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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ほんの少し良い、なんともない日

作者: 勤臣蛆虫

 後悔している、とても。

迂闊に口車に乗せられて新歓コンパとかいうものに顔を出したこととか、わけも分からずに大学デビューだとか言ってめかし込んできたせいで他の誰かとの違いに凹んでしまったりとか……赤ら顔でやたらと絡んでくる年上の子供をばっさり切り捨てたせいでさっきから私の周りが空白地帯になっていることとか。でも、それにしたってないだろう、


「ねぇ、彼氏いんの?」


 ……開口一番これである、品性も何もあったものではない、緩いのは顔だけにして欲しいものだ。


「フランケンシュタインの花嫁って知っているかしら? そんな気分よ、私」


 と、ついつい言ってしまった。ああ、飲み慣れない酒というやつのせいもあるのだろうが、それにしたってあんまりにも面子を潰し過ぎだ。事実の切れ味はいつだって無慈悲であるというのに。先の輩も輩だ、その程度の悪態なぞ曖昧に笑って誤魔化せばよかろうものを、阿呆のように口を広げてぽかん、と……本当に、もう。


 ああ、どこまで言っても人間は後にならなければ悔いることはできないのだなあと思う。後悔って言葉を見つけた人は偉大だ、そう言わずにはおれないような、さぞ深い悔いがあったのだろう。世の中はいつだってままならない。素面で生きるにゃ息苦しくて、酒に溺れりゃ浮かんでこれぬ。

 私が無言で立ち上がると、居づらそうに男連中の輪に入っていた先の赤ら顔が、


「どうかした?」


 と問い掛けてくる。もう、なんだってこいつは本当に私にちょっかいを掛けてくるのだか。


「……」


 私がそのまま奴に一瞥くれると、何を勘違いしたのか期待するような目で此方を見返す。……莫迦だとは思っていたが、本当に単なる阿呆か。見栄えばっかりは大人に近づけているが、きっと詰襟を着ていた頃と何ら変わらない、騒がしく愚かな阿呆。残念ながらわたくしは、もう貴方への興味が失せました。


 私はそのまま顔を背けて席を立つ。幸いにも大部分の男どもは別の華に夢中のようだし、私一人消えた所で大して騒ぎもしないだろう。それはとっても好都合だ。


 言い訳程度にトイレに行って手を洗う。流れる水が冷たくて、いっそ口に含みたくなってしまう。酒と言うやつはこんなに粘ついて、気色悪くも身体に染み込むものなのだろうか。自分の周りが薄ぼんやりとしてしまってどうにもすっきりしない。おまけに折角塗り重ねてきたよそ行きの仮面も剥がれてしまった。そこに居るのは遠慮がちで慎み深い―男どもの望む貞淑な女―ではなく、生のままありのまま残酷な、私――


 自嘲気味に顔を上げて鏡を見る。そこにはそれなりに気を使ったのに無残にも化粧の崩れかけている私の顔と――美しい華が、音もなく咲いていた。


「え、っと……」


 どうして貴女が、違う。そちらも手洗いですか? 違う。わたくしに何か用でして違う違う。……どうすればいいのか分からなくて固まるなんて久しぶりだ。本当にどうしたものか、私が完全にフリーズしてると、彼女はそっと私の横に並んできて、

 つぃ、と指を搦めてきた。うひゃあ、と変な声を上げると彼女は眉を上げて、それから妖しく微笑んでみせた。


///


「ねぇ、何処か、行ってしまわない?」


 そんな事を彼女に言われて断ることのできるやつがいるだろうか、私は無理だ、というか無理だった。あれは駄目だ、完全に魔性のものだもの。私如きが叶ういきものじゃあない。綺麗なものは有無を言わさない迫力があるのだ、妖しくも芳しき美の前には誰も彼も平伏せずにはいられない、そういう話。


 しゃらん、と彼女の美しい黒髪が解けて夜に混ざる。夜に溶けてしまいそうな彼女のかたち、するりと長い手足を闇に滑らせて、けれどもその眼は猛禽のように怪しく光っている。刺すような眼、という表現がこれ程似合う人もそういるまい。その上陶のように白い指先はたおやかに矯められて私の方へ差し出されてくるのだ。――この人は魔性だ、とても私と同じ人間とは思えない。なんだってこうも妖しの魅力があるのだか、世が世なら国が傾く。


