キリの旅路
木々のざわめき、小鳥のさえずり。
その透き通った空気を肺へ一杯吸い込んで、ゆっくり吐き出す。
「はぁ~、ようやく見えきたね」
その山の頂上から見下ろす小さな集落。
別にそこを目的地としていたわけではないが、山の中の道ではない道を散々歩いてきたのだ、少しは人と触れ合いたい。
「ホラ、ヤビメ、座ってないで行くよ」
この道をともに歩いてきた小さなお供を振りかえり呼ぶ。
ヤビメ、と呼ばれた少女は目の前で大きく伸びをしている男を少し見据えた後、腰を下ろしていた石から体を起こす。
「あとはもう下るだけだ、着いたら茶屋へ行って、団子でも食べながら話そう」
はい、と男が差し出してきた手を小さく握り、ヤビメは笑って返事をする。
「うん、マツミさま」
◆◆◆
「へぇ、ってぇことはあんたらあの山の向こうから来たのかい」
「そそ、山の向こうのずぅっと遠くから、海だって渡ったことあるんですよ」
「そいつぁすげぇ! 道中の面白話とか聞かせてくれよ」
先ほどの宣言通り茶屋に着いた男と少女は早速団子と茶を頼み、店の主人と談話をして場を盛り上げていた。
「面白…うぅん、生憎と静かな道を歩いてきたものでね、面白い話なんて、持ち合わせてないや」
被っていた笠を腰かけている縁台の上に置く。背負っていた薬箱も足元に降ろす。
「こっちの嬢ちゃんは? 娘かい」
「子供扱いしないでください! 立派に大人です」
「おぉっ、こりゃ失礼、確かにべっぴんさんだ」
「はは、ヤビメはまだまだ子供だよ」
ヤビメと呼ばれた小柄の少女は、背負っていた身の丈も大きく超える刀をそっと降ろした。その顔は、長い髪で隠れており、あまりうかがうことができない。
「この刀は? あんたのかい?」
「そうですよ! 私の刀です! フフすごいんですからね!」
「ほぉ、そいつぁ使っているとこを見てみたいね!」
少女が言うことを信じずにただ笑う。どうせ父親の刀を一時的に背負っているだけなのだろう、と父親の方へと視線をやる。
「本当ですよ、最近物騒ですからね、愛娘が心配で刀をやったんです」
そうしてぽん、と彼はヤビメの小さな頭に手を乗せる。
その言葉に驚きながら、こんなでかい刀持たせた方が危険なのではないか、と浮かぶが口にすることはなかった。
「マツミさまぁ」
自身の頭の上に置かれた大きな手が嫌なのか、頭をうねらせながらヤビメは振り向く。
マツミと呼ばれた男はその言葉に焦ったような表情になり、すぐにキョロキョロと周りを見渡して、誰も聞いていないことを確認し、ヤビメの口に「しーっ」と人差し指をたてる。
「何回も言ってるじゃないか、せめて様つけはやめてくれよ」
「んーん、慣れないんだもん」
「だもんじゃない、もう可愛いな畜生」
「そんなこと言うのマツミさまぐらいのものだよ」
「あぁっほらまた!」
娘と父親の他愛もない談笑は茶屋の主人によって運ばれてきた団子と茶によって中断されたのだった。
◆◆◆
「あ~確かにこの先にゃ村があるが…今はあちらも一杯一杯なんじゃないかねぇ」
先ほど見えた小さな集落に行くことを告げると主人は盆を器用に持ち直して腕を組んで唸る。
「何かあったのかな?」
「それが先日大きな山火事があったらしくてな、その原因が村の子供とかなんとかで、それで山の神様が怒っちまって、そのせいかあそこの収穫は絶望的でな…」
「へえ…」
マツミはヤビメの頭をぐいと自分の胸へよせて頭を撫でながら、これから向かうその村へと視線を向けた。
「そりゃあ確かに…ね」
そうして力をこめられ胸板に押し付けられたヤビメは苦しいの意思をマツミの腕を叩くことで示すのだった。
◆◆◆
