3部
「どうしましたか?」
今までのことを整理しながらボーと歩いていたので、老人が心配そうに聞いてきた。
「何でもありません。」
「そうですか、この道を抜ければ信号も人通りもない道に出ますからもう少しだけ我慢してください。」
「あんたはなんで俺に協力してくれるんだ?」
山本は突然現れ、そして自分が逃げている理由を何も聞かずに手伝ってくれるこの老人に対して猜疑心を持っていた。老人は
「そうですね。
理由になるかはわからないですが、私にはあなたと同じくらいの孫がいましてね。でも、ホームレスの私では会いに行くこともできないし、今どうしているのかもわからないですから、何か力になることもできないわけです。
つまりは、孫に何もしてあげられなかった老人の自己満足だと思ってくれれば結構ですよ。」
山本はほとんど理由になっていないと思ったが、現状で頼れる人間はこの老人だけだったため、話題を変えるようと
「何でホームレスになったんだ?」
「誰もが陽の当たる場所だけを歩いて生きて行けるわけじゃない。
いつの間にか日陰を歩いているうちに、陽の当たるところを歩けなくなっていた、それだけのことですよ。」
「何か犯罪でもしたのか?」
「警察官ならではの着想ですね。
でも違いますよ、無一文になってサラ金から逃げるためにホームレスになった人もいれば、自分の人生に絶望して逃げるためにホームレスになる人だっている。私は決められた檻の中で生きることが嫌になって逃げてしまったんです。
当たり前に生活していたことが、次第に私の首を絞め、そして私に依存している者たちがさらに私の首に巻き付いたひもを引っ張り、息ができなくなるほどに辛くなっていく。
現実から逃げても、生きていくことに窮することに変わりはありませんでしたけどね。」
「元に戻ろうとはしなかったのか?」
「人は生まれ、そして育ち、死んでいく。
永遠と呼ばれる生命は存在しないから人は自分がいなくなっても問題が起こらないように補完するということを覚えたんですよ。
あるいは補充するとでも言いましょうか。
私がいた場所には、新しい者がいて入り込むことすらできなかった。
電車で、一度立ち上がった席にもう一度戻れないことがあるように、私の席には違う人が座っていたんですよ。」
「新しい席を探そうとは思わなかったのか?」
「人とは勝手な生き物ですからね。
自分は愛されていると思い続けたいんですよ。相手にひどいことをしても変わらずに愛してもらえると思ってる。
愛は幻想で、理想で、そして蜃気楼のようなものなんですよ。
手を伸ばしてもつかめず、気がつけば消えている。でも、そんなことに人は気づかない。失った時に初めて愛の真実に気付くんです。」
「愛について語る宗教家みたいになってるぞ。」
山本が言うと、老人はニコリと笑って
「あなたには愛がない。
だからこそ、今の立場にいるのではないですか?
部下を愛していれば、迷惑をかけるような捜査はしない。友人を愛していれば、知りたくないことから逃げて友人そのものを失うこともない。
誰かを思った時、大切にしたいと思った時に、それを人は愛と呼ぶのかもしれないですね。」
「くだらないな。あんたの愛についての話に興味はねえよ。
それで、これからどこに行くんだ?」
「とりあえず、警察が来ない場所に移動しましょう。」
老人はそう言って歩き始めた。
山本はその背中を見ながら、この老人が自分のことについて詳しく知っていることに違和感があり、この老人についてもっと検証すべきだと思った。