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旅の始まり-1

 走る。走る走る走る。とにかく息が続く限り、海良真は人気のない廊下を走り続けた。手足が千切れるように痛い。空気を吸い込む度に喉がひきつる。それでも、足を止めるわけにはいかなかった。

後ろから追いかけてくる者を振り切らなければ命がない。

直感的に、海良はそう感じていた。


「どうして…こんなことに…!」


 視線だけでチラリと後ろを振り返る。自分が走り抜けてきた薄暗い廊下が真っ直ぐと伸びた先に、それはいた。


バケモノだとしか言いようがないそれは、まっすぐに海良を追いかけてくる。獣のような風体で、体毛に覆われた巨体を震わせ、牙を剥きながら二足歩行とは思えない速さでこちらに近づく「それ」を直視してしまい、海良は走るスピードを上げた。


「クソッ、クソッ、クソッ!!」


 息苦しさから目尻に淚が浮かぶ。肺が悲鳴を上げている。ああ、もうどうなってもいいから、足を止めてここに座り込んでしまいたい。


誰か、誰か、誰か。


「助けて…!」


 さらに下の階へ逃げるために階段を降りようとしたその瞬間、今まで必死に動かしてきた足が限界を迎えた。踏み込んだ足に力が入らず、そのまま段差を踏み外す。咄嗟に手すりに向かって伸ばした手は、何も掴むことなく宙を切る。


 ゆっくりとスローモーションのように落ちていく自分の姿を、どこか他人事のように捉えながら、海良は「ああ、死んだな、これ。」と漠然と思った。

 

視界の中に、あの獣の姿が見えた。不思議な事に、あのバケモノが少し驚いているように見えて、海良は思わずフッと微笑む。

 

なんだそのキョトン顔。まるで、隣の家のポチみたいじゃないか。


 次の瞬間、背中が床に激突して、海良の全身に激痛が走った。痛みと衝撃とで上手に息が出来ず、身動きがとれない。

 目の前は真っ暗で、あたりの様子を上手く把握することができない。目の前を小さな光がチカチカと点滅するばかりで、自分が上を向いているのか下を向いているのか、倒れているのか座っているのかも分からず、言葉にならない呻きと引きつった呼吸だけが、ただただ海良の耳に聞こえていた。


「息を止めて。ゆっくりでいい。」


 暖かな手が肩へと添えられた。何が何だかよく分からなかったが、海良は楽になりたい一心で、低く穏やかな声に導かれるまま、息を止めようと口を押える。

 上手にできず、引きつった声が漏れる。その度に手は海良を摩り、大丈夫だと繰り返してくれた。


「止めて。…ゆっくりと吐いて。」


 止めて、吐いて、吸って。何度も失敗しながら繰り返し、ようやくまともに呼吸が出来るようになった頃には、海良の目も多少はマシに周囲が見えるようになっていた。


 そこは、一言で言うなれば廃墟だった。


 もともとは美しい乳白色だったであろう石造りの町並みは、蔦が絡み、石が割れ、崩れ落ち、不気味な色にくすんでいる。舗装された道路がガタガタに歪んで盛り上がり、砂っぽい風が絶えず吹いていた。


「何だ、ここ。俺は学校の階段から落ちたんじゃ…ああっ痛ってぇ。」


 耐え切れず体を丸めると、あの暖かな手が背をさすってくれた。


「我が国土の最東に位置する石造りの街、セネシオ。白き街道、賢者の都、東の塔。かつては様々な呼び名があったけれど、今はこう呼ぶ人が一番多い。」


躊躇うように切られた言葉に、海良がそっと顔を上げる。温かな手をしたその人は、透けるような美しいブラウンの髪を太陽に照り返して困ったように笑った。


「呪い返しの地。」

「呪い……返し。」

「そう。不思議な名前だろう。だけど、その由来についてはまた今度だ。立てるかな?」


 そっと伸びてきた手を取ると、彼は優しく海良を引き上げた。ズキリと痛む肩に顔を顰めると、男がそっと労わるように手を添えてくれた。


「痛いだろうけど、少し我慢してもらうよ。あちらとこちらでは多少時間の流れが違うから今までは大丈夫だったけど、そろそろ余裕がないからね。」


 訳知り顔でそう言うと、男は短く指笛を吹いた。


遠くから、馬の蹄が石を蹴る音が近づいてくる。一本道の向こうから、栗色の毛をした馬が近づいてきて、彼の横でゆっくりと止まった。労わるように撫でながら、男はほほ笑む。


