第五話
「初めまして、私はプリメーラ・ヴァトン。この屋敷の主よ。貴方はハーヴェス伯爵様のご令嬢なのよね?御領地はどんな所?もう社交デビューはしているの?」
「あ、あの」
フェスタに案内された部屋に入った途端に、明るい声に迎えられてマリアンナは目を白黒させる羽目になった。
本来なら自分から謝罪とお礼を述べなければならないのに、驚いてしまって、すぐにそれが出ない自分にもどかしさすら感じた。
「申し訳ありません、プリメーラ様。そのように畳み掛けられてはマリアンナ様がお話しできません」
「あっ!ごめんなさい。私ったら可愛い方に会えたものだから嬉しくて、ついはしゃいでしまったわ。だけど、貴方は倒れたばかりだし、いきなり色々話しかけられても辛いわよね」
しゅんと肩を落とすプリメーラにマリアンナが慌てて首を横に振る。
「い、いいえ。大丈夫ですわ、プリメーラ様。私の方こそ、挨拶が遅れてしまい申し訳ありません。マリアンナ・ハーヴェスと申します。休ませていただいた上に、ドレスまでお貸し頂いて本当にありがとうございます。今は何もできませんが、後日、また改めてお礼をさせて下さい」
淑女たるものマスターしなくてはならない完璧な角度で頭を下げながら、マリアンナはとりあえず自分が言わなくてはならないことを言い切った。
これはドレスの支度をし、ここまで来る間に考えていた言葉だったので慌てずに言う事が出来て安心する。マリアンナの辞書に臨機応変という文字は、小さくしか書かれていない。
そんな彼女にプリメーラが嬉しそうに笑った。
「お礼なんて気にしなくていいのよ。困った時はお互い様。さあ、立ち話はやめましょう?お茶の用意ができているから席にどうぞ」
「はい。ありがとうございます」
室内はサロンなのか、大きな空間に趣味のよい調度品が配置されていた。白を基調とした空間に薔薇の花や、それをモチーフにした家具が目立つ。(プリメーラは薔薇のが好きなのだろう)
華やかで、かといって下品などという言葉は見当たらない優雅で贅沢な部屋の様子は、さすが都の貴族の邸宅だとマリアンナは素直に感心した。
そして、窓の近くに用意されたティーセットがあるテーブルへと進み、フロラが引いた椅子に座る。窓から見える外は当たり前だが雨が降っていて、先程までマリアンナが散策した庭園が一望できた。
庭園以外は雨が降りしきる空の様子しか見えない外の風景は、美しいが何となくマリアンナを寂しい気持ちにさせた。
「お茶は私のお気に入りのローズティー。お菓子も飛び切り美味しいものにしたの。体調が良いならぜひ食べて」
「ありがとうございます」
マリアンナは言いながら、向かい合うプリメーラをさりげなく観察した。
屋敷の主だというからもっと年上の人を想像していたが、プリメーラはマリアンナと年齢は変わらない十代後半くらいの年頃のようだった。(マリアンナは今年で十六になる)
長いブロンドはフェスタのようにフワフワしていないが、まっすぐなストレートの髪は薄らとピンクが混じっているような不思議な色合いをしている。瞳は星が煌めく夜を閉じ込めたような紫だ。
全体的に全てが小さく可愛らい作りの彼女は、誰しもが守ってあげたくなるような雰囲気を持っていた。例えるなら妖精か天使と言ったところか。
思いながらお茶を飲んだ瞬間に薫る薔薇の匂いに、庭園で出会ったクリスの姿がマリアンナの頭に甦る。
今日は美少女によく出くわす日なのね、と何故だかのんびりとした感想を心の中だけで漏らして、だけれどクリスの鮮烈な美しさと比べてしまうと、美しいには変わりないのだけれどプリメーラの印象の方が少しだけ薄れるような気がした。(好みの問題かもしれないが)
「本当に体調は大丈夫?無理をしていない?」
「はい。ご心配をおかけしまして申し訳ありません。早く休ませてもらうことができたおかげで、体調も回復しました。プリメーラ様にもクリス様にも何とお礼を言っていいか分かりません」
「そんな!さっきも言ったけど、お礼なんていいの。それより、私達、同じくらいの年頃なんだし、敬語はやめて?お友達になりましょうよ!!」
「お、お友達ですか」
ぐっと机越しに近寄られて手を握られてマリアンナは完全に混乱した。彼女とて友達の一人もいないとは言わない。
ただしそれは貴族令嬢らしい、適度な距離感を持った友達だと言わざるをえず。こんな風にフレンドリーに友達になりましょうなどと言われたこともない。
そもそも貴族令嬢は基本的に感情を露わにすること自体がはしたない事なのだ。しかし、マリアンナの性格上、恩人相手にそれを指摘するのも憚れる。
「あのプリメーラ様のご家族は?」
なので、マリアンナは話を逸らすことにしたらしい。
「プリメーラって呼び捨てて?私もマリアンナ…ううん、マリーって呼んでもいい?」
「え、ええ」
しかし、それは失敗したらしい。
あまりに意固地になって駄目だというのも変な話なので、頷くしかないマリアンナ。それに気をよくしてプリメーラはにっこりと笑った。
「じゃあ、マリーの質問に答えるわね?ええ、ここには基本は私しかない。家族はいないの。だけど、友達は沢山滞在しているのよ?」