静かに道なりにそって歩いてきたマツミとヤビメは、村の入り口が見えてきたところで確かに空気が変わったのをその肌で感じとった。
何かが焦げたような匂いと、何かが死んだような匂い。
自然とヤビメは袖で口元を押さえ、マツミからは笑顔が消える。
あまりこういう雰囲気の村へ好きこのんで入りたくはないが。
いずれにせよ、通らなければならない道だ。
マツミは繋いでいたヤビメの手を、更に強く握った。
「すいませんそこの方、僕らは薬売りを生業として旅をしているものですが…」
周りに畑(だったものと言った方がいいか)が見られたあたりで、ようやく村の人間と思われし男性を見つけたマツミは、なるべく笑顔で話しかける。が。
「……すまんな、今よそ者に構っていられる程、暇じゃねぇんだ」
と、訝しげな視線を向けられた後、立ち去られてしまった。
話は聞いていたが、どうやら村人たちの心も相当追い詰められているようだった。
「どうするの?」
「うぅん…まぁ、なんにせよここは通らなきゃいけない場所だし…日も暮れそうだし…ここで一晩を越さなきゃならないのは確実だろうね」
ここの村人が寝床を貸してくれたならば、の話だが。
参ったな、とマツミは苦笑い気味に頬をかくのだった。
ようやく住いが多く並び、人も見られるようになったあたりで、マツミは居心地の悪さを感じて複雑な心持でいた。
このままではいつか石でも投げられるのではないか、とマツミは一度チラと最愛の娘の姿を見る。
(…それは少し、駄目だな……)
最愛の娘が傷つくのだけは見たくない。
マツミは意を決して近くの村人へ声をかける。
「…僕らは怪しいものではありません、薬売りを生業としているものです。あなた方の村の事情はお聞きしています、あなた方に僕らが求めるのは寝床だけです、どうか一晩だけでも、貸していただけませんか。どんな場所でも構いません、雨風を凌ぐ場所を貸して下さい」
ただでさえ食料のたくわえが無い状態なのであろう、そこから食べ物を求めるようなことはしない、せめて暗くて寒い夜の世界から逃れる場所を貸して欲しいと、マツミは深く頭を下げる。
「……」
マツミに頭を下げられた村人は困った様に視線をさまよわせた後、マツミと、そしてヤビメを順に見下ろす。
「せめてヤビメ…この娘にだけでも寝床を貸してやって下さい。この際僕は外でも構いません」
「えっやだよ、私お父さんと一緒じゃなきゃ」
「我儘を言わないでくれ、僕だってお前と一秒だって離れたくないさ、でもそれでお前が体調を崩しでもすれば僕は」
そのマツミの言葉を遮るように、村人は深くため息をついた。
それに反応して村人の方へ顔を向ける、もしや今すぐ出ていけと怒られるのでは
「わかったよ、村長に話をするから、ついてきてくれ」
観念したように笑う村人へマツミは表情を明るくしてお礼を言いながらまた深く頭を下げるのだった。
「申し訳ありませんな、気持ちいい歓迎ではなくて、私らも少し余裕がなくてな。何、食料が底をついたって訳でも家が燃えた訳でもない。手厚いもてなしは出来ませんが、足を休めっていってください」
先程の村人、ワラベに連れられ村長の家へ向かい、事情を話せば村長は笑顔で迎え入れてくれた。
しばらく使ってないせいで手入れが行き届いていないが、それでも良ければ自分の家の離れを使ってくれと村長が提案してくれた。
マツミは勿論、と。一晩屋根を貸していただけるだけでもありがたいのに布団までつくとは、忙しい中ありがとうございます、と涙ながらに頭を下げたのだった。
「お礼……というのには足りませんが、話した通り私は薬売りを生業としております。誰か病の方が居られれば処方致しましょう」
