第三話
意識を失ったマリアンナは夢を見ていた。
焼き付いた記憶をリピートさせる夢。彼女にとっては全ての悪夢の始まりなのかもしれない。それはいつだって、この言葉から始まる。
「俺は彼女と結婚する」
そう言ってドレスと呼ぶには程遠い質素な服装をした、だけど、隠しようもない清楚な美貌を湛えた娘の腰を抱き寄せる男。
彼はマリアンナの婚約者のはずであって、そして、今この場は彼とマリアンナの婚約を発表する舞踏会のはずだった。
なのに、私はどうして婚約者と知らない女が身を寄せ合っているのを見なくてはならないのだろう?そこにいて、その言葉を受けるべきは自分ではないのかとマリアンナは鈍い思考で考える。
混乱していて、それでも湧き上ってくる感情は一つではなく、たくさんの辛くて醜い感情が入り乱れ、ドロドロになってマリアンナは自身が分からなくなっていく感覚を覚えた。
傍にいたマリアンナの家族は彼女同様に何が何だか分からないという様子だが、舞踏会に呼ばれた来賓たちは何やら訳知り顔で同情や憐れみ、嘲笑を隠すことができないでいる。
それを感じた瞬間、マリアンナはは自分の一部が酷く冷静になるのを感じたのだ。
(私はハーヴェス伯爵家の娘。どんな時でも、どんな状況でも取り乱して醜態を晒すわけにはいかないわ。考えろ…この場をどうすれば私と家は辱めを受けずに済むの?)
どう見たって一番混乱していいはずのマリアンナであったが、オロオロとしている両親や兄を見捨てる事も、ベタな恋愛物語の主人公を気取る婚約者とその恋人から泣きながら逃げ出す事も、山より高く海より深いプライドを持っていなければならない貴族令嬢たる彼女には考えられない事であった。
取り乱しかけた自分を律するように、マリアンナは顎を上げ視線を真正面に向けて婚約者と対峙しようとしたのだ。
そう、対峙しようとした。だが、その視線は交わることはなかった。
何故なら、婚約者だった男は『俺は彼女と結婚する』とマリアンナにケンカを売るような言葉を吐きながら、その実、その視線は彼女ではなく自身の家族に向けられていたのだ。彼にとってのこの場での敵は、マリアンナという婚約者ではなく、それを取り決めた両親という訳だ。
その言葉を向けられた婚約者の家族も、息子とその恋人の事は知っていたようで、この事態に怒ってはいるようだけど、マリアンナたち、ハーヴェス伯爵家の面々のように何が何だか分からないといった様子は見受けられない。
「馬鹿にするのもいい加減にして」
口の中だけでマリアンナは独り言を呟いた。それはまさしく、彼女のその時の心情を的確に表していた。
何しろ誰がどう考えようと、マリアンナはこの修羅場の当事者であるはずなのだ。
婚約者がどんな筋書きで自分と恋人の恋物語を完成させようとしているかは知らないが、彼が今、一方的に破ろうとしている婚約を交わしていたのは間違いなくマリアンナなのだから。
それを全くないようにふるまって(いや、実際彼にとってはないモノなのかも知れないが)、マリアンナに何の一言もないままに婚約を破棄しようなど、自分という存在を馬鹿にするのも大概にしろと怒りたくなるのも当然である。
強い怒りを感じた瞬間、彼女の心の中は冷たくて、醜くて、強い感情が支配していったのである。そうして、その感情が彼女に囁くのだ。
『憎め』
その声に頷いたマリアンナは、自分の手の中に鋭いナイフがあることに気が付いたのである。