。
バケモノは視線の先に海良を捉えると、小さく唸って、ゆっくりと歩みを進めてくる。
逃げなきゃ。
海良は咄嗟に、反対側へと走り出した。背後で獣が何かを吠えたが、そんなことには構っていられない。とにかく外へ出たい。その一心で海良は足を動かした。
走って走って走って、そして、足を踏み外して階段から落ちた。
記憶の底を探る旅から帰ってきた海良は、クレイと名乗る男を見上げる。クレイは目を合わせると、ニコリと微笑んだ。
いかにも優しそうな男性である。美しいブラウンの髪を短く切り、誠実そうな端正な顔立ち。真面目な雰囲気の優しそうな人。
「クレイ、さん。」
「ん?」
呼ぶと、彼は柔らかく目を細めて答える。
「ここはどこですか。あなたは、誰ですか。」
「さっきも言ったかと思うけど、ここはセネシオの街。俺は君を守るために派遣された騎士だ。それ以上の話は場所を変えた方がいい。なにせ、ここには君を迎えに行った奴が追ってくるだろうから。」
迎えに来た奴いという言葉に、あの姿が浮かび上がる。牙を剥いて自分を追う狼男。思わず身を固くする海良を見て、クレイは気の毒そうに彼の頭を撫でた。
「怖い思いをさせたね。でも大丈夫だ、ここからは俺がついてる。」
ナチュラルに男子高校生の頭を撫でてくるクレイに、海良はギョッとして身を引いた。
なんだこの男は。初対面の男に、初対面でなくてもだけど、頭を撫でられるなんてそんな馬鹿な事があるか!気持ち悪い!
手を退けられた事に対して不思議そうな顔をしているクレイを海良はキッと睨む。
「あの狼男の事知ってるんですか。あれ、何なんだ。」
「狼男がやってきたのか…。それは、毛並みがグレイの?」
「やっぱり知り合いなんだな。あれは何で俺を追ってきたんだ!ここどこだ!」
「とにかく落ち着いて。問いかけが堂々巡りしてる。説明したいのはやまやまだけど、ここにいるのは色々とマズいんだ。今はとにかく俺のいう事に従ってほしい。そうじゃないと…。」
「そうじゃないと何!?普通知らないところで知らない人にはついて行けないだろ。もうちょっと詳しく説明してくれませんか。あと携帯貸して。家に電話したい。」
「時間が無いんだ、頼むよ。そうだな…。」
クレイは思案顔で何かつぶやいたあと、ズボンのポケットに手を入れて、海良に何かを差し出した。ゆっくりと開かれた手を見て、海良は目を輝かす。そこに乗っていたのは、折りたたまれた小さなガラケーだった。
「クレイさん!」
借りてもいいの?と期待を込めて見上げると、彼は携帯をフイッと取り上げると再びポケットへと仕舞って言った。
「ついて来てくれたら貸してあげます。」
「…分かった。じゃあクレイさんの言うとおりにする。でも、後でちゃんと携帯貸してくださいね。」
「もちろん。君を守るのが俺の役目だからね。じゃあ、馬に…。」
柔らかな印象だったクレイの顔が、一瞬にしてキュッと引き締まる。何かを探るように視線を周囲にめぐらした後、突然彼は海良を抱き上げて岩陰へと体を翻した。
何が起こっているのか分からない海良はされるがままで、体を石に叩きつけられた後、自分を追うように続けて響く固い鋭利な音だけを聞いていた。
ふわりとクレイが海良に覆いかぶさる。端正な顔が間近に迫るが、混乱と、息苦しさと、ぶり返した痛みで気にしている暇はない。
近くで馬が嘶いている。いくつもの布擦れの音がする。カツン、カツンと鋭利な音がまだ続いていて、それは海良とクレイが隠れている岩へ何かが当たった音であるらしかった。
「何…。」
「黙って。頭を上げないで。」
厳しいクレイの声に、海良は思わず口を噤む。今この場はそれが正解なのだと信じこませるような、絶対的な声。
出会って数分しか経っていないが、この優しげな風貌の男はこんな声も出せたのかと、意外に思った。