「それは…ありがとうございます、実を言いますと一部の住人が酷い火傷で、この有り様では薬も満足に揃えられんで頭を抱えていたのです」
「お任せください、ちょうど、火傷によく効く塗り薬が揃っております」
村長が近くの者に声をかけて、マツミをどうやら病人のモトへ案内してくれるらしいと立ち上がったところで、横に座っていたヤビメが眠たそうに眼をこすった。
「あ、ヤビメもしかしてもう眠い? …確かにもう陽沈んじゃったもんね……」
ウトウトと体が船を漕ぎ始めたヤビメをポンポンと和ませ、近くに座っていたワラベに声をかけた。
「あ、あの…先にこの子、寝かせてやってくれませんか。刀も身なりもこのままでいいですから」
「は、はぁ…わかったよ」
そのままマツミの腕の中で眠り始めているヤビメを起こさないように、そっと抱きかかえたワラベに「では、頼みましたよ」と一言微笑んでから、マツミは席を立ち、火傷が酷いという村人たちの元へ向かった。
「………」
その少し駆け足のマツミの背中を見送りながら、ワラベは腕の中で大層幸せそうに眠る少女を見る。長い髪で表情が隠れていようと、少女の安心しきった鼓動は直に伝わってきた。
「…………すまねぇ…」
既に夜の闇の中へ姿を消したマツミへと、ワラベは小さく呟いたのだった。
◆◆◆
◆◆◆
誰かが、生贄になるしかなかった。
山火事の原因は小さな子供だった。少し肌寒い季節だったものだから、焚火でもして温まろうと思ったのであろう。
きっと彼らだって、あんなに山へ火が燃え移るだなんて想像もしていなかったんだ。
彼らが大泣きしながら家へ駆けこんできて事情を把握したころには、既に山は赤く染まり、辺りにはその灰ばかりが降ってきていた。
山は、怒った。
村の、村長よりも年が上の婆さんがいる。いつも占いやまじないで村の平和を保ってくれる。
その婆さんが「山が怒っている」と言った時は、背筋が凍って、自らの死を迎える気分になった。
その後婆さんが言う災いが悉く当たり、ついには食物まで実らなくなってしまった。
このままでは村の皆飢えて死んでしまう。何か術はないものかと皆が口々に助けを求め始めた。
すると婆さんはこう告げた。
『村の誰かを、山の神様へ生贄として捧げよ』
と。
勿論、それを聞いて皆が、ふざけるな、と声をあげた。
しかしこれ以外にないのだと、婆さんは話した。
そこからの、この村の住人たちの落ちぶれようは酷かった。
自分や身内ではなく他の者が生贄になればいいと、皆で皆を睨み合ってはどんどんと仲も悪くなっていった。
こんな切羽詰まった状況でそのようなことに陥ってしまえば、事態は悪化する一方で。
何とかしなくちゃならない。だけれどどうにもしようがない。
俺たちは皆頭を抱えていた。
そんな時に、現れたのが。
「どうか一晩だけでも、貸してくれませんか」
あの薬売りの親子だった。
よりによってこんな時に、と最初は思った。しかし頭を下げ続ける薬売りとその娘を見て、もしやこれは好機なのでは、と思ってしまった。
思ってしまった、のだ。
自分たちの村の人間の代わりに、この親子を生贄にささげればいいのではないか、と。
勿論それを咎める自分も存在した。しかし、見ず知らずの人間の命と、自分が生まれてきてずっとよりそってきたこの村の人間たちの命とを比べてしまって、最早自分たちが助かるには、この道しか残されていないのだと悟った。
村長の元へ薬売りを連れるフリをして、その話を村の人間数人と婆さんに話した。
婆さんは子供の方がいい、と言った。
村の人間でなくてはならない訳ではないようで、自分はどこかで安心してしまった。
うまいように薬売りと娘を離すことが出来て、まるで神がそう仕向けているような気もした。