 伝え聞く限りでは同い年だというのに、すらりと無理なく伸びた背筋に沿って均整の取れた形をしている。それは女の形だ。美しくも蠱惑的な、魔性の姿だ。濡れ羽色の長い髪を流している彼女の事を、やっかみ半分に魔女のようだと揶揄していた者もいただろうか。彼女自身もそれを楽しんでいたのか、黒地にレース編みの入った喪服のような独特の装いを身に着けているところも見たことがある。薄笑いを浮かべながら人心を惑わし、人々を翻弄するその様は実に魔女。誘われるがままにのこのこ着いてきた私も彼女にやられてしまっているのだろうかなんて、言うまでもないことなんだろうけど。


「ああ、矢張り、今日はとても綺麗だわ」


 彼女は顔にかかる髪を後ろに流しながら空を見上げている。成る程確かに良い空だ、学生連の騒がしい喧騒も遠く、派手なネオンの光も彼方。急に人気のない住宅地の方へ歩き出すのだからさっさと帰るのかと思ったが、そうでもないらしい。


「星はお好き?」

「……ま、人並み程度には」


 どうにも変な緊張感が走る。正面切って話した事など数える程度しかないのだ。それも事務的な、必要に駆られての事であって、まあアナタもセイロンティーがお好みでしてウフフなんてにこやかな世間話をする間柄ではない。こういうのは政治的にも色々ややこしいんだ、全く女社会というやつは。


「ああ、講釈をしようと言うわけではないから、安心して頂戴」


 何かに気がついたかのようにそう付け加える彼女。うん、見当違いもいいところだ。案外抜けている所があるのかもしれないな、この人。


「さいですか、まあ、アレコレ言われても分かんないから良いけれども、っと」


 いかんいかん、地が出ている。おのれアルコールめ、私が三国武将であればたちまち謀反しているところだが、命拾いしたな。

 ばつが悪くなって押し黙る私の様子を察したのか、彼女は口元だけで笑う。月明かりを背負った彼女は闇の中に蕩けてしまいそうで、それは女の私から見てもすうっと落ちてしまいそうな……いや、Sではないけどさ、念のため。


「私、本当は星が見たかったのよ。かつてその場所にあって、今はない星。そんな儚い在り方が好ましくて、それに星を見ているって言えば夜更かしもできるんですもの、なんだか秘密の悪戯をしているみたいでとても楽しかった」


 眼を閉じて大げさに歩いて見せる彼女。なんだ、思ったより気難しい人でもなかったのかもしれない。ちょっとばかり“変な人”ってだけなのかも。


「――けれど、そんなのは許されないんですって。実がない、価値がない、女がするものでないってね……笑っちゃわね」


 ああ、そういえば彼女は天文学科ではなかった。確かに貴人然とした彼女がボロボロになって研究をするというのは想像し難いけれども。所謂家の都合というやつか、よく耳にする話だ。今の御時世に旧体制的な、なんて言われるかもしれないが、それでも普通によく聞く話しだ。複雑な家庭の事情により日夜バイト漬けで学費を工面したり、家の都合で大学に進む事ができなかったり……良くある話だ。人間の方が制度に追いついていないのだ、どいつもこいつも形ばかり偉そばって砂の城を築きたがるのだから。


「その上許嫁まで勝手に決められて、本当に勝手な話――」

「許嫁?」


 おや、ここまでとは流石に予想外。それにしても彼女も少し酔っているんじゃなかろうか。普通、さほど親しくも無い私にそんな事を吐き出すものでもないだろうに、またしてもアルコールの魔力というやつか。酒精は人の本性を暴くなんて言うが、彼女も彼女でやられてしまっているようだ。まあ、あれだけ男共に集られてしまっては、愛想笑いをしながら相手をする以外なかったのだろうけれども、ご苦労なことだ。


「そう、許嫁。未来が決まっているというのは、こんなに詰まらない事だなんて思わなかったわ。まるでラットの電流実験みたい。何をしても結果が変わらないと悟ってしまえば、きっと誰もかも無気力になる」


 それはそうだ。けれども抑圧された何かは決して失われることはない。それは機会を伺って、そうしてここぞという所で一気に溢れてくるのだ。堤は長い時間掛けてひび割れ、そうして吹き出すのは一瞬だ。百姓一揆みたいなもの、なんていうと一気に土臭くなるけれども。


「そんなに嫌なら、家を出てしまえばいいんじゃあない?」


 と事情も知らずにうっかり首を突っ込む私。ああ、岡目八目であってくれればよいのだけれど。彼女は一瞬驚いた顔をして、それからまたすうっと儚げな顔になって、それはきっと何かを諦めてしまっていて。


「家が嫌いならきっと、簡単な話だったのでしょうね……けれども、だからこそ優しい人が眼に入るの。おかしな話ね、一人々々ならそうでもないのに、それが集団になると途端に怪物になる。……きっと逃げることはできないのでしょうね。今は離れているからこう言ってしまえるけれども、面と向かってしまえば棄て去ることなんてできなくなる。それは私も群れの一つだからなのかも」


 どうやら彼女は善性の人らしい、それも自分の我侭で人を困らせることができない程度には。それはなんとも……難儀な話だ。難しい人間というやつは、それが本当に嫌い切れないからこそ一番厄介なんだろうと思う。どこかで期待してしまう、そいつはまだ取り返しが効くのだと思ってずぶずぶと深入りしてしまう。そうしてそんな輩は“良かれと思って”何もかも滅茶苦茶にしてしまってから口下手に謝るだけなのだ。誰も彼も暗い顔をして下を向く他なくって、結局最後には何一つ救われない。


「ねぇ、このまま何処かへ行ってしまわない? ここでなければ何処だっていいの、少しだけでいい、遠い所へ」

「驚いた、夜遊びをするような人には見えなかったけれど」

 私がそう言うと彼女はまた微笑んで、


「そんな家の娘が、こんな時間まで出歩いていてタダで済むと思う?」

 これは怖い。ああ、怖くて怖くて、彼女に従うしかなさそうだ。


「……ちなみに、このまま戻るとどうなってしまうの?」

「さて、どうなるでしょうね……、最悪家から出して貰えなくなるかもしれないわね」


 決死の逃避行、なんてね。無軌道な若者の云々だなんてどいつもこいつものたまうけれども、自分の理想を一々投影しないでほしいものだ。失敗すら許さないのはあんまりにも度量が狭く、そして詰まらない。


「……だからこそ、ねぇ、私に少しだけ時間を頂戴。今はまだ掌の中にある小さな自由というやつが、未来の何もかもを上回るくらいに幸福で、絶対的なものだと感じさせて頂戴」


 さてはて、お姫様のご指名を受けてしまっては仕方がない。私じゃ騎士役には不足だろうが、それでも本人から頼まれたんじゃあ仕方たない。土台、女らしくなんてのは向いてないのだ。精々この酔狂なお嬢様のお相手をしてやろうじゃないか。


「はいはいよござんす、っと。エスコート役なんて柄じゃないんだけどね、私は」

 そっと彼女の手を握る。引っ掛かり一つないすべすべとした指先はひんやりとして気持ちが良い。

「あら、そう? 貴女、随分と人に頼られていそうな様子だけれど」

「よせやい」


 こちとらお爺ちゃんっ子なのでね、べらんめぇなのは否定しないが、ガキ大将ってほどじゃあない。そんな些細な事でも、同い年から見れば老成して見えるのかもしれないけれども。


///


「どうして私なのか、聴いても良い?」


 ガタガタと震えるローカル線に揺られながら、窓の外を見ている彼女に問い掛ける。あの男どもがお眼鏡に叶わなかったのは分かるけれども、彼女ならばもっと良いエスコート役が見つかったろうに。まさか直感的に、といった風でもあるまい……そう思いたいが、こういう世俗離れした風体の輩は突然に脈絡のない事をしでかすからなぁ……。


「そうね……どうしてかしら。同じ女の子だから? いえ、違うわね……変に同情して欲しくなかったのかしら、私」


「ああ、成る程、その点については保証するよ。私は一々同情したりなんてしない」


 ざっくり私が言い放つと、彼女はふふっと柔らかく微笑んでみせた。うん、今の顔は良い。人間は矢張り、それくらいさっぱりした表情で生きなけりゃあいけないよ。例え目の前が地獄だったとしても笑い飛ばしてやらなくっちゃあ。


「それにしても、海……、随分と小さい頃に行ったっきりね。不謹慎かもしれないけれど、なんだか楽しくなってきたわ」

「いいことじゃないかな。逃避行と言えば海、失恋だけじゃなくって、溜まった鬱憤をぎゃあぎゃあ喚き立てるんならもってこいだろうし。ついでに花火でも買って行く?」


「それよりも、アレが欲しいわ」

 カタンカタンと刻む電車の音に合わせ、口元に手をつけて静かに息を吸う彼女。成る程とことん反抗してやるつもりとは恐れ入る。ま、いいんじゃないだろうか、今日は彼女にとって唯一の日なのだから。乱痴気騒ぎに非行反抗、それらを今日だけは許してやるべきだろう。そういった行動すら単なるお茶目に見えるのだから、容姿端麗ってずるい。


「随分と非行に走りますな、お嬢様」

「そりゃあね、折角だもの……許して頂けるかしら、騎士殿?」

「私めが意見するなど恐れ多い事に御座いますれば……ブフッ」

「フフフッ」


 なんだか妙に可笑しくなって、二人して声を上げて笑い出す。眠っていたサラリーマンが薄ぼんやりと眼を開けてしまうくらいには迷惑な客なのだろう。けれど、許してやってほしい。


「ま、それなら心配要らんよ、こいつがあるからね」

 ごそりと鞄の中身を漁り、取り出したるは名刺大の箱である。

「あら、そういう人なのね、あなた」

「なに、嗜む程度で御座いますれば」


 ヘビースモーカーって程じゃないし、日に1箱吸い切るほどでもない。諸々試してはいるが、嗜好品の幅は出ていないつもりだ。物珍しそうに見つめる彼女に箱を手渡してやると、あれやこれやと箱を観察しながら何か頷いている。憂いがちな彼女の横顔に何処か子供らしい陽気が差したようで、なんとも不思議な愛らしさが宿っている。


「これは……紅茶の匂い?」

「ん? ああ、そういうやつだからね。アークロイヤルのパラダイスティー。珍しいヤツだが特別重いわけでもないから、ま、そこそこじゃないかな」


 この手の面白煙草は偶に買っては処分に困るのが常だが、どうやら彼女の興味を引く事はできたらしい。案外役に立つものだなあ、などと思ってみる。彼女にはきっと煙草らしい煙草より、こちらの方が幾らか良いだろう……そこでキャスターやらピアニッシモが出てこないのはまあ、詰まらないこだわりというかなんというか。まさかキャメルやピースがしっくりはまる事もあるまい。


「……昔、離婚する前の父が煙草を吸っていたのを思い出すわ。私は父のことが嫌いではなかったけれど、その煙の匂いは好きになれなかった。……彼が人前で煙草を吸うときは、決まって機嫌の悪い時だけだった」

 へえ、そりゃ大変な事で……っと、いかんな、我ながら皮肉ったらしい思考が鼻に付く。どうにも無遠慮になり過ぎているような気がする。一度はめかし込んで―淑女とは言わないまでも、ごくごく普通の手弱女然とした様子で―振る舞おうとしていたのが嘘のようだ。所詮私のようなやつは、私にしかなれやしないのだろう。これもまた彼女の魔性か、なんて責任転嫁をしてみた所で、眼前のそいつは微動だにしないままぼんやりと記憶の中を見ている。やはり浮世離れしているな、この人は。


///


 湿気。身体に纏わりつく潮風が脚を引き、廃棄物の混じった砂地が我に抱擁せよと足場を揺るがせる。私の記憶の中にある海というやつはいつだって静かで冷たい。きっと寂しがりなのだろう。遠くの灯台から僅かに届く明かりと、寝不足な子供達の家だけが少しだけ暗闇を削っている。久し振りに来てみたが、やはり海は好きになれない。地に足が着いていない、踏ん張りがきかないのはどうにもいけない。


「はい、火」

「ありがとう……、ん、上手く点かないわね、何かコツがあるのかしら」

 彼女の求めるままに貸してみたけれども、ま、そう上手くはいかないだろうなぁ。

「軽く息を吸いながら近付けるんだよ、ほら、もう一度」

「ええ、やってみるわ……、っん、カハッ。ンンッ、ケホッ、煙ったい……」


 ライターを取り返してジリジリと火を点けてやると、不良気取りの高校生もかくやといった風に大きくむせる彼女。悪い遊びを教える大人の気分だが、しかしまあ、そんな所作にも色気があるのはどうしたことだろう。かくも人のかたちはままならぬ、と益体もなくぼんやり考えながら、私は癖で底を叩いて一本摘み出すと、かちりとライターを回して着火する。少しの間上品ぶって離れていたせいか、6ミリのちゃちなタールでも随分ずっしりと身体に染みてくる。


 ぶはぁ、と煙を吐き出すと、彼女は眼を丸く見開いて感心した風に声を上げた。

「流石に手慣れているのね」

「なに、大した事じゃないよ」

 ちょいとばかし悪たれていただけ、褒められたものでもない。ちびなんてやってると舐められてしょうがないから、ね。


「浜辺の花火にゃ少々地味かな。けれども存外風情があるね、人工の蛍ってやつかな」


 負けず劣らず寿命が短いのが問題だな、と携帯灰皿に受けながら冗談めかして言ってみる。静かに息を吸い込む度に炎は僅か明るくなり、それから灰に埋もれて暗くなる。それもそうね、と彼女は相槌を打ちながら、しんと暗くなった海の方を見て息を飲んだ。


「知らなかった……夜の海ってこんなに怖いのね。真っ暗で、音だけが響いて……、」

 身震いするような、理解できない場所。


「ま、そうさね、今はまだ深夜だもの。太陽がなくっちゃ海は暗いままだ」


 海は漆黒をたたえ、たっぷん、ざっぱんと波打つ音だけ響かせている。見えないものが少しずつ迫ってくる恐怖。それは遠くに見える街の光に追いやられた原初のものなのだろう。人類なんぞ穴蔵暮らしの原始人をしていた頃から大して変わっちゃいない。手先に掲げる棒は少々上等になったのかもしれないが、所詮は群れる生き物だ。忌避してみせた所で私達は光から、街から離れて生きることはできない。一人ぼっちでは寂しすぎて、誰かと関わらなければ生きていけない。


「何か叫んでみる? バカヤローとか、誰かの事が好きー、とか。案外スッキリするかもしれないよ?」

「……やめておくわ、一度口にしてしまうと止められない気がするもの。それに、まるでゴミを投げ込んでいるようで良い気がしないわ」


 ごもっとも、と私は曖昧に笑う。海は感情の廃棄場じゃあないものなぁ。いっそ大声を出してみれば少しは吹っ切れるかも、なんて思っていたけれど、流石に彼女には躊躇われるらしい。けれども、偶には吐き出さなくては泥が貯まる一方でもある。


 すぅ、と息を吸い込む。どぉれ、手本を見せてやろうじゃあないか。

「勝手に死んでるんじゃないよ、遺産相続でしこたま揉めたじゃないか糞爺のバカヤロー!」

 突然の大声に驚いたのか、彼女がびくりと身体を震わせて此方を向く。私は視線に答えて悪党の笑いを見せると、もう一度海に向かって吠える。

「声掛けてくるんなら根性みせろよ、ちょっと冷たくあしらわれた程度で簡単に引き下がってるんじゃないよバカヤロー!」

「え、っと?」


「わああああぁぁぁぁ~~~~~~~!」

「わ、わあああぁぁぁぁーー」

 困惑する彼女を無視して出鱈目に大声を出すと、彼女もまた控え目であるが声を上げて海へ向ける。

「あああああああああああああ~~っ、あはははははは」

「ああああああああああああーーーっ、ふふふふふふ」


 壊れたレコードみたいに意味もない音を吐き出して、それから段々と堪えきれなくなって笑ってしまう。何もかも莫迦らしくなってしまって、同じく莫迦みたいな事をしている自分達の事も可笑しくなって。海はきっと巨大な懺悔室なのだろう、少しばかり暴言の掃き溜めにしたからって私達に怒ったりはしない、懐が広いのだ。生半可な人間よりもよっぽど人格者なのだ、海というやつは。


はあはあと暫く息を切らせながら笑い合っていると、また、ふぅっと彼女が真剣になる。それからたっぷり時間を掛けて、躊躇いながらも声に出す。


「……ねえ、いつ明けるか分からない暗闇の中に放り出されたなら、震えながら帳の上がる時を待つしかないのかしら……」

「さてね……、その時は星を見ればよろしい。夜も深ければ光は良く届くでしょうよ」


 泣きそうな声で彼女が言う。


「……雲が総てを覆い隠してしまったら? 道行きどころか、自分がどこにいるか分からなくなってしまって、叫びだしてしまいそうな気持ちになって……」


 はン、と鼻で笑ってこう返す。


「その時は手慰みに煙草でも吸うといいさ、作り物のちっぽけな光も明かりには違いあるまいよ。そんでもって、痩せ我慢しながらこう言ってやりなよ、“なんのこれしき、へいちゃらだい”ってね。それくらいの意地ならば、まあ、許されるんじゃないかな」


 なんて言ってはみたものの、少しばかり虚勢が過ぎるだろうか。なんだか彼女がばかに寂しそうな、今にも泣き出しそうな顔をしているのだから、つい。全く仕方の無いやつだな、私も。美人に弱いってことだろうかこれは。いや、まあ、仕方ないか、うん、仕方ない。


「そう……そうね……星を見れば良かったのね……」

「詳しいんでしょう、あなたは」

「ええ、また一つ詳しくなったわ……」

 瞑目して何かを噛みしめるように、彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。


///


 それから何をしただろうか。大切な話をしたかもしれないし、しなかったかもしれない。次第に薄明かりが見えてきて、私達は始発に乗って街へ戻った。


 彼女は心ここにあらずといった様子で曖昧なままで、私はどうにか手を引いて電車に座らせる。……流石に門前まで連れて出るわけにもいくまいし、そもそも家の場所なんぞ知らない。


「最寄りの駅は何処?」

「……」


 まったく、優等生にゃ徹夜は辛かったのかもしれない。パチンと私が手を叩くと、彼女は魔法が解かれたみたいな顔をしてはっと当たりを見回す。


「夜の散歩は終わりだよ、もう朝になってしまったから」

「……、そうね……戻らないと……」


 また伏し目がちな憂鬱顔。人を嫌いきれないってのは善性の証なんだろうが、神様ってやつはこういうのに限ってしんどい眼に合わせるんだから碌なもんじゃない。


「泣きそうな顔をするんじゃあないよ、明日は今日とは違う。必ず良い日だなんて決して言えないけれど……それでも良い日にしようと努力することはできる。つまりは……」


 屈みこんで彼女と目線を合わせる。

「また明日、ということさ」


 ふっと意識を浮上させて、それから彼女がどんな顔をしたのかは内緒だ。まあ、随分と可愛らしかったことだけは教えてあげてもよいかな。


「それじゃあまた明日、もう今日だけどね」

「ええ、また明日」

 

///


 ……また明日なんて言ってみたものの、仮眠から起きると既に猛烈な頭痛がっ。

 これが所謂二日酔いというやつらしい。畜生め、酒税掛けられてる分際でまたも私の前に立ちはだかるというのか。緊急避難と称して一限を休み、それでもどうにか、と這々の体で大学へ向かう。どうやら脚にもキてしまっているらしく、懐かしくも鬱陶しい筋肉痛というやつ。これでは“なんのこれしき”できそうもない。私だってしんどい時はしんどい。


 いっそ人を莫迦にしているのかと思うくらい長い坂を登り、這い上がり、時にずり下がりそうになりながらもえいやっと登りあげると、門の前に彼女の姿が見えた。いつもと同じ憂いを帯びた横顔は昨日みたいには冴えなくて、暗雲に覆いを掛けられたようにどんよりと寂しげで、そして諦めているようでもある。


「……また明日って、言ったじゃないの」

「今だって明日だろう、そんなに泣きそうな顔をしなくたって……」


 私がそう言ってから、彼女はようやく気が付いたようで、はたと眼を見開く。そうして艶やかな指先で口元を隠し、ゆっくりとそれを飲み込んだ。


「それは……そうね。どうしてかしら、なんだってこんなに寂しく感じるのかしら」

 ふむ、と彼女に倣って口元に手を当てながら思案する。どうやら私の人物評はアテにならないらしい。彼女はもっと、一人で生きていける人間だと思っていたが、それもまた勝手な押し付けだったのかもしれない。思っていたのと違う、意外ではあるが不快ではない、そういう所があるからこそ、誰かと時間を共にするのは興味深いのだ。


「朝帰りは怒られなかった?」


 私がにやにやしながら話しかけると、彼女もまた妖しく笑いながら返す。


「どうかしらね……でも、言うだけの事は言ったわ。案外悪くない気分だけど、お陰でさっきから瞼が重くってしょうがないわ」


 そう言って欠伸を噛み殺す彼女に、そりゃそうだと頷く。お嬢様然とした彼女に夜更かしは応えただろうが、そいつばかりはどうしようもない。


「おやおや、はしたないですぞお嬢様」

「あら、貴方も随分と顔色が悪いようだけれども?」


 どうやらバレてしまったようだ。私はぺろりと舌を出すと、にやりと作り笑いをしてやる。彼女は少し困ったように、けれども静かに笑い返してみせた。うん、悪くない……今暫く傍仕えを続けてやろうではないか。


「やれやれ……一服付けるかい、お嬢様。どこか……うたた寝をしても見咎められない静かな場所で」

「そうね。エスコートして下さる?」

「はいよ、かしこまって候、ってね。あはははは」

「ふふっ」


 彼女の問題というやつはまだ、解決していないのだろう。だが、ま、それは追々の話として今は此処で置く。なんせ彼女が所望なのだ、少しばかり席を外させておくれよ。




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