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後編

 後ろにいたのは小柄な、化粧気のない、日に焼けた女性だった。

「秋陽さんですか?」

 うっすら微笑むことができたと思う。

 

「東京がこんなに暑いことを忘れていました。ごめんなさい」


深大寺(じんだいじ)で待ち合わせがよかったかな、涼しい木陰がいくらでもある」


「お寺では拝観料がいると思い込んでいまして」


「植物園の入場料は払いましたが?」

 意地悪を言ってみた。


「ここは仕方ないんです」

 どういう意味かわからなかった。

 

「お見せしたい花があったんです。小石川には無さそうで、夢の島にはあると思うんですがここのほうが落ち着くから」


 ――植物園の名前らしい。

 

 ついて歩いた。その後会話がない。その花を見なければ解放してくれそうにない。

 

 「秋陽」の容姿にがっかりしたのかどうか、定かでない。背の高い、利発を絵に描いたようなスキのない人だと思っていた。百八十センチある自分の、せめて肩に届くくらいには。

 

 彼女は言ってみれば、年ごろを過ぎてしまったアラフォーで、歌を詠みそうでもない、哲学書なんて到底読むとは思えない。人に会うのにスッピンというのも解せない。

 服は変に若づくりなカジュアルで、ボーダーTシャツに黒のジーンズ、その上に薄手のカーディガンを羽織っている。背中に垂れた黒髪の傷みが目についた。

 

 女の後ろ姿は幹生をベゴニア園というコーナーに導いた。設定温度が低いのか、しのぎやすい。それなのに左右に所狭しと飾られた花はパン皿ほど大きく、赤白黄色と絢爛豪華で、違った意味で暑苦しかった。


「作り物のような花ですね」


 秋陽はそれには答えずに、色の洪水の中を過ぎ、銀とピンクのペンキをひっかけたような、こんもりとした植物の前で止まった。


「ベゴニアはいつも片想いなんです」


 二重(ふたえ)ではあるのにどこかぼうっとした掴みどころのない瞳が見上げていた。


「葉っぱがハート型なのに左右対称じゃない」

 そう呟いて葉裏に手を入れた。確かに葉脈が真ん中を走っていない、いびつだ。

 

 持ち上げられた葉の下に薄ピンクの慎ましやかな花が見えた。

秋海棠(しゅうかいどう)に似ています」


「あら、さすが。同属ですわ」

 急に嬉しそうに微笑んだ。まるで自分がベゴニアの精でもあるかのように。

 

「父が他界しました」

「え? お父さん?」


「はい、それで急遽一時帰国です。母が横浜の弟宅に同居することになり、安心しました」

「それは、大変でしたね」


「英国に戻る前に一度会って頂けたらとご無理言いました。来てくださってありがとうございます」


「あなたはいったい?」


 幹生は自分が何を尋ねたいのかわからなかった。「何者ですか?」「何が目的ですか?」「僕に何を求めているのですか?」そんな言葉を口にしても意味がない。

 

「白花が咲いていてよかった」


 秋陽はまた不連続なディスクールを吐く。指差した植物には、イタドリのようにすっと伸びた数本の茎に彼女の言うところの片想いの葉が間遠についていた。葉の付け根から白い花房がここかしこに垂れ下がる。


「見事ですね」


 彼女は少し心配そうに、それでも愛嬌を潜ませて微笑んだ。


「あなたがどなたかわかってしまいました。(みき)()えるから(しのぶ)さんだって。私はイギリスで庭師をしています」


 またつぎはぎのせりふだ。不統一な作風そのもの。


「それは別に構いません。忍の名で詠む歌は、少しばかり有名になってしまった本名で詠む歌とは一線を画しているだけで」


「手すさびの戯れ歌ですか?」

 今度は真摯な瞳が覗きこんだ。


「失礼な、そんな読み取り方をしていたのですか?」


「いえ、その方がお互いのためだったかと」

 秋陽は俯いて背を向けた。

 

「ベゴニアのさし木は簡単です。でも茎を縦に裂いて乾かしてしまえば再生しない」

 くいっと顔を向けて笑顔を作った。

「これだけ見ておいてください。こちらとそちらの花房の違い。花の形の違いだけ」


 彼女は左右の手で同じ茎から出ている上の花房と下の房を指し示した。

 幹生は目の付け所もわからないままに眺めた。何か言わなければならない。

 