自分の腕の中で眠っている少女を仲間に渡した時、あの薬売りの、笑みが脳内で蘇った。
そうして俺はまた、あの薬売りへの詫びの言葉を、心中で唱えたのだった。
◆◆◆
「起きないな、この子」
「あぁ…、好都合だよ」
山の頂上へ続く道を三人ばかしで歩きながら、眠っている少女を起こさぬように、男たちは声をひそめて話した。
「………まだ、幼いのにな」
「いいか、このことは他の者には話すなよ」
「あぁ、こいつは俺らだけの秘密だ」
村を救うためとは言え、悪意なき村の客を、山の神への生贄にしようと言うのだ。
お世辞にも、良いこととは言えない。
「この子、髪長いなぁ、邪魔じゃないのかな」
ヤビメを抱えた男がその少女の素顔を見てみようと、髪に手をかけた時だった。
後ろから、こちらへ向かってくる足音があった。
「? 誰だ?」
「あの薬売りはまだ治療中だと思うが…」
口にして、改めて罪悪感が募った男はそこで口を閉じだ。
「おうい、俺だ」
「おう、何だお前か、薬売りの見張りはせんでいいのか」
「あの人、火傷の者らの治療終わらせてさ、そしたら他の村人の体調も見て回るって言いだしたんだ」
後ろから灯りを掲げてやってきたのはマツミの案内という名目で見張りをしていた男だった。
「なんでも灰を吸い過ぎて、何かしらがどっかに詰まってるかもしれない…とかなんとか」
男は非常に悲しそうな、苦しそうな顔で、俯いた。
「なぁ、あの人本当に良い人なんだ…あの人が火傷の奴ら治療する様子ずっと見てたけどよ、俺らがアイツらに塗り薬塗ってやった時、アイツら酷く痛がっていたろ? でもあの人がやると違うんだ…なんつぅか…あの人、色んな話をしながら笑いかけて、痛みを紛らわせてくれるんだ」
「あいつら、笑ってたよ、昼間まで火傷が痛ぇ痛ぇって呻いて泣いてた奴らが、笑ってたんだ」
ヤビメが少し体を動かしたのに反応して、ヤビメを抱えた男が静かにしろと手で制する。
その後起きる様子がないと理解してから、また静かに口を開いた。
「……あの薬売りが良い奴だってこたぁわかってるよ、だけど…だけどそれでどうしろっていうんだ、これ以外に」
「……っ」
男たちはついに山の頂上へたどり着いた。
「…あの薬売り、朝になったら、俺たちの事、憎むだろうな」
「他の連中は関係ない、俺らだけでやったことだ」
「あぁ、……あの薬売りさんになら、殺されても文句言えねぇな」
「……すまねぇ…すまねぇ……」
ヤビメを抱えた男は山の頂上の、その崖の少し下に見える祠のようなものへ近づく。
その祠は覗くととても深い穴が随分と下まで果てしなくつづいているのが解る。
人一人丁度入れそうなその暗く、深い穴に、男は幼き小さな少女の体を両手で抱えて、そして穴の中へと、落とした。
少女は声も悲鳴もあげることなく、深い穴の下へと消えて行ったのだった。
◆◆◆
「ふぅっ、いやぁすいません付き合ってもらっちゃって」
「……いえ、こちらこそ、村の連中全員の診断までしてもらえるなんて」
「いやいや、一晩寝床を貸してもらえるんだ。娘の分までちゃんとお礼はしないと」
一通りの村人たちの家に入って処方し終えたマツミはもう夜中だというのに欠伸をすることもなく、ただ笑顔で話し続けていた。
途中から付添いでマツミの傍についていたワラベは、自分が何をしたのかわかっているからこそ、そのマツミの笑顔が、苦しかった。
「あ、そうだ、ワラベさん、アンタに渡すものがあるんだ」
「えっ、な、なんだい」
名を呼ばれたことで少しドキリとしながら、なんとか言葉を返す。
「コレ、漢方薬だ。アンタ見たところ随分疲れた様子だ、多分あんま食事を満足にしていないんだろう? こんな状況じゃ仕方ないかもしれないが、何かしら口にした方がいい。腹の足しになることはないがこれで必要な栄養もとれるし、アンタの体調も幾分か楽になるだろうさ」