「そうなんですか…いえ、そうなの」
プリメーラの物言いたげな視線に相槌を言い直しながら、聞いてはいけないことを聞いてしまった気がしてマリアンナはそれ以上の言葉を発することができない。
というかプリメーラが主という時点で、少なくとも両親がいない可能性は高い事に気が付かなかった自分を恥じるマリアンナ。(貴族同士で会話をすると、家族の話をすれば間違いないので考えないままに口に出してしまったのだ)
それにいくら記憶を掘り起こしてもヴァトンという家名をマリアンナは思い出すことができない事も気にかかる。地位の高い貴族の家名は、覚えようとしなくても貴族である以上、そこかしこで聞き及ぶものなのだ。
それがないということは、プリメーラはマリアンナが知る程に身分が高くない貴族ということなのか?と考えたが、それもないような気がする。
あの庭園を所有している事と言い、この屋敷の全貌は分からないけど、マリアンナが見た部分だけでも、彼女が入ったことのあるどの貴族の屋敷よりも優雅で豪華だった。それほどの財力を持っているのは貴族の中でも高位な貴族に限られるはずだ。
しかし、家名は有名ではなく、家族は誰もおらず、妙齢の貴族令嬢が1人…頭の足りないマリアンナが考えても訳ありの匂いが濃厚だと分かる。
なので、プリメーラが無遠慮な質問に嫌な顔一つしないのを良いことに、マリアンナは次の話題を探した。
「あの、ドレスを貸してもらってありがとう。染み抜きをしてもらっているドレスが戻ったら返すけど、とても綺麗なドレスね」
ドレスは若草色の爽やかなもので軽い着心地だが、コルセットをしなくても体をホッソリと見せてくれるデザインが素晴らしかった。(体調が悪いのでコルセットは外したままにした)
今度からドレスを頼むときは、このデザインにしようと自分が女性にしては背が高く、骨太な体格をしている事を気にしているマリアンナは心に誓う。
ただ、どう見てもプリメーラとマリアンナではドレスのサイズが違うだろうに、家族がいないというのに自分とぴったりのサイズのドレスがあるのかがマリアンナには不思議だった。
「気にしないで。染み抜きが終わってもドレスはきっと濡れているだろうから、今日はこのまま屋敷に泊まっていったらどう?体調も悪いのだし」
さらりと誘われた言葉は、当然の流れと言ってよかった。
倒れて運び込まれた身の上で、しかも、ドレスは言われているように濡れたままだろう。それを着て帰ることは、貴族令嬢としてはありえない所業だ。
だが、その提案にマリアンナは本能的に否の答えを出していた。
自分の中でその理由は分からない。それでも、彼女はこの場に留まりたくないと感じた。プリメーラや使用人、屋敷が嫌な訳じゃない。ただ、家に帰りたいという思いだけかもしれない。もしかしたら、先日の事を聞かれるんじゃないかと恐れているだけかもしれない。
ともかく、嫌だと思ったのだ。
だが、それを何と言って切りだすべきなのか、言葉の上手く出てこないマリアンナにはそれが難問だった。
かくして、思わず沈黙するマリアンナ。そんな彼女にプリメーラは小さく笑った。
「だけど、体調が問題ないなら、家に戻ったほうが良いわよね。倒れたなんてご家族が心配されるだろうし」
「あ、うん」
「なら、お茶が終わった頃に帰れるように、貴方を庭園まで送ってきた御者に伝えておくわ。だけど、濡れたドレスで帰すなんてできないから、ドレスはそのまま着ていって?」
マリアンナは庭園まで伯爵家の馬車に乗ってきていた。倒れてこの屋敷に運び込まれた時に、馬車と御者もこの屋敷に来ているらしい。
それが分かればプリメーラからの願ってもない提案に頷くしかないマリアンナだが、ドレスを借りたままなことには若干抵抗があった。
プリメーラの言っている事は理にかなっているのだけど、やっぱり何となく嫌だった。あつらえた様にぴったりなのだが、いや、それだからこそマリアンナは不気味な気がしたのだ。
「次に会った時に返してくれればいいから。ね?」
しかし、向けられる邪気のない笑顔に、マリアンナはそんな事を考えてしまう自分を恥じた。人間不信気味とはいえ、助けた貰った相手まで疑っては淑女の名折れとまで考えて反省する。(『淑女たる者、受けた恩は一生忘れてはならない』である)
「ありがとう、プリメーラ。それではドレスはお借りするわ。次に会った時にお礼と一緒に必ずお返しするから」
マリアンナも強張ったままに精一杯笑って見せた。(彼女は最近、ほとんど表情筋を使っていないのだ)
そうして、お茶と会話を幾何の時間プリメーラと楽しんだ後、マリアンナは屋敷を辞してフロラと自分の屋敷に戻った。
久々の外出の上に、様々な事があった彼女は家族に簡単に事情を説明した後、すぐに寝てしまう。家族はいろいろ聞きたそうだったが、詳しくは明日にしてくれと頼んだのだ。
疲れた体はきっと、夢すら見ない深い眠りを与えてくれるはずだ。マリアンナはそう思いながら、自分のベッドに横たわる。
しかし、そうは問屋が卸さない。それどころか、その夜、マリアンナはそれまでにない出来事に遭遇することになるのである。