「俺の名前はクレイ。君を守るためにここに来た。まずは落ち着いて話の出来る所へ移動したい。一応聞いておくけれど、君、乗馬の経験はあるかい。」

「乗馬…はない、ですけど。あの。」

「だろうね。大丈夫、一応聞いてみただけだから。俺の前に乗せよう。さあ、こちらへ。」

「いや、ちょっと待って。待ってください。」


 今にも海良を抱き上げようと両手を伸ばしていたクレイはその動きを止めて、まるで泣き止まない赤ん坊を見るような顔で両手を下げた。そこで初めて、高校生にもなって抱っこされそうになっていた事実に戦慄しながら、海良は頭を猛回転させて考える。


 さて、情報の整理をしようじゃないか、俺よ。そもそも俺は、高校にいたはずだった。今日の朝、俺はいつも通り家を出て高校へと向かい、普通に退屈な授業を受けた後、別に所属している部活も無いので当然のようにすぐに帰路につこうとして、靴箱で呼び止められた。


 自分を呼び止める声に足を止めて振り向くと、そこには担任の先生が立っていて「海良、進路希望の用紙提出忘れてるだろう。ちょっと進路指導室で書いて帰れ。」と言った。


「マジですか。俺、今日は早く帰ってゲームしたかったんですけど。」

「残念だったな。先生も今日は早く帰ってドラマを見るつもりが、進路希望を出していない生徒がいたせいで残業だ。」

「いやー、お互い苦労しますね!」

「ホントに海良はちょっと反省しような。」


 進路指導室に入って壁にあるスイッチを押すと、蛍光灯が嫌な音をたてながら明かりを灯す。薄暗い部屋は埃っぽくて、紙の匂いがした。海良は軋むパイプ椅子に背を預けて、安っぽい長机の上に筆記用具を出した。


「進路希望ねぇ…、どうせみんな大学生だろ。こんなん出す意味あんのかよ。」

「出す意味とか、出さない意味とかじゃないんだよ。海良がその紙を出さないと、先生が家に帰れないんだ。」


 そう言って、担任は海良の正面の椅子に腰を下ろす。じっと見下ろしてくる視線は、少し居心地が悪い。


 何を書こうか、どう書こうかと手の中でクルクルとペンを回す。ペンは再び手の中に収まらず、カタンと思ったよりも大きな音を立てて机の上に落ちた。


 トントン。


 ドアをノックする音が聞こえたのは、その時だった。もう一度、控えめにノックの音が響いて、開いた扉から顔を出したのは一人の女生徒だった。


「センセー、放送室の鍵取りたいんだけど、顧問のハンコ貰わないとダメなんだって。ちょっと職員室までお願いします。」


 海良は、そういえば担任は放送部の顧問だったなと思い出す。案外、俺が進路希望を提出しなくても、部活の関係で先生は家に帰れないのではないだろうか。


「ちょっと行ってくるから、海良はその間にそれ書いといて。」


 そう言って駆け足で出て行った担任を見送って、海良は「はーい。」とやる気のない返事を返す。一人取り残されて、机の上の紙をじっと見つめる。普段でも切れ長の目は、今はもっとずっと鋭く進路希望を睨み付けていた。


 カタン。


 何かの音がした。また誰か訪ねて来たのかと思い、ドアの方を見るが特に人影はない。


「気のせいか…?」


 独り言は、小さな部屋に大きく響いた。もう一度机に向き直る。


 カタン。


 今度は、先ほどよりも近かった。


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