少し苦いが我慢してくれよ、と笑うマツミに、ワラベはどうしようもない気持ちで一杯になった。
「……っ! すまねぇ…すまねぇ、ありがとう…!」
「うわっ、な、何で泣くんだ。 苦いの嫌だったか?」
どこまでもどこまでも、人の為に尽くし、信じてくれるこの薬売りを、自分は、自分たちは裏切ってしまったのだと改めて自覚し、その罪の深さに恐れてしまったワラベは、ただ首を振りながら泣いて、彼に詫びつづけることしかできなかったのだ。
肝心の真実は、自分の口から言いだせずに。
◆◆◆
「あのう、ヤビメは?」
ついにその一言がきてしまったか、とワラベはマツミを部屋に案内している途中で聞かれてドキリとする。
恐らくはもう既に、その少女は生きてはいない。
それでも今ここで、それを自分の口から、この薬売りに告げることができるのだろうか。
拳を堅く握り、目を強く閉じて、唇をかみしめる。
ああ、駄目だ自分は。
「…娘さんは別の部屋で寝てるよ、アンタの部屋よりも快適でな、温かくて良い部屋にしろって村長の奥さんがな」
「へぇそいつは有難う! 実は娘は酷く人間不信というか…他人に優しくされた経験が少ないせいで心をあまり開かないんだ。僕が薬売りの旅にヤビメを連れているのはそれを治すためでもあるんだけど……、そうか、貴方たちに会えて良かった。今頃娘は人の優しさに触れて良い夢を見ていることだろう」
そう笑顔で話すマツミの顔を、見ることができなかった。
何と言うことだ自分たちは、ただの少女ならまだしも負い目ある少女に、まるでトドメをさしてしまったのではないか。
息が詰まるように苦しくなり、固唾をのみ込んだ。
「それじゃあ娘の快眠を邪魔しちゃいけないな、アンタも早く寝ろよ、ただでさえ疲れているようなんだから」
やめてくれ、もうこれ以上心配をしないでくれ。
「…あぁ…あんたもな」
これ以上、卑劣で醜い自分たちの為に、心を許さないでくれ。
「……なぁマツミさん」
「ん? なんだい」
「……すまねぇな」
「ははっ、良いんだよ、コレは恩返しのようなものだし、またこの村を通る時があったらまたお礼させてくれよ」
これ以上、その笑顔を向けないでくれ。
「おやすみ、ワラベさん」
「……おやすみ」
あぁ夜が明ければ俺たちは、この男からどんな顔を向けられるのだろうか。
◆◆◆
朝になってマツミは、ようやく違和感に気付いた。
「あぁそうか…昨晩はヤビメとは別で……どうりで寒いわけだ」
村人たちの気遣いによって珍しくヤビメとは別の場所で、一人で迎えた朝はとても肌寒いもので、なにやら嫌な空気を纏わせた。
「うぅ…はやくヤビメのところに案内してもらおう…」
そうしてマツミは離れの部屋から出て、誰かしらに声をかけようと羽織を震わせるのだった。
「…………え?」
「………」
「………ま、待ってください、じょ…冗談ですよね、はは、もしかしてヤビメと一緒になって僕をからかおうとしているんでしょ? 嫌だな皆さん、あの子にすぐそそのかされちゃ」
「…真実です」
「…………え………」
「…貴方の娘は、昨日我々が、山の神へと生贄としてささげました」
朝、起きてきて早速娘はどこかと笑顔で訪ねてきたマツミに、村長の家に留まっていた四人が、向かい合って頭を下げ、ヤビメはもういないのだと、告げた。
勿論傍にはワラベも身なりを整えて頭を下げていた。
「な、何故………」
「…アンタも知っての通り、俺達の村は山火事にあった。その時に俺たちは、山の神を怒らせちまったんだ。それで……誰かを生贄にささげないと、ならなかったんだ」