「同じように見えますが、こっちのほうが純白ですっきりしている。そっちはピンクがかって」


「ええ、白いほうがあなたでこっちが私です」

 女はつっと背を向けて歩き去った。


「待って、待って下さい。何が言いたい? どういう意味?」

 温室を出たところで追いついた人はほんのりと頬を染めているのか、足元を見つめたまま、

「雄花と雌花の違いです。すっきりしているのがあなた。ハート形の子房を抱えたのが私です」

と言った。


「ハート形の思慕」と聞こえた。ほんのりとピンク色。小さな背中がより小さく見えた。


「時間よかったらそばでも食べに行きませんか?」

 秋陽は驚いたように顔をあげ、会ってから一番のまん丸の目を見せた。


 綺麗だと思ってしまった。そして幹生の心が何かを察知した。

「私、深大寺さんの白鳳の仏さまにお参りしようかと」


「ベゴニアを葬りに? 縦に裂いてはいけないのでしょう?」

 秋陽の目は幹生を見ながら揺れていた。

 

「それとも僕は思っていた男とは違いましたか?」

 出来る限り優しく発音した。偏屈な人付き合いの悪いヤツと言われてきた幹生だ。


「あなたはあなたです。意地悪な癖に繊細で、女っぽく見せて切り替えの早い、ひねくれた作風にぴったりです」

 俯いて怒ったように発音した。

 

 秋陽が言葉を継いだ。

「そして私の言葉が悉く通じる」


「お互い様です。嫌われたのでないなら食事付き合って下さい。イギリスでは本格的なそば食べるのも難しいでしょう?」


「干したお蕎麦ならスーパーで買えます」


「そんなものと一緒にしないで欲しいな、江戸っ子としては」


「私は出雲そば育ちです。お蕎麦は黒くておつゆは薄口。関東風が口にあうかどうか」


 お転婆娘がそのまま大人になったような笑顔をした。安心して軽口が言えた。

 

「それじゃ同じ植物体とは言い難いな。サイト主宰者として注意勧告したいことがあるので来てください」


「サイト主宰者の癖に私のこと調べなかったのですか?」

 個人情報として登録されているのは歌人名、出身地、生年月日とメアド。それも自己申告だ。正しくないと困るのはメールアドレスだけ。

「メアドをググりはしなかったのですね」


「主宰者の良識として」

 秋陽は同じメアドでブログかウェブサイトを持っているらしい。


「ググれば来なくて済んだかも」

「いや、それはないな」


 噴水を見降ろしながら芳香の充ちるバラ園をゆったりと歩いた。ぽつりぽつりと花のこと、短歌のこと、大学での専攻などを話題にした。


 幹生は、大学卒業後、一度は出版社に就職したが祖母の介護のため在宅での仕事に変えたなどと、いい齢をして何故独り身か、言い訳のように話した。

 「上手くもないのに歌集が出版できたのも、そのコネがあったから」と付け加えた。

 

 ふたりは武蔵野の趣溢れる自然林の方へと入っていく。


「奈美さんですか、美奈さんですか、美奈子さん?」


 幹生はもちろん、彼女のメアドを何度も見ている。メッセージを送ろうかと考えたこともある。


 namiと始まる。ナミが下の名前だと想像していた。


「なるみです。徳島県の徳に美しいと書きます。もう少し女らしい字だったらよかったのだけど」

(なる)()


 思い描いていた歌人と本人との齟齬はかき消えていた。硬い字面に柔らかい音。気取らない見かけに頭の良さを隠す。

 目が悪いのか、一見ぼうっとした表情は誠実さに溢れている。

 

「僕の徳美」

 幹生は口の中で囁いた。「片想いの一心同体、雄花と雌花に分かれているだけ」


 今日会ってそう言ってくれたのだろう。両想いになってはいけない相手。

 独身の自分はいい、彼女は、夫のある身だ。

 

 ふたりの足は植物園の出口に向かう。時間切れになってしまう。そう思うと衝動が幹生の身体を駆け巡った。


 園の深大寺口直前で手首を握り、木陰に引き込む。腰を取り口づけした。


「幹生さん……」


「歌人が草食系だと思ったら大間違いだ」

 そう囁いた。


 徳美は幹生の胸に顔をつけて目を閉じていた。睫毛が長い。

 

 そのまま摑まえていたいと思ったのに徳美は、手のひらを幹生の胸に置いてそっと身体を離した。真っ直ぐ見上げると、

「いつか必ず戻ります」

 と言って幹生の腕をすり抜けた。


 ゲートの直前まで駆け去ると振り返って、

「待っていて下さい」

 と手を振った。そして見えなくなった。

 

「何を待てというんだ?」

 幹生は万緑の中、独りごちて立ち尽くした。


読んでいただきありがとうございました。

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