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暗闇の中、葵は一人、夜の海をたゆたっていた。宗介を助ける為に海に入り、葵の身体は海に溶けていった。身体の輪郭も曖昧になり、今では意識だけが残っている状態だったが、それすらも間もなく溶けてなくなるだろう。
後悔なんてしていない。宗介には俺を助けた所為でと自分を責めて欲しくなく、精一杯の笑顔で別れを告げたつもりだ。ちゃんと見ていてくれただろうか。宗介の側にずっといたくて、成仏できる気がしなかった。だからこれでいいんだ、宗介を自由にすることがてきた。それだけで、幸せだ。徐々に眠くなってきて、死から三ヶ月、葵はついに深い眠りについた。
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「お母さーん!お父さんがひどいの!」
「どうしたの?」
「夏休みの間はずっと一緒だって言ってたのに、朱理を置いて出かけちゃったの!追いかけよう?」
「ああ、もうそんな時期なのね。あのね、今日はダメよ。お父さんを一人にしてあげて。」
「どうして?」
「お父さんの大切な人が亡くなった日なの。その日は、いつもお父さんは一人で海に行くのよ。邪魔しちゃ、ダメ。」
「大切な人?朱理とお母さんより大切なの?」
「ふふ、そんなわけないでしょ。今を生きてる人の方が大切に決まってるわ。でもね、10年前に時が止まってしまったあの子に、一日くらい、お父さんをあげてもいいと思うの。」
「お父さん帰ってくる?」
「当たり前でしょ。夕ご飯には帰ってくるわ。一緒に美味しいご飯を作って待ってましょ。」
「うん!」
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「もう10年か…早いものだな。元気にしてたか?俺のとこは、朱理が元気すぎて困ってるくらいだ。この前なんか、朱理の癇癪にビビって桃華が泣き出してさ、収集つかなくて…。相変わらず気が小さくて困るよ。」
宗介は一人砂浜に座り、海に向かってここ一年の出来事を喋り続けた。妻の事、娘の事、仕事の事。話すことがなくなると、今度は黙って海を眺めた。やがて陽が傾き空が茜色に染まる頃、宗介は立ち上がった。
「葵、お前ちゃんと生まれ変わって、幸せにしてるか?」
夕飯前には帰る約束だ、そろそろ行かなくては。歩き出した宗介の視線の先に、一組の親子がいた。子供は2、3歳程だろうか、白いワンピースに日除けの帽子を被っている。母親は女の子に語りかけるようにしゃがみ込んでいる。
「そろそろ帰ろう?暗くなっちゃうよ。」
「やー!」
「なんでこの時期海に散歩に来ると全然帰ってくれないんだろ。ご飯の時間になっちゃうよ?」
「いや!」
「もう、今日のご飯ハンバーグだよ?早く帰らないとパパが全部食べるって!」
「いやー!」
「じゃあ早く帰ろ?」
「うん!」
娘の説得に成功した母親はホッとした表情で女の子に手を差し出した。女の子が手を握り返す直前、ふと後ろを振り返り宗介と目があった。女の子はふわりと笑うと、母親と手を握り歩き出した。
「早く帰ろう、葵。」
「うん!」
歩き去る親子の姿を眺めながら、宗介はその場から一歩も動けなかった。やがて親子の姿が見えなくなると、宗介はようやく歩き出した。
「なんだ、幸せそうじゃん。良かったな…」
宗介の顔は、長年の呪縛からやっと解き放たれたかのようにスッキリとしていた。
その後、葵の命日に海に行く事はもう二度となかった。
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完