先ほどまで未だ諦めきれなかったようにひきつった笑いを浮かべていたマツミも、ようやく理解を始めたように焦った表情へと変わり、その顔色は青ざめていった。
「頭を下げて許されるもんじゃねぇとわかってる。俺ら四人、皆あんたになら殺されてもいいと思ってる」
「だが他の村の奴らは関係ないんだ、俺達だけでやったことだ、他の奴らのことは……許してくれとまでは言わない、手を出さないでやってくれ」
また四人は深くマツミへと頭を下げた。
このまま首を斬られても構わないというように。
「…………」
マツミはといえば、四人を睨むわけでもなく。最早視界にすらいれていないように。
何を見ている訳でもなく、ただ床の方へ顔を俯け、何を言う訳でもないが口を開いているのだった。
四人はそんな彼の様子を空気で察し、頭をあげようとはしなかった。
「……んで」
ようやく口を開いたと思えば、それは自分たちに向けられたものではないように感じられた。
「なんで……あの子は…ヤビメはようやく…ようやく笑うようになったんだ………ようやく僕の傍から離れて歩くことができたんだ……昨日だって僕の腕の中じゃなくても……あんなに……なんで……やっと…やっとここまで………どうして……」
ワラベはその呟きに堪えることができなかった。
「すまなかった!! 謝って許されることではないことは、そんなことは充分わかっている!! だが謝らせてくれ! 頼む!! 俺は…俺達はとんでもないことをしてしまった!! いくら村を救うためとはいえこんな事は間違っていた!! 山の神が相手であろうと、俺たちは誰かの命を犠牲にしてでも助かるべきではなかった!! すまない!! 本当にすまない!!」
ワラベは頭を床に打ち付けて謝り続けた。
涙を流し、血が流れるほどに手を床に押し付け。
「……」
マツミが、立ち上がるのが気配でわかった。
自分の方へと歩いてくる。
あぁ自分は、殴られるのだろうか、蹴られるのだろうか。
もしかすると彼は小刀でも抜いて、自分の首を斬るかもしれない。
しかしそれでも構わないと。
自分の命で償えるものではないとわかっているが、こんなものでいいなら安い物だと。
本当に、すまなかった。
「…あぁ、血が、出てますよ…待ってくださいね…今、蘆薈を…」
「っ!?」
耳を、疑った。
「っな、何をしてるんだ!! こんな傷に薬なんかいらない!!」
「で、でも破傷風の原因にもなりますし……」
「そ、そんなことを言ってるんじゃない!! アンタ…アンタ気が狂ったのか?! アンタの娘を殺したのは俺だぞ!」
そんな男に薬だなんて、おかしくなったとしか思えない。
「…罰して、欲しいんですか」
「…! ………それで、アンタの気が済むなら…」
「それは違うね、アンタはアンタの罪に耐えられないから、私に殺してもらって、解放されたがってるんだ」
「!」
まるで同一人物とは思えない声音が目の前の男の口から発せられた。
先ほどまで感じなかった威圧感のようなものが、目の前の男からは溢れていた。
自分なんてちっぽけな存在なのだと、自覚するような。圧。
「残念ながらと言うべきか、喜んでくれと言うべきか、私はアンタを殺さない、殺せない。アンタらに害を成すのは私の理に反する」
口調もまるで変ってさながら別人のように、静かに、それでいて冷たく、じわじわとつま先から凍らされていくような感覚。
「アンタらを殺してもいいのはヤビメなんだ。あの子だけはその権利があるんだ」
それは、あの少女が自分たちを恨んでいるであろうからということだろうか。
「安心してくれ、私はアンタらを憎んではいないし、アンタらへした行為も後悔はしていない。アンタらだって生き延びるためにはこうするしかなかったんだから」
