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「う、うう、葵、葵…どうしてこんな…うう…」
「…」
葵の母親である山中紫と警察署で落ち合い、宗介達は署内のとある個室に案内された。扉を開くと、物のない部屋にステンレス製の台が置かれており、その上に薄手の寝袋のようなものが横たわっていた。案内の刑事がチャックを開けると、そこには葵の遺体が入っていた。
顔は崩れているが、この遺体は紛れもなく葵だ。葵の母親である目の前の女性も自分の娘を見間違うはずがなかった。遺体が山中葵本人であることを確認すると、刑事は一礼して退室した。
葵が亡くなったことを認めざるを得なくなった紫は、そのまま床にへたり込んだ。葵の身体にすがりつくことはなかった。彼女の遺体は余りにもボロボロで、触ったら崩れ落ちてしまうのではないかと思ったからだ。これ以上自分の娘を傷付けたくないと、紫は一人床で泣いた。
宗介は壁側に立ち、葵の遺体と泣き崩れる紫を眺めていた。
「自分の死体の前で自分の母親が泣き崩れている…シュールな光景。」
「…」
場違いとも言える葵の発言に苦言を呈すべく幽体の方の彼女を見て、宗介は言葉をなくした。彼女の顔からは表情はすっかり抜け落ち、完全に無表情であった。自分の母親が嘆き悲しんでいるこの状況は、葵の心に全く響いていないようだった。やはり葵は変わってしまった、まるで別人だ。宗介は鳥肌が立つ腕をさすった。
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「…葬儀のことなんかは、また連絡します…」
「はい、お気をつけて。」
呆然としたままの紫をタクシーに乗せ行き先を伝え、宗介は走り去る車を見送った。タクシーが見えなくなると、くるりと振り返り、自宅の方向へ歩き出した。
「タクシー乗らないの?」
「歩きたい気分なんだ。」
二人はそれ以上の言葉を交わすことなく歩き続けた。歩き出して30分ほど、まもなく宗介のアパートに着くという頃、ついに葵が沈黙を破った。
「ねえ、お母さん泣いてた。」
「そうだな。」
「私、本当に死んじゃったんだね。お母さんの泣き顔を思い出したら、急に実感しちゃったよ。もう、一緒にご飯食べたり、喧嘩したりすることもできないんだ。」
「葵…」
「見て、死んだ実感が湧いちゃったから…
もう、宗介にも触れない。」
葵が差し出した手を思わず握ろうと宗介は手を伸ばしたが、彼の手は宙を切った。葵が宗介の部屋に来た直後、宗介は葵の頭を撫でた筈だ。それが今は手を繋ぐことさえできない。死の実感と共に、葵の存在は徐々に薄れていくのだ。
それが彼女にとって良いことなのか、それとも悪いことなのか。宗介には判断できなかった。
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「俺、もう寝るけど…葵はどうする?布団入れるの?」
「入れないと思う。眠くないし、起きてるよ。部屋暗くして良いよ、見えるし。」
「わかった、じゃあ…おやすみ。」
「おやすみなさい。」
宗介は部屋の明かりを消し、布団に入った。暗闇の中ソファに座り、消えているはずのテレビをずっと眺めている葵をチラリと見ると、すぐに目をそらし布団に深く潜って眠った。
翌朝、浅い睡眠を繰り返し寝不足気味の宗介は携帯のアラーム音で目覚めた。葵の姿を探すと、彼女は昨夜の体勢のままソファに座っていた。
「おはよ。」
「ああ、おはよう。」
ずっと葵との同棲を夢見ていた。大学を卒業したら一緒に住もうと約束していた。朝一緒に目覚め、彼女と一番に言葉を交わすのは、宗介の憧れであった。今その願いは叶ったが、幸せな気分になんてなれなかった。
「今日はどうするの?」
「取り敢えず大学行くよ。一限が出席取る授業でさ。葵はどうする?」
「私は…今日は部屋にいようかな。色々考えたいこともあるし。留守番してるよ。」
「そっか、わかった。じゃあ、行ってくるね。」
「いってらっしゃい。」
相変わらず表情のない葵に見送られ、宗介は家を出た。
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「よ、おはよ!元気ないじゃん、寝不足?」
「おはよう、まあそんなとこ。」
宗介が教室に入ると人懐こい笑みを浮かべた井上亮介が声をかけてきた。人付き合いをあまり積極的にしない宗介の数少ない友人である。
「昨日、ゼミのやつと飲んでてさ、お前も来るかと思って連絡したんだけど全然既読つかなくてさ!あ、今も付いてないじゃん。昨日の夜忙しかったのか?もしかして彼女来てた?」
マシンガンのように話し出す亮介。口数の少ない宗介にはこのくらいでちょうど良かった。
「いや、まあ彼女は来る予定だったんだけどさ。事故にあって亡くなったんだ。昨日はその事でバタバタしてて…」
言いにくそうに放たれた宗介の言葉に、亮介は笑顔のまま固まった。なんの冗談かと思ったが、宗介はそのような冗談を言う奴ではない。三年間友人として過ごせば、それくらいは分かった。
「え、彼女って、山中さん?亡くなったの?」
「うん、昨日ね。」
「それは…大変だったな。大学になんて来てて大丈夫なのか?代返くらいしてやるぞ?」
「いや、いいんだ。なんだか家に居たくなくて。」
「そうか。酒飲みたくなったら、俺を誘えよ。一人で飲むんじゃないぞ。俺が奢るから。」
「はは、ありがとう。でも大丈夫だよ、まだ実感が湧かなくて…そこまで悲しくないんだ。俺ってひどいやつかな。」
「分かんねーけど…自分のペースで受け止めれば良いんじゃね?今はあまり一人にならない方が良いのかもな。」
「うん。ありがとう。」
間も無くして講師が入室し、授業が始まった。宗介が授業を受ける背中を、一人の女生徒が眺めていた。