第一話
彼女は前触れもなく現れた。
とある事情から何もやる気がわかない伯爵令嬢マリアンナは、部屋に籠ってばかりも不健康ですからと、美しい庭園へと侍女に誘われて来ていた。
薔薇が有名な庭らしく、見頃は過ぎ去ったはずの薔薇がこの庭園には咲き乱れていて、迷路のように作られた生け垣を彩っている。(特殊な栽培方法を使ってこの庭園では年中薔薇を咲かせる事ができるらしい)
雨が止むことのない国では庭園の散策をする人も少ないのだろうか、マリアンナは傘を差しながら長い時間、庭園の中を歩いていていたが、侍女以外の誰にも会う事はなかった。だから、突然に声がかかった時は驚いた。
「御機嫌よう」
いくら何も考えてなかったとはいえ、真正面に立っている人に声がかかるまで気が付けないなんて…と自分の抜け加減を反省しつつ、マリアンナは取り繕うように御機嫌ようと挨拶を返した。そして、息を飲む。
何しろそこに立っていたのは、彼女が今まで見たこともないほど美しい少女だったのだ。
まず目が吸い寄せられたのは、その燃えるような真っ赤な髪。太陽の光が出る事がない薄暗い空気の中でその赤は、庭園を彩る薔薇の色より艶やかで鮮烈だった。
一分の隙もなく美しく結われているが、見るに鮮やかなその色は、きっと下した方が華やかで美しいに違いない。
加えて髪と同じ色の大きな瞳、それを縁取る長い睫毛、白肌は滲み一つなく、唇は瑞々しくも色気を滲ませて微笑を形作っている。
顔の造りは全体的に可憐で儚げな美少女というよりは、同じ美少女でも勝気で色気のある雰囲気が勝っているが、それでも中々お目にかかれない美少女には違いない。美しいものを見るのは目の保養だと、不躾にならない程度に伺いながら、マリアンナは美少女の横を通り過ぎた。
「マリアンナ・ハーヴェス嬢…ですわね?」
声に名を呼ばれて振り返る。
すれ違ったはずの美少女が顔だけこちらを振り返り、なにやら意味深な笑みを浮かべているのにマリアンナは首を傾げた。美少女とは初対面のはずだが、どうして名前を知っているのだろう?
そう思いながらああ、もしかして彼女のような美しい少女にまで自分の醜聞が届いているのかと気が重くなる。
実は数週間前、都でマリアンナはゴシップの噂になるような醜態を晒したのだ。おかげで折角、田舎の領地から社交シーズンの短い間だけ都に出てきているというのに、こうして人目を気にして外出もままならない。
久々の外出で美しい庭に心癒されていた所で、こんな美少女に噂のために嘲りを受けようとは、悲しいやら、辛いやらでマリアンナは苦々しい思いに囚われる。
だが、マリアンナの愛読書『淑女の三十二か条』によれば、「淑女たるもの人前では何があろうと取り乱さずに平常心を保つべし」とある。マリアンナはそれを思い出しながら自分で自分を叱咤して、少女に向き直る。
「はい。マリアンナ・ハーヴェスと申します。初めまして…でよろしいでしょうか?」
「ええ、初めましてでよろしくてよ。いきなり、呼び止めてしまってごめんなさい。わたくしはクリス・フィルガンド。父は公爵よ」
見るからに身分が高そうなご令嬢だとは思ったけど、公爵ともなればマリアンナの父よりも身分は上である。マリアンナは姿勢を正した。
「畏まらないで頂戴。わたくし、貴方と是非、お話ししたいと思っておりましたのよ?偶然でもこうしてお会いできてうれしいわ」
偶然?その言葉にマリアンナは不信感を持つ。
コロコロと軽やかに笑うクリスの声や笑顔に悪意や裏がある様には見えない。だが、こんな人気もない場所で偶然に会いたい人間と出会う確率が、とても低い事などマリアンナにもすぐに分かった。
ましてや、公爵令嬢ともあろう人が、人気のない庭園で、お付の侍女の一人もなく散歩しているなんて事があるんだろうか?
私に近づいてこの令嬢は一体何を考えているのだろう?マリアンナは警戒した。
「わたくしの言葉を素直に信用できない?」
「はい。申し訳ありません。私、ここ数日で少々人間不信気味なので」
「ふふふ。そんな素直に人間不信だと仰る方を初めて見ましたわ。まあ、わたくしもこんな場所で『偶然』を装えるとは思っていません。お察しの通り、確かにわたくしはとある情報筋から貴方がこの庭を訪れる事を知っていて、ここで貴方を待っていたのです」
色々なことを匂わせる言葉に、マリアンナの頭の中で疑問は沢山浮かんでくる。しかし、畳みかけるように告げられるその言葉に思考の処理が追いつかない。マリアンナは落ち着いてゆっくり取り掛からないと、何事にも対処できない性質なのだ。
何を言っていいか混乱して口ごもってしまうマリアンナに、クリスの整った眉が顰められる。それを見て、何か言葉を返さなくてはと、マリアンナはとにかく一番初めに思い浮かんだ疑問を口に出す。
「私を待っていた用件はなんでしょうか?」
返せた言葉の何と単純な事か。言ってから、もっと聞くべきことがあるだろう。もしくは、同じ言葉でも他の言い方があっただろうと反省する。
こんな気持ちになるなんて、やはり、外になど出るのではなかった。思いながらマリアンナは小さく息を吐く。
そんな彼女をオロオロとする付き添いの侍女が見守る。その視線を感じて、使用人を前に主人として取り乱す訳にはいかないと気持ちを引き締める。
「あら、単刀直入に聞くのね。貴族たる者、会話にはウィットをきかせて楽しまなくては」
だけれど、反省したとおりの部分を指摘されて再び凹むマリアンナ。
「申し訳ありません。貴族と認めて頂けるのは光栄ですが、私などは田舎から出てきていますので、貴方様のお望みの会話は難しいのです」
しかし、ここで下手に反論しても仕方がない。そもそも身分の高い相手と穏便に会話を進めるには、ともかく謙ることが一番だというのがマリアンナの基本姿勢なのだ。
そんな彼女の態度に気をよくしたのか、にっこりと笑ってクリスがマリアンナに近づく。
白いドレスに真っ赤な薔薇がプリントされた派手なドレス。普通なら衣装負けしてしまいそうな派手さも、それ以上に華やかさがある令嬢が着るとぴったりと似合っている。傘もドレスとお揃いなのか、白い生地に赤い薔薇が刺しゅうされていた。
女性にしてはスラリと背が高く、歩く姿さえ優雅で絵になるクリスにマリアンナは僅かに見惚れた。
薔薇が溢れる公園に、薔薇を纏う美少女。むせ返るような甘い香りに、見惚れるどころか何だか段々と気が遠くなるような気さえした。
「ふふふ。いいのよ?そういうのも嫌いじゃないから。それに私も今日はあまり時間がないのよ。だから、簡単に用件だけ伝えるわ。マリアンナ、貴方には誇り高き【薔薇の棘同盟】への入会が許されました」
言って微笑むクリスの微笑みは、まるで女神様のように神々しく、だけど、いや、だから、どことなく近寄りがたいとマリアンナは思った。