その時ようやくワラベは顔をあげた。
「しかし山の神ね、フフ笑えるよ」
「えっ」
マツミは笑っていた。
これまでの笑顔とはまるで違う、とても冷たい笑顔だった。
「山の頂上のその、祠、案内してくれませんか」
「あ、あぁ……」
しかしその冷たい笑顔は一瞬の見間違いだったのか、直ぐにあの優しい微笑みへと変わり、ワラベは心中にしこりを覚えながら、立ち上がり、四人も連れてマツミを山の頂上へと案内するのだった。
◆◆◆
「バカな……………」
山の頂上へ着き、一番最初に口を開いたのはヤビメを頂上まで抱きかかえ、祠の穴に落とした男だった。
ワラベも、その他三人の男たちも、口にしようとしているのは同じ言葉のようで、皆信じられないものを見たという顔で並んでいる。
そう、山の頂上へ着いた一行が目にしたものは。
「あ、お父さん、おはよう」
傷一つない少女、ヤビメの姿だった。
昨晩自分たちが祠の深い穴に落とした筈の少女は服の端さえ汚しておらず、無傷で、まるでそこで一晩明かしたかのように欠伸をしながら。
今起きたと言わんばかりの能天気さで自らの父へ言葉を投げた。
「なっ何で……俺はちゃんと祠の穴に……」
有りえないと、首を振る者、恐ろしさで腰を抜かす者。
ワラベはただ、少女と夜明けの朝日が重なって見えて眩しくて、片手を陽にかざした。
「ヤビメ、…すまない僕がいながら」
「ううん、いいんだよお父さん。私ね、お父さんの娘で良かったって思えてるから」
「ヤビメ………」
「昨日の夜、聞いたよ、お父さん村の人皆見て回ったんでしょ? …ちゃんと、お母さんの言ってたこと、守ってるんだね」
「オイ、アンタら……」
いよいよ完全に朝日と親子の姿が重なって、まるで後光のようにさえ見えるその姿を、目を細めて見ながら。
「アンタら一体なんなんだ…」
ワラベは小さく呟いた。
眩しさのせいでよく見えなかったが、その時薬売りは、まるで憐れむような笑みを浮かべていた。
◆◆◆
「いやぁ、お世話になりました」
「それはこちらのお言葉です…あなた方を騙した挙句に村の者達への治療を…」
「いえいえそれは本業ですから、お代も結構ですよ、またこの村へ酔った時、おいしい物食べさせてください」
「それは……その時村が廃れていなければ…」
「だぁいじょうぶですよ、これは一時的なモンです、あと一週間ばかしもう少し耐えて畑を耕してみて下さい。きっといいモンが実るでしょう」
別れのあいさつを村長とかわしながら、マツミとヤビメは手を繋いで、ぺこりと頭を下げた。
「それじゃ、また」
昨日とは違った髪型で笠を被ったマツミはいつもの気の良い笑顔で。
昨日と変わらず長い前髪で表情を隠し、身の丈を超える刀を背負ったままヤビメも笑って。
そうして二人は村を後にした。
「……なぁマツミさん」
「おっ、やぁワラベさん! アンタにも世話になったな!」
村の出口付近で、ワラベは薬売りに駆け寄る。その口からは、言葉は出ない。
「…ん~、最後に一つだ。今後の参考にしてくれ」
「?」
「山の神様は生贄っつうか、どっちかっていうと人の作った食事の方が好きだ! あれは人にしか生み出せない物だ!」
それを聞いたワラベは頷き、笑いながら。
「今度来るときゃご馳走用意するよ」
「ん~ん、ごめんよヤビメ、やっぱ手放さないほうが良かったんだ」
「そんなことないって、いい体験だったし」
「ん~……」
「ね、それよりお腹空いたんだ。オオヤマツミ様」
「ちょっなんで今その名前でっ……わかったよ、だから、ねっ」
しーっと、最愛の娘に笑いかけながら、今日も道を歩いて行く。
醜いと言われた娘と、大いなる山の神は、今日も二人きりの旅路を